桜花火の咲く夜に

四宮 式

桜花火の咲く夜に

 河川敷の花火大会に行こうとアオイ先輩を誘ったのは、4月に入ってすぐの部活のことだった。私と先輩は同じ吹奏楽部に入っていた。高校が甲子園で勝ち進んだから3月の終わりの方まで私たちは日に照らされながらずっと応援歌を練習していた。高校はベスト8まで勝ち進んで地元にも行けるんじゃないかといった空気が流れていたけれど、強力なエースを要した関東の強豪校にあたってあっさりと完封負けを喫した。疲れの溜まるなか私たちが校舎に戻ると、正門の入り口に植えられていた桜が、甲子園に行く前には枯れ木同然の姿だったのに、帰ってみると失意の私たちを嘲笑うかのごとく花を咲かせ始めていた。


 しかし、吹奏楽部というものは決して野球部の付き添いがメインというわけでもない。新しい年度が始まればコンクールに向けて動き出さなければならないのだ。そのために部活内ではかなりの練習が春休みであっても積み重なっていた。コンクールのことを考えれば甲子園の応援はマイナスと言ってもいいくらいだ。だからいつも厳しい顧問の小林もいつも以上にピリピリしながら全体練習をこなしていたし、部活全体にも張り詰めた空気が漂っていた。


 部活の中で、先輩は副部長として活躍していた。先輩の吹くトランペットは誰よりも透き通っていて、私は吹奏楽部に入部した時から見惚れていた。それに比べると楽譜の通りに弾くだけが精一杯な私のトロンボーンは小学生が演奏しているような陳腐さを伴うもので、同じ管楽器の先輩として色々とわかないところを先輩には教えてもらっていた。


 いつも先輩にいろいろなことを教わった。数多くいる部活の先輩たちの中でなぜ私が先輩とよく話すようになったのかはよく分からない。普通に考えれば何かとパート練習をすることの多いトランペットの先輩と仲良くなることが筋だと思う。しかし、私はなぜか先輩に声をかけるようになっていき、先輩もいつしか自発的に私のことを呼ぶようになっていた。通学に使っている駅が同じだったことは一つ理由としてあるかもしれない。


 吹奏楽部には休日は少ないが、それでもたまに休日があると先輩とはよく街に出かけて遊んだ。おめかしして出かける先輩の栗色っぽいロングヘア―がとてもまぶしかった。ふざけて普段触りもしないプリクラの機械をいじくって取れたロクに絵も描けていない証明写真のように小さなプリをスマホに保存した。普段の下校途中であっても、先輩とは一緒にスタバに行ったり、ウィンドウショッピングをしたりして他愛ない、誰もかれもが体験するであろう高校生としての一ページを過ごした。こうして考えると、先輩はとても近い存在だったと思う。


 ところが、いざ楽器を触ると先輩は一気に遠くなった。先輩のトランペットの音色は他を常に圧倒していた。部活で演奏する楽曲の配置を決めるオーディションでも、先輩はいつも最も目立つパートを担当していた。何でも中学の頃にはコンクールで賞を取るほどの実力だったらしい。感情がこもっていて、まるで人間が歌うかのような旋律は、同じ金管楽器を扱うものとして、嫉妬をなどはとうに過ぎ、憧れや畏敬と形容するべき感情を持つようになっていた。


 そんな先輩が最近おかしい。今までの先輩では考えることのできなかったミスをするようになった。トランペットのエースとして不動の地位を保っていた先輩がいきなりこのようなことになってしまったことはさすがに他の部員たちも気づいたようで、別の先輩が「アオイちゃん大丈夫?」と声をかけることもよくあった。


 そんな中、私はその花火大会に先輩を誘うことにした。大会は高校から電車で数駅行って少し歩いたところにある、かなり大きな川の河川敷で行われる。花火大会と言えば普通は夏だけど、その場所は4月始まってすぐに行われることでかなり有名だった。


「一緒に行きませんか?」


 そう切り出すだけなのにかなりの時間がかかって先輩を苦笑させたけど、何とか伝えることができて、先輩は了承してくれた。暖かくなってきたこの季節に先輩と遊びに行けるなってとても嬉しいことだ。それに、今の調子を崩した先輩がこれをきっかけに少し元気になってくれればなおのこと私は嬉しいと思う。


 花火大会の日はあっさりと訪れた。当日は10万人ほどが集まる大きな大会であるため、私たちは花火の場所とりはさっさとあきらめ、夕方になったらのんびりと集まって、のんびりと集合しようということにした。待ち合わせ場所の駅に余裕をもって15分前につくと、先輩はすでにスマホを片手に私の到着を待っていた。


「先輩」


 と私が精一杯の声をかけた。


「あれ?随分早いじゃない」


「えへへ、なんか楽しみで、待っていられずに早く来ちゃいました」


「ふふ、ありがとう」


 表面上はこうして私と会話をするが、それでも先輩はどことなく上の空だった。一応私と話してはいるが、どこか別のところを見ているような気がする。栗色っぽい髪の毛も、いつもより少し透明に見えた。ただ今日は花火大会だ。綺麗な花火大会を見れば、少しは気がまぎれるだろう。


