10-1.

 昼寝から、タマモはふいに目が覚めた。しばらく布団の中に寝転んだまま、なぜ目が覚めてしまったのかを考えたが、答えは出なかった。首を回し、隣で眠るヒガンの心地良さそうな寝顔を見て、釣られるようにフフッと笑みを零した。

 体を起こし、タマモは周囲を見回した。誰もいないし、何もない。外は寝ている内に闇夜に落ち、その中を映すのは月の光だけだった。――その白い光の中に、ズルズルと影が躍り出た。


 床の上に汚泥のような黒い塊が湧き出る。タマモはその姿に目を見開き、布団から跳び起きた。


「誰じゃ、不届き者……。姿を見せよ……ッ」

 タマモは素早く刀掛けから刀を取り、切っ先を泥に向けた。

 飛沫を生じさせながら、泥が続々とうず高く積み重なっていく。その泥がやがて人の形を取った瞬間、床や壁に飛び散り、やがて消えていった。

 残った人型の影がゴキッと音を鳴らして首を回した。「あァ……」と呻き声を上げて、確認するように周囲を見回す。


「なんだァ、ここは。辛気臭せえ場所だな……」

「どなたでありんすか……ッ!」

 影は声のした方――、タマモへと顔を向けた。影は彼女を見るなり、ニィと歯を見せた。

「よォ、久し振りだなァ。見ねえ内に随分とニンゲンに染まり切ったみてえじゃねえか」

 この、声――……。タマモは目の前の影の正体に信じられないと目を見開く。


「どうしてお主がここにいるでありんすか――、ベリアル……ッ!」

 影が腕を上げる。その手の平の中に突如、ボウッと炎が焚き上がる。その炎に照らされた男の顔は――、『七大罪』の第二冠傲慢を被る大悪魔、ベリアルだった。

「コッチに来たかったからだよ、悪りいか」

 ベリアルは手から立ち昇る炎を灯りにしたまま、もう片方の手を腰に当て、詰まらなさそうに零した。

「しかし何年――、いや何百年振りだァ、お前? 何してんのかと思いきや、イイ恰好して腑抜けた顔してんじゃねえか」


 そう、まるでニンゲンだ。ベリアルはタマモを睥睨しながらそう思った。ニンゲンと同じ服、同じ表情をし、同じ生活をしている。けれど、角と尾だけが彼女が魔である事を辛うじて示している。なんという体たらくだろう。――悪魔とニンゲンが、同じところにいられる筈がないと言うのに。


「今更、現世になんの用でありんすか。さっさと帰っておくんなし」

 憐れむようなベリアルの目を尻目に、タマモは戦々恐々としていた。旧知とは言え、相手は大悪魔。一体何をしでかすのか、分かったものじゃない。

「そうもいかねえよ」ベリアルは不敵な笑みを突き付ける。「『特異点』が現れた――。そう言やあ、お前も意味が分かんだろ」

「――――」

 タマモはベリアルの言葉に、息を呑む事すら出来なかった。


「わ、わっちには、もう関係ない事でありんす……」

 タマモが辛うじて紡いだのは、そんな言い訳めいた言葉だった。ベリアルはそれに唾を吐いて笑った。

「ハッ。テメエはそうだろうよ。ニンゲンに毒され、堕落しきったテメエにはな。ったく、あのマグロ女とタメ張れるような怠惰っぷりだ」

 マグロ女……。ああ、ベルフェゴールの事か……。タマモは懐かしい名を思い出し、苦い味が口の中に広がるのを感じた。


「……兄いは何かをコチラに仕掛けるつもりなんざんす?」

「兄貴が? ……ハッ!」その問いに、ベリアルは尖り声を上げ、彼女を強く睨み付けた。「その兄貴が、ホームズのガキにやられたんだよ。ナメやがってよォ、クソが……ッッッ!」


 タマモは昨日出会ったばかりの青年の姿を思い出す。碧色に燃える瞳――、彼は確かシャーロック・ホームズの息子だった筈……。まさか彼が兄いを――、ベルゼブブを倒してのけたと言うのか。


 死んだ訳ではないと否定するベリアルの言葉に、タマモは一先ず安堵した。

「そのお方に一体なんの用でありんすか」

 だからと言って、最早自分と彼に関わりはない。自分はアチラを捨て、コチラで生きると決めたのだ。

「ここはわっちの家でござんす。派手に暴れたりしたら、それを許せる訳がござりんせん」

「なんだァ? オレと喧嘩しようってのかァ?」

 心底愉快そうに、ベリアルは笑って牙を剥いた。


 タマモは彼と戦って勝てる道理があるとは思っていない。むしろ確実に負けると分かっている。それでも、ここには愛する人がいる。彼を巻き込み、危険を晒すような真似は絶対に許せない。


 しかし結局、ベリアルは目付きを険しくするタマモを鼻で笑ってあしらった。

「テメエと喧嘩したってつまんねえよ。用があるのは、ホームズんトコのガキだけだ。アイツをブッ殺す為に、オレはコッチに来た」

 子供みたいな理由だが、彼は《傲慢》だ。自らの要求、欲求に従わぬなら、破滅させるが彼の道、彼の定め。


「まあ、その前に肉体をどうにかしねえとな……」

 タマモはそう呟いたベリアルの足元を見て、ハッとする。彼の足先は透けて見えない。今、ここにいる彼は幽体――、魂の姿なのだ。肉体を手に入れなければ、彼は何も出来ないまま消えてしまうだろう。


 悪魔が地獄から人間界に入る為には、肉体を置き去りにし、魂を晒さなければならない。そうして人間の世界にやって来たら、彼らは人間に憑り付こうとする。その暁が「魔人」だ。人間の体に憑り付き、肉体の主導権を奪い取ると元あった魂を地獄へと送り、空白になった肉体を我が物にする。

 聡い悪魔は幾つもの肉体を人間界に用意しておく。それは「縁」としても機能し、万が一、祓魔師に地獄に送り返されたとしても、次の機会をすぐに作れる。


「さっさと体を頂きに行くか――」

 そう言ったベリアルの目が、タマモのすぐ傍で眠る帝を捉えた。途端、タマモは身を翻して彼の前に立ち塞がった。

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