10-3.

 帝と后を囲う結界は、決して攻撃を目的としたモノではない。だから、ベリアルの体にダメージがないのは当然だ。


 空間を切り取り、結び、一つの完結した別世界を創り出す――。コレが「結界」ってヤツか……。ベリアルは詰まらなそうに鼻を鳴らした。「結界」はどこまでも防御的な術だろう。拘束、束縛、監禁、牢獄といった「動きを抑える」事に特化した性能だと、ベリアルは予測した。


 即時理解、即座把握は戦場に於いて必要不可欠。大悪魔達は多くの戦いを経験してきた。地獄を生き抜いてきた戦士はしかし、未だそのチカラを十全に発揮出来ない。

 そんな大いなる敵を潰すには今が好機と、セイメイは攻めに転じたい――が、彼にはそうする事が出来なかった。彼が持つ能力は、全て帝と后を囲う結界に費やされていた。他に出来るのは式神を通した通信のみ。彼は命を懸けて結界を維持していた、それ以外に使う余分などない程に。


 ベリアルはゆっくりと起立する。隙だらけの自分に向けて畳み掛ける時間を、敵方は十分に持っていた筈なのに、しかし攻撃は一つとしてやって来なかった。余裕か、策略かは分からない。けれど、もしそうする事の出来ない理由があるなら――、目の前の折り鶴は、文字通りただの紙切れだ。ベリアルはニィと笑み、意を決して結界に飛び込んだ。再び弾き飛ばされるも、天井を器用に蹴り返して、結界へと更に攻撃を重ねた。何度も何度も弾かれる、けれどベリアルは攻撃を止めなかった。


「けっ。なんだよ」やがて退屈そうに溜め息をつき、ベリアルが結界の前で、「詰まらねえ、本当にただの壁じゃねえか」

『言っただろう、この結界は崩せないと』

 悠然と折り鶴は宙を舞うが、敵にはまだチカラがある。ベリアルは笑い、右手に蒼炎を掲げて見せる。

「ベ、ベリアル、待っておくん――」

 前に出たタマモの制止など聞かず、利かず、効かず、ベリアルは哄笑と共に右手に掲げる蒼炎を撃ち放った。


 蒼炎は部屋中に広がり、襖や障子を吹き飛ばし、外界にまで溢れ出た。部屋一面を蒼い爪が舐め上げた後に残るのは、その炎を操る大悪魔のみ。部屋の中心に立つベリアルは腕を組んで仁王立ちし――、しかし不愉快極まりないと顔を顰めていた。


 帝に覆い被さるようにしていたタマモが、恐る恐ると顔を上げ、目の前に広がる半透明な赤い立方体を見た。

 安倍セイメイが張る結界は健在だった。ベリアルは苛立ちを通り越し、ただただ不可解だった。大悪魔の権能は神に従う天使にすら匹敵するチカラ。それを防ぎ得る術が、果たしてニンゲンが持つ事を許されるのか。


「ああ、そうか……」ベリアルは得心が入ったと舌打ちする。「このチカラ――、『星』の権能か」

『御名答。力ばかりを振るう能無しと思いきや、キチンと頭も働かせる事が出来るらしい』

 揶揄する声が上空から振り掛かる。ベリアルが視線を上げると、炎に巻き込まれて吹き飛んだ筈の折り鶴が、新品然としてヒラヒラと宙を舞っていた。


 ……しかし、折り鶴が発した声の中には隠し切れない疲弊が滲んでいた。結界への攻撃は幾らか術師へ影響するのか? ベリアルは散見する材料を集めて、敵の情報を集積する。もしそうなら、結界が崩れるのも時間の問題……。だが時間を迫られているのはこちらも同じ。


 ならばどうするか――。問題解決の糸口は、すぐにやって来た。


「御帝様っ! ご無事でありま、しょう、か……」

 階段を昇り、姿を現わしたのは甲冑姿の男達。腰に差した刀を抜きながらも、部屋を染め上げる蒼炎を見て、皆一同に言葉を失った。


 ――その意識の空白を、ベリアルは見逃さなかった。


『何故、来たのだっ! すぐに退けっ!』

 怒号にも似たセイメイの声は既に遅く、ベリアルの最も近くいた男が足元から蒼炎に包まれた。魂を焼き尽くし、空になった肉体がドッと床に倒れ伏すのを、仲間達は見詰める事しか出来なかった。

 目まぐるしい事態の変化に、武士達は誰一人として反応出来ていなかった。そもそも幽体であるベリアルを視認出来る者とそうでない者が混在する中、統率など取れる筈もなかった。混乱すら訪れない静寂を尻目に、倒れた男が、やがてムクリと立ち上がった。


「あァ……、肉の感触だ」

 焼け焦げた肌がみるみるうちに艶やかに治っていく。無残な有様と化していた死体は、今やベリアルの魂を包む肉体と成り代わっていた。


 帝への異常が発見された時、彼らの下に向かうのはセイメイや「十二花月」だけだと定められていた。しかし、屋外へと溢れ出た炎を目にした武士達は、居ても立っても居られず、忠する王の下へと馳せ参じた。……その忠誠心が裏目に出た。彼らは大悪魔に肉体を自ら差し出してしまったのだ。


 この事態を最も避けたかったのだ……! セイメイは折り鶴の向こうで、そう叫びたくなるのを堪えた。結界を前にして、帝達には決して手を出せない。ならば、敵は撤退を選ばざるを得ない。現れた大悪魔は、それでも幽体だ。その行動には制限が付き纏う。肉体さえ与えなければ、対処する手段は幾らでもある――筈だったのだが……。


 甲冑を脱ぎ捨て、死体だった男の体が不気味な音を立てて変形していく。元あった形を壊し、魂の形を取り戻そうとしているのだ。タマモは、セイメイは息を呑んで、再び目の前に立ち塞がる大悪魔ベリアルの姿を見入る。

「ハッ」

 一笑と共に、ベリアルは腕を振り上げた。瞬く間に武士達が射出された蒼炎に包まれ、悲鳴すらも燃やし尽くされた彼らは物言わぬ炭と成り果てた。


「さあ――、どうする、術師。こうなってもまだ、引き籠っているだけかァ?」

『――いいや、それはない』

 そう答えるセイメイに対し、懐疑的な視線を向けたのはベリアルだけでなく、タマモも同じだった。


 大悪魔は完全なる顕現を遂げた。この先に如何なる策があるのか。


 その答えが――――、階段を駆け上がって姿を現した。


「あァ? なんだ、てめえ?」

 開口一番、ベリアルの人ならざる姿を目にし、不躾な言葉をぶつける青年。遠く英国より来たりし探偵、そして彼の大悪魔が怒りを燃やす張本人、ジョン・シャーロック・ホームズだった。

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