 駅を出るとロータリー前にはすでに桜の木が何本も桃色に化粧していた。遠い夕暮れの太陽と桜の木々がよくあっている。花火大会は一応4月の第一日曜日ということになっている。運よくその日が桜の満開と重なった場合、河川敷に沿って植えられた桜と花火とのコントラストが美しく、その年は「桜花火」と呼ばれる当たり年として数えられるようになる。駅から河川敷に向かう人々の群れは浴衣を着ていたり少しお洒落な格好をしていたりして、いつもの空気とは違う日であることを知らせていた。ハレの日だ。


「先輩!あっちにも桜が咲いていて綺麗ですね~!」


「先輩!今日は何を屋台で食べたいですか?」


「先輩!髪の毛に花びらがついていますよ!」


 私は会場に行くまでの間、私はいつものように先輩に話しかけた。もともと先輩はあまり口数が多い方ではなく、一緒にいるときも基本的は私が8割話して、先輩が2割話すといった程度だと思う。普段の先輩なら、それでも何となく楽しそうにしてくれていることが伝わってきた。たまにくすりと頬を緩める仕草がとても可愛いくて好きだった。今日の横顔はとても素敵なことには変わりないけれど、いつも先輩の周りにある柔らかい空気が少しだけ寂しそうだだった。


 河川敷はたくさんの人でごった返していたけれど、夏の花火大会のような暑苦しさや汗臭さがなく、人混みの多さに比べてそこまで息苦しさを感じることはなかった。清涼感のある南風を浴びながら、私は先輩の手を引いて祭りの会場に向かった。真っ先にたこ焼きの屋台が目に入った。


「ねえねえ先輩、私たこ焼きが食べたいです。半分こしましょう?」


「いいね。じゃあ8個入りのにしようか」

 

 こうしていろいろなものをシェアしながら、私たちは屋台を楽しむことができた。先輩がこっちを向いているときは、多分私と話をしている時だけだったと思う。


 一通り屋台を巡った後、私たちは会場の中心から少し外れた河川敷に腰かけることにした。少し遠くでは花火が上がり、多くの人の歓声や笑い声が聞こえる。結局先輩のなんともない上の空さは最後までなくなることはなかった。たまに我に返ってこちらを見る顔がとても素敵だったけど、それでも少し私との距離が離れたり会話が少し止まったりすると、先輩はまた遠くを見る顔に戻ってしまうのであった。


 今もこうしてじっと花火を座って眺めているけれど、先輩は花火を見てはいない。本当なら聞きたくなかったけど、聞くしかないのかもしれない。ただ、もう少しだけ聞くのはやめておこうかなとも思った。


 だんだん会話が続かなくなる。


「先輩!今度コンクールでやる課題曲、私第二楽章の真ん中あたりのメロディーが難しくて…あの部分はトランペットが旋律をたんとうするから間違えると目立っちゃうんですよね…何度も練習しないとなぁ」


「そうね」


「でもコンクール終わったら次の中間テストまで少し時間が空きますからね!そうしたらまた先輩と遊びに行きたいな!よかったら行ってくれますか?」


「ええ、そうね」


 こんな調子がしばらく続く。さすがに私も黙ってしまい、花火と人々の喧騒だけが目につくようになった。ばりばりと色とりどりの花火が打ちあがり、私たちを照らしている。ここからだと河川敷の桜並木と花火がちょうどよく見える。


「ねえ」


 唐突に声をかけられた。


「どうしたんですか?」


 先輩に声をかけられることは、この場所に座ってから初めてだった。だから何か話してくれるのではないかと思った。しかし、次に来たのは、言葉ではなかった。突然、隣に座っていた先輩がこちらを向いて、私の背中に手を回した。


「先輩?えっと…」


 声が出ない。普段大人しくてこんな大胆なことをしない先輩の行動を見てびっくりしてしまったというのもあるのかもしれない。しかし、それよりも重要な情報の奔流が私の中に流れこんできたことのほうが大切だった。


 最初に入ってきたのは先輩の体温だ。冷え性でいつも冷え切った先輩の手のひらと違って、身体とても暖かかった。次に入ってきたのは匂いだ。柔らかくて心地いい、長い髪の毛からするシャンプーのにおい。そして、ちょっと恥ずかしそうな、でも楽しそうな先輩の息遣い。普段感じることのなかったこれらが、一気に流れ込んでくる。


「えへへ~」


 先輩はちょっと頬を赤らめつつも、そのまま腕に込める力を強くした。柔らかい腕や足が私に絡みつく。


「どうしたんですか?」


 体感でかなり長い時間抱き着かれていたと思う。私がこの言葉を聞いたのはそれからしばらくたった後だった。ふわりとした髪の毛が離れて、先輩が隣に座る。遠くでどん、どんという音が立て続けに聞こえた。そろそろ花火が終わりに近づいて、フィナーレに派手な演出をしているのだろう。先輩の身体に色とりどりの光が当たる。


