第17話 命の選択、殺しの選択
警備隊は崩壊の様相を呈していた。
兵士達は指揮官を失い、そのほとんどはもはや正気を失っている。ジェイコブ・ウッズやビアンカ・ラスカーといった手練れを前には、もはや彼らの抵抗は何の意味もなさなかった。
ルークは戦闘には加わらず、兵舎城壁の淵に隠れていた。それは臆病な心待ちというより、自分が前面に出過ぎると、かえってラスカーやジェイコブに余計な迷惑をかける、と言う考えからであった。
戦わないことと、足手まといならば、後者のほうが確実に味方の負担となる。「守らなければならない」対象がいることは、戦闘において不利となる。
マーカス・ジョンストンは先刻銃弾を受け腕を負傷していたが、そこはさすがの医者である。自ら弾丸を摘出し応急処置を施す。しかし彼はまわりのことまで気をかける余裕がなかったのか、あることに気付いた。
メアリーが、いない?
「メアリー!どこだ!?」
マーカスが叫ぶが、反応はない。すると彼は、城壁にもたれかかって僅か笑みを浮かべている兵士を見つける。警備隊副隊長のマルセロだ。メアリーの処置で一命を取り留めた彼は、マーカスに伝える。
「彼女なら…メアリーなら、町長のところへ向かったよ…」
警備隊の拠点から、そう遠くない場所に町長の事務所はあった。その建物は、外観はそこそこ立派だが、そこかしこにボロやひびがある。メアリーは慎重に建物の中に入った。ひょっとしたらここにも町民や兵士たちがいるかもしれない。
しかし、建物の中にはまるで人けがなかった。戦闘が起きている兵舎の慌ただしさとは対照的に、建物内は静寂で包まれている。
メアリーは慎重な足取りで建物内を進む。マルセロの言う通り、ここにガンビラの取引に関する証拠が見つかればいいが…
廊下の先には扉があった。メアリーは恐る恐ると、その扉を開けた。
部屋の中は、テーブルや椅子が雑に乱立していた。部屋の奥には、テーブルに足掛けた1人の老人が座っている。彼は遠目でメアリーを見つめるが、兵士達のように取り乱してはいない。まるで、ここに誰かが来るのをわかっていたかのように。
「君は、騎士団の人間かね…?」
老人がメアリーに話しかけてくる。しかしメアリーは答えず、逆に老人に訊ね返した。
「あなたは…」
「私はこの町の町長だ。…先程兵舎のほうから大砲音が聞こえた。…騎士団達はそこまでやって来てるんだろう?
どうやら、警備隊はしくじったようだ…」
「…ここに、ガンビラの取引に関するリストがあるはずです。それを渡してくれませんか?」
駆け引きも何もない、至極率直なメアリーの要求に、町長は苦笑する。
「くっく…いきなりここに来て、何を言いだすかと思えば…クスリの取引リストを渡せ?とはな…
私が君の要求を呑むメリットは、あるのかね?」
「…この町は、おかしいです。ガンビラは人の精神を狂わせ、肉体を蝕みます。町の人達はガンビラで犯されている…そんな状況を看過するわけにはいきません。」
包み隠さないメアリーの言葉に、やはり町長は笑っていた。
「くっく…まったく君はおめでたい人間だ。町の人間を見たかね?彼らはガンビラなしには生きられない。
この町が崩壊の途上にあった時…王室政府は我々のことを放ったらかしにしていたではないか…
ならばなぜ、今になって…我々の邪魔をする?なぜ…放っておいてくれないんだ…?」
「…私は、王室や騎士団の人間でもなければ、司法院の人間でもありません」
「ならば君は、何者だ?」
町長が、メアリーに尋ねる。
「私は、″青の教団″に所属する薬剤調合師です。自らの知識を、私は人を救うために使わなければならない…
だから私は…あなた達の″間違い″を見過ごすわけにはいかないんです。」
″青の教団″。その言葉を聞いた町長は、酷く侮蔑的な目でメアリーを見やった。
「そうか、青の教団か…あの矛盾に満ちた博愛主義者ども…
君は、教団の指示でここに来たのか?」
「いいえ…私の意思です。この町で起きている現状を、報告しなければなりません。そしてこの町を少しでもまともにしなければならない。それが私の使命です。」
「それが君の、信念というやつか。くだらないな。実にくだらない。この町は何も変わらんよ。
なぜだかわかるか?
変える必要がないからだ。変える価値もない。我々は″ガンビラ″の葉によって、永遠の幸せを享受するんだ。
その先にあるものが破滅だということも、わかっている。…だが全てを修正するには、何もかもが不可能だ。」
「…不可能だと思うから、何も変えられないんです。あなた達は、ガンビラを使うことによって、苦しみから逃げているだけじゃないのですか?」
責めるように言うメアリーに町長は、ややその言葉に怒気を籠らせながら、言葉を返す。
「…逃げて何が悪い。全ての結果には、理由があるのだ。それを理解もしないで…なぜ人を救える、などと思うんだ?
君のエゴでは、誰も救うことなど出来ん。誰一人もな!!」
町長は銃を取り出し、メアリーに発砲した。
メアリーはとっさに回避行動を取る。銃弾がメアリーの頬をかすめ、その白い肌に、鮮やかな赤い血が流れる。
「…外したか。だが次は当てるぞ。」
町長は再度、メアリーに銃口を向ける。メアリーは、テーブルを倒して盾にする。しかし銃弾はテーブルを貫いた。あわよくメアリーには当たらなかったが、向こうは銃を持っているため、絶対絶命の状況だ…
「諦めろ。君はここから生きては出られない。…こんなことに首を突っ込まなければ、死ぬことはなかったのに…」
テーブル横に隠れているため、メアリーの位置を視認できない町長は立ち上がり、彼女のもとに接近する。メアリーはチャンスとばかり、自ら近づいてきた町長に飛びかかり、彼の銃を奪おうとした。
「貴様…やめろ、…離せ!」
抵抗するメアリーの顔面を、町長は銃で殴りつけた。メアリーは殴り飛ばされ壁に激突する。
「うっ…!」
殴られた衝撃で、頭が朦朧とする。町長が再度銃を発砲するが、またしても銃弾はメアリーを外した。
「はぁ…くそ!思うように標準が定まらん。今になって副作用が来たか…」
町長もどうやら、直近にガンビラの粉を服用したせいで、その副作用が体に現れているようだった。
町長はふらつきながら、銃の標準をメアリーに合わせようとするが、やはり手が震えていたため、うまくいかないようだ。
しかしそれはメアリーにとっては幸運だった。
彼女は、銃を構えつつもふらついている町長に、咄嗟に接近してタックルする。メアリーに思い切り飛びかかられて、町長は体勢を崩して転倒する。メアリーは町長に馬乗りになって、彼の銃を奪った。そしてその銃口を町長の喉に突きつけた。
「…私は、諦めない!…あなたなんかに、殺されない!
言いなさい!リストはどこにあるの!?」
メアリーの迫力に圧倒され、町長は部屋の中央にあるテーブルの方を指差す。
テーブルの引き出しを探ると、そこには古ぼけた書類の束があった。
「…これが、顧客リスト?」
「そうだ。顧客の名簿から、クスリの仕入れ場所…搬入先リストまで…そこに全てが記されている。はぁ、はぁ…」
町長の意識はみるみる朦朧としていた。リストを入手したメアリーは、もはやこの場所に用はない。しかし町長は立ち去ろうとするメアリーを、えらく悲嘆な声で呼び止める。
「待ってくれカトリーヌ!私を置いていかないでくれ!」
町長の口から出たのは、謎の女性の名前。なぜ彼はメアリーに、カトリーヌと声をかけているのか。しかしメアリーはすぐに、その意味を理解した。
町長の突然の豹変には意味がある。彼はもはや、幻覚をみている。ガンビラの葉の副作用が、幻覚症状を引き起こすからだ。
「私は、カトリーヌじゃない…」
メアリーは町長に言葉を返すが、彼は薬の副作用で正気を失っている状態。もはやどんな言葉も、幻覚に支配された彼の耳には届かなかった。それほどまでに、多量のガンビラを彼は服用していたということだ。
「なぜだカトリーヌ?なぜ、私を捨てる?お前を愛しているのに、なぜこの町を捨てて出ていこうとする!?」
それは、あまりに悲痛な叫びだった。カトリーヌという女性が、町長の妻なのかどうかはわからないが、彼にとって大切な人物。そしておそらくカトリーヌは町を捨てて出て行ったのだろう。
しかしその事実が、町長の心の中に深い悲しみと絶望を与え、彼を「ガンビラ」へと誘った…
(逃げて何が悪い)
先程の町長の言葉が、メアリーの胸に重くのしかかった。
苦しみから逃れる。その為の手段が用意されているのならば…果たして自分ならば、その誘惑に打ち勝てるだろうか?