「ありがとね、今日誘ってくれて。部活とかで調子がでない私のこと、心配してくれてたんでしょ」


 少し息を吸い込んだ後、先輩はそう言った。


「だって先輩、なんだか最近寂しそうで…」


 もっといろいろな言葉を選んでかけたかった。でも、いつもなら声が出るのに、上手く出ない。


「だから、私でよかったら、先輩がもし何か悩んでいることがあったら、聞かせてほしいんです…。えっと、その…、私ができることであれば、やりますから」


 聞くと、先輩は目を少しだけ見開くと、もう一度花火の方向へ向いた。4月のまだ高い空にたくさんの華が音とともに咲いている。


「うん…ちょっとね。だから多分トランペットの調子も上がらないんだと思う。部活の仲間たちにも心配かけちゃってるよね」


「いいんですよ。全然」

 だって、私は先輩のことを多分、普通の先輩としては見ていない。


 トランペットを吹く先輩がきれいだった。部活終わりに一緒に飲んだコーヒーが美味しかった。そしてさっき抱き着かれたとき、ふわっと舞うような気分になった。これは、おそらく普通の後輩が先輩に対して抱く憧れの感情とは、少し違う。


「だって先輩、すごく頑張ってるじゃないですか。毎日トランペットの練習をしているのも知っていますし、夜遅くまで勉強もしているのを知っています。だから、誰かに甘えたっていいんです」


 だからこそ、私は先輩に笑顔でいて欲しい。先輩が何か悲しそうな顔をしていると、私も悲しくてたまらなくなるのだ。できることならなんでもしたい。こうした私の様々な事柄は、おそらく先輩に対して表現してはいけないことなのだと思う。私はただこうして先輩と屋台で食べ物を買って食べたり、花火を見たりしていることが楽しいのだ。決してそれ以上を求めるべきではない。


「ありがとう」


「だから、いいんですよ。話してくださいよ。」


「うん、わかった。」


 そういった後、先輩は少し息を吸ってこう言った。


「えっとね。私、気になってる人がいるの」


 こうして先輩はぽつりぽつりと話し始めた。春の甲子園の前、同じクラスの野球部の男の子と仲良くなってよく話すようになったこと。その子は甲子園で優勝することを目標に、毎日部活を頑張って練習していたこと。レギュラーを何とか取れたこと。そして、甲子園が始まる二週間前に、アキレス腱を切ってしまったこと。それ以降、春休みに入りクラスで顔を合わせることがなくなってしまったこと。ラインも来なくなり、自分からも何を書けば良いか分からずにいること。そのことが何故かずっと気になっていたこと。


「私心配で…落ち込んでないといいなって思ってて…。それでずっとそのことを考えていたら、トランペットの練習に身が入らなくなっちゃって…。」


 どん、どん、と大きな音を立てて花火が上がり、桜並木を映し出した。そこにいるたくさんの桜や上がっている花火はもちろん、屋台の食べ物や歩いている人々全てが一つの絵のように見えた。


「書きたいことを書けばいいじゃないですか」


 自然と声が出た。


「先輩が伝えたいことを伝えればいいんですよ。だって、ラインが通じなくなったわけじゃないんでしょう?自分が今何を考えていて、どうしたいのか、素直に言えばいいんですよ。文章が苦手なら電話でもいいと思います!だから先輩、悩まずに元気出してください!」


 矢継ぎ早に言葉が出た。本来、私が言う資格のないことだ。それが何故か、次々と口に出る。するすると私の中を滑って転げ落ちていく。目の前で先輩が少し驚いたような表情をして、くすりと笑う。


「そっか…そうだよね。あなたの言う通りかもしれない。私、なんだかいろいろと考えすぎてた。私、今日家に帰ったら電話してみる。」


 必死に笑顔を作る。先輩の後ろの方でひと際大きな花火が咲き、その後何もなくなった。遠くで拍手の音が聞こえたような気がする。いつの間にか花火大会が終わったらしい。


「そうですよ!それでいいんです!」


 やはり言葉は上を滑っていく。自分の口から出たとは思えないほどスムーズに、何かに操られているかのように飛び出していく。


「ありがとう。あなたがいてくれて本当に良かった。今日もわざわざ誘ってくれて、こんなアドバイスを貰って。これじゃ、どっちが先輩でどっちが後輩か分からないわね」


「いえいえ!先輩に元気が出たようでよかったです!」


 歓声が聞こえなくなり、夜空を彩る花々もなくなった中、私は先輩にそういった。とても柔らかい、そしていつもよりも深みを帯びた綺麗な先輩の笑顔だけが私の瞳にうつっていた。多分私の笑顔はここまできれいなものではなかっただろう。


 翌日、私は熱を出して一日部活を休んだ。多分花火大会の日に夜風にあたり過ぎたことが原因だと思う。あの日、あれほどきれいに咲いていた桜並木は私が熱を出した日に来た春の嵐の影響で全て散ってしまった。それ以降、先輩とは今まで通り、何事もなかったかのように過ごした。しかし、放課後の先輩の隣は、私ではなく話していた野球部の先輩になっていた。


 夏の地方大会までにアキレス腱は治るとのことである。

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