町長はメアリーの肩に掴みかかり、なおも声をあげながら彼女を激しく揺さぶる。
「やめて、離して…!」
メアリーは町長から奪った銃を持っているが、彼女には撃てなかった。幻覚に左右され我を失っているこの哀れな老人を、なぜ撃つことなど出来るだろうか?
いや、あるいは自分の手を汚したくないだけかもしれない。苦痛から人を救うことが、薬剤調合師としての彼女の信義。殺すことではない。
メアリーは町長と揉み合いになる。腕を激しく掴まれ、抵抗した拍子にメアリーは後方へ転倒した。
「来ないで!」
メアリーは、なおも迫ってくる町長に銃を向ける。
「…なぜだ?なぜ私に銃を向けるんだカトリーヌ?なぜそこまで、私を拒絶するんだ…?」
メアリーは、迫りくる町長に威嚇射撃をした。銃弾を当てる気はない。しかし正気を失った彼には、もはやそんなものは何の意味もなかった。
「カトリーヌ…私を、殺そうとするのか…?それが、長年付き添った夫に対する仕打ちなのか…!?お前がそのつもりなら…」
町長はメアリーに飛びかかり、その両手でメアリーの首を思い切り締め上げる。
「一緒に、死のう…ともにあの世へ行こう、カトリーヌ…」
「うっ…!」
首を締め付けられ、苦悶の声をあげるメアリー。このままでは、殺される。銃の引き金を引くべきだ。
しかし、メアリーには出来なかった。
自らが死の淵に立たされていても、彼女には、自らの手を汚す勇気がなかった。自分にはやるべきことがあるはず、なのに。
迷いは、死を誘うのだ。
だが、彼女の思慮とは関係なしに、部屋に突如として銃声が鳴り響く。その銃撃は、メアリーのものではない。
「撃たなければ意味がない。…その銃は飾りかね?お嬢さん。」
「あ……」
メアリーは、この声の主がジェイコブ・ウッズ騎士団長だとわかった。同時に、町長の胸には、その服の上までじわじわと赤い模様が浮かび上がり、ジェイコブの放った銃弾が彼の心臓を貫いたことが、容易に理解できた。
「はぁ…はぁ…!」
背後から胸を撃たれた町長は、息ともつかない浅い呼吸を刻ませ、痛みを通り越した全身の悪寒と脱力感から、自らの死を覚悟する。
「…ご老人、残念だが。あんたはもう死ぬ。…まったく。女性に手をあげるとは酷いことをする。」
「くっ…ほざけ殺し屋め…何が騎士団だ…お前たちは…所詮は戦闘狂いの殺戮者だ…!その手でどれけの数の死体を積み重ねてきた…!」
死に際の町長の言葉は、包み隠さない騎士団への憎悪で溢れている。しかしジェイコブはその侮辱の言葉を意に介することはなかった。
「…言いたいことはそれだけかね?ではご老人。安らかに眠りたまえ。」
死にゆく者への敬意の言葉、といえば立派だが、ジェイコブの声色はやはり淡々としていて感情がこもっていない。彼は、自らが殺した相手に対して、感傷に浸るような人間ではなかったのだから。
やがて町長の息遣いはどんどん浅くなり、遂には呼吸を停止した。
「…さてお嬢さん。君の目的は達せられたかね?」
「…はい。ジェイコブさん。…リストは、手に入れましたから。」
「なら、兵舎に戻ってハーヴィー副騎士団長と合流しよう。警備隊は全員殲滅した。」
「はい…」
ジェイコブとメアリーは町長の事務所から出る。空には若干の日の光が、見えかけている。
「あの…ジェイコブさん」
「何だ?」
「…ありがとうございます。助けてくれて。…あなたには、2度助けられました…」
「…気にするな。だが銃ぐらいはまともに撃てるようになってもらいたいものだな。」
「…そうですね。自分の身ぐらいは自分で守らないと、ですね…」
淡々としてはいるが、決して無感情というわけでもない抑揚のあるジェイコブの口調に、メアリーは少しばかり安心感を覚えていた。
兵舎へと向かうジェイコブとメアリー。しかしメアリーは、その道の先に、とある一人の老人が立っているのを目にする。その老人は、ゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。
「あ……」
メアリーは、その老人に見覚えがあった。老人もまた、メアリーのことは知っていた。そしてその老人は高揚気味に、メアリーへと声をかけてきた。
「よう…あんた…あの時の、お嬢ちゃんか!ひっひ…まさかまた会えるとは思わなかったぜぇ!」
その男は、メアリーが町に来た当初——ガンビラの調査をするため、接触した老人。
「ひっひ…その連れの男は何だ?お嬢ちゃん。この前は楽しませてもらった!ここで会えたのも何かの縁だ。またあの時の″続き″をしないか?」
メアリーは、彼からガンビラの粉を手に入れるために、その「体」を売ったのだ。いや、正確に言うと、老人は嘘をついた。
(下も脱ぐんだよ。俺はお前を味わいたいんだ。言うことを聞けば、クスリをくれてやるよ。)
老人は、彼女の肉体を眺めるだけには飽き足らず、「それ以上」を要求した。メアリーは拒否したが、老人は聞かなかった。彼女を無理矢理押し倒し、「本番」を始めたのだ。
「いや…こっちに来ないで…」
ゆるりとした足取りでこちらに向かってくる老人に、メアリーはあからさまな拒否的反応を示す。
「メアリー、あいつは誰だ?」
ジェイコブは尋ねるが、メアリーは肩を震わせて何も喋らない。
「お嬢ちゃん!この前みたいに、脱いでくれよ!そしてまた、俺に″やらせて″くれ!そしたらまたクスリの粉をお前にやるからさぁ!」
老人の言葉に、ジェイコブは概ねの理由を察した。その上でジェイコブは、メアリーに再度尋ねる。
「…メアリー、男が近づいてくる。武器は持っていないようだが…どうする。殺すかね?」
なおもメアリーは答えない。彼女は顔を伏せて、怯えているようだった。
「メアリー。あの男が君に何をしたにせよ、これは君の問題だ。君が決断しろ。…私は、それに従う。」
メアリーは、恐怖で硬直しているようだった。そして今彼女が何らかの決断を下せるような状況にないことを、ジェイコブは理解する。
「…ではメアリー。選択肢は2つだ。
″彼を放っておいてここから離れる″か、
″彼を殺す″かどちらかを選べ。…前者ならば、″イエス″と言え。後者ならば、何も答えるな」
ジェイコブに指示され、メアリーの目には急に生気が戻ってきたようだった。そして彼女は——— 何も答えなかった。彼女の体の震えは、止まっていた。
ジェイコブは僅かに笑みを浮かべた。
「…そうだな。それでいい。…ああ、全く。そうすべきさ。」
ジェイコブは、メアリーの「無言の同意」に従った。
ジェイコブの銃撃が、老人を襲う。老人は、突然の発砲に理解が及ぶ前に、「股間」を押さえながら、痛みで絶叫し倒れる。
「ぎゃああああっっ!!!」
道に倒れ込む老人に、ジェイコブはゆっくりと近づく。「男の急所」を撃たれた老人は、醜い叫び声をあげていた。
「ひぃぃっ!!な、何しやがるてめええ!!
痛い!!助けてくれ!!」
「…君は、メアリー・ヒルを″汚した″んだろう?なら、その償いをしたまえ。」
ジェイコブは、老人に冷たく声をかける。
「ひぎぃいいっ!!償う!償うから!!助けてくれ!!」
老人はジェイコブに懇願する。
「…ならば、償ってもらおう。」
ジェイコブはそう言うと、老人の左耳を撃った。老人はまたも叫び声をあげ、痛みに悶える。
「…償いとは、痛みによってしか為されないのだ…」
ジェイコブは言いながら、老人の右耳、両足、両手を次々と発泡する。老人は泣き喚き、自らの行いを後悔する。だが何もかも、手遅れだった。
「頼む…もう、殺してくれ…!」
撃たれた箇所から血がドクドクと流れ出す。老人は痛みのあまり、泣きながらジェイコブに懇願するが、ジェイコブは言葉を返さない。
「さあ、行こうかメアリー。この男は放っておいても死ぬ。…それでいいんだろう?」
メアリーは何も答えなかった。恐怖の表情は消え失せていたが、それでも彼女の心の中は、徐々に「正気」を取り戻していた。そして気が付いた時には、その心に「鈍く」重たい何かがストンと落ちたような、苦しさを感じていた。それは紛れもなく、自らの「卑劣さ」を自覚したからだった。
老人はもはや虫の息だった。出血多量でそのうち死ぬ。メアリーは、老人のほうに一切振り向かなかった。振り向く勇気が、なかった。
「あらぁ、メアリーちゃんが戻ってきたわ。ジェイコブ、問題はなかった?」
キーラ・ハーヴィーは、兵舎へと戻ってきたジェイコブとメアリーに声をかける。
「こっちは全員片付けたわ。隊長も殺した。メアリーちゃんは、何か成果はあったのぉ?」
「…はい。おかげさまで。ガンビラの取引に関する書類を見つけました。」
「さっすがメアリーちゃんね!やる時はやるじゃない…」
キーラはひどく機嫌が良かった。まるで、一日中散々遊んで満足した子どものような、恍惚な表情を浮かべていた。彼女の心を満たすもの。それは「戦い」なのか、「殺し」なのかはわからない。あるいはその両方かもしれない。
「…まったく。なんてやつらだ。警備隊を全滅させるとは…騎士団どもが…」
唯一生き残った兵士、マルセロがキーラにそう吐き捨てる。マルセロはメアリーに手当てされた後、なんとか一命を取り留めていた。
「あらぁ、随分な口きくのねぇ?無抵抗だからって、殺されないとでも思ってる?」
キーラの言葉にしかしマルセロは怯まず、あくまで反抗的な態度を見せる。
「はっ、殺りたきゃ殺れよ…どの道もう、俺たちは終わりなんだからよ…」
「そう…じゃ、お望みどおり…」
「待ってください!」
マルセロに剣を振りかざすキーラを、メアリーが制止する。
「…キーラさん。その人にはもう戦意はありません。だから、殺さないでください。」
「くすくす…どうしたのメアリーちゃん。この男に随分入れ込んでるのねぇ?」
「…そういうわけじゃありません。その人を手当てしたのは私です。…もう、じゅうぶんじゃありませんか?戦いは終わったんです。ならばもう…無駄な血は流したくはありません。
それに、その人だって…
マルセロさんだって、生きたいはずです…
死にたい人間なんて、いませんから。」
メアリーの言葉に、マルセロはかすかに笑みを浮かべた。
「…さすが、俺の救世主。女神様だぜ…本当に、惚れちまいそうだ…」
マルセロは、誰にも聞かれないように小声で呟いた。
キーラは少しばかり不服そうだったが、マルセロを殺さず、剣をおさめる。
「くすくす…メアリーちゃんの″選択″に感謝しなさいねぇ、自殺志願者の兵士さん?あなたが生きていられるのは、メアリーちゃんのおかげよ?
…さて、と。敵の本陣は陥したわけだし、グレンヴィル達と合流しましょう。」
キーラ達はグレンヴィルと合流するため、兵舎を後にする。しかしメアリーは動かず、深刻げな面持ちだった。
「…どうしたメアリー。早く行こう」
マーカスがメアリーに声をかける。しかし彼女は、何かに耐えるような、絞り出すような声で言葉を放った。
「…先生。私は、卑怯者です。」
「…何がだ?」
「…昔、先生言ってましたよね。患者を救う時、全員を救えないとわかったら、時には命の選択…救えないほど重傷の患者は、見捨てることも仕方がないって…」
「ああ…そうだ。」
「私ね、先生。その逆をしてしまったんです…」
「…どういうことだ?」
「…私、決めてしまったんです。この人なら、死んでいいって。″死ぬべき″だって。
でも自分で手を汚す勇気もなかった…だから、だから…」
「メアリー…?」
メアリーの言葉の意味を、真に理解することは出来なかったが、「身」も「心」も酷く傷つき涙を流す彼女を、マーカスは黙って抱きしめた。
「私は、罪を犯しました。…私は、人殺しと一緒です。」
メアリーは、深く傷ついていた。
もしジェイコブの言葉が本当ならば、
罪は″痛み″によってしか償えない。ならば彼女の心が傷ついているのは、償いになり得るだろうか?
だが重要なことに、彼女は気付いていない。彼女は「敗北」したのだ。自らが「信条」としていたこと。そのうちの一つが崩れ去り、「敗北」した。そして、考え方は変質する。
″経験″は、人を変える。「勝者」は勝ち続けなければならないが、「敗者」はもう、勝つことにこだわらなくて良い。もちろん、敗北してもまた、同じ盤上で勝利を目指す者はいる。だがメアリーは…彼女はもう、勝利にこだわらないかもしれない。
異なる盤上で勝利を目指すかもしれない。それはつまり、これまで「信条」としていたものを捨てることと同義だ。
彼女にとっての罪を受け入れて、二度と同じ過ちを起こさないか。あるいは、罪と「同化」し、再び罪を犯したとしても、大切なモノを守るか。どちらを選ぶのも自由だが、やはり「選択」を迫られる時はいつか来るのだ。
「メアリー……大丈夫だ…大丈夫だから…」
マーカスは、彼女を慰める言葉を持たなかった。
その様子を見ていたマルセロは、複雑な心境だった。
(命の選択、か…じゃあ俺は、選ばれた命ってことだな…)
マルセロは、益々この女性が愛おしくなっていた。
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