9-3.

「今知った事を彼に伝えるかどうかは君に任せるとして、」男はテーブルの上の紅茶を一口含み、「君の親友が此度の人類史の方向性を決めたと知って、それでも君は舞台に上がりたいと言うのかね」


 ……舞台? ジュネはその言葉が、今までとは異なる意味を孕んでいるような気がした。


「……何度聞かれても同じだ」ヴィクターは固い決意を伺わせるような力強い声で、「ボクは決めたんだ。待っているのはもう飽きた――、今度はボクが戦う番だ」


 それは「彼女」も同じだった。だから「彼女」も行動を起こした。その果てに待っている罰を知りながら。

 ……男は胸の内で笑む。――面白い、心底面白いと歯を見せる。役者達が魅せる喜怒哀楽、そのドラマを間近で楽しむ事が男にとって生きる理由、意味、大義だった。その為になら、例えどんな大罪を犯そうとも――――、


「…………」男は値踏みするようにヴィクターを見詰め、「ふむ。その揺るがぬ決意、受け取った」

 男はそう言って紅茶を飲み干すと、杖を片手に立ち上がった。


 ヴィクターは立ち去ろうとする男の背中に向けて、

「……第九分隊は魔人王から『世界』の構造を見せられたと言ったな」

 男は立ち止まり、ゆっくりとヴィクターに振り返った。彼は男に立ち向かうように、

「ならば、貴方の今までの悪行は、それを踏まえた上で必要な事だったのか――、ジェームス・モリアーティ」

 ヴィクターが口にした男の名に、ジュネはとうとう息を呑んだ。


 ジェームス・モリアーティ。世界で最も有名な魔人の一人。世界各地で悪行を重ねながら、しかし手掛かり一つ残さない手口。研ぎ澄まされた頭脳と知識量から導き出された犯罪行為はあらゆる捜査機関や『教会』の手を阻み続けた。故に彼は『悪逆帝』の二つ名で呼ばれる事もあった。


 なんでヴィクターがモリアーティと一緒にいるの? 彼が『悪逆帝』と共にいる理由がちっとも分からない。一体いつからヴィクターはあの男の下にいたのだろう。一体なんの為に、どんな理由で――ッ! 湧き立つ疑問は後を絶たない。絶望にも似た想いに掬われ、ジュネは息が出来なくなり、思わず胸を押さえた。


 そんなジュネの苦しみを知らず、ヴィクターは椅子から立ち上がり、モリアーティと対峙する。

「それらをかつての仲間だったシャーロック達に邪魔されて、どんな気分だった?」

 モリアーティの悪行はしかし、その全てが成功して来たわけではなかった。常に彼の前に立ちはだかったのは、かつての戦友であるシャーロックとワトソンだった。


「――悪くなかったよ、君ィ」

 面白そうに、実に楽しそうに。喜びに満ちた笑みをもって、モリアーティはヴィクターの問いに答えた。


 この男が引き起こした事件でどれだけの人々が涙を流して来たのか、最早数える事は出来ない。メアリーと、彼女の家族だってその一部だ。けれど彼は楽しんでいる、心の底から楽しんでいる。


 ――悪。ただその一言に尽きる存在を目の当たりにし、ヴィクターはいっそ怖気立つように後退った。


 モリアーティは二の句が継げなくなったヴィクターを見、詰まらなそうに鼻を鳴らした。立ち去ろうとする彼の背中に、ヴィクターは慌てて口を開く。

「結局、貴方はボクに何を告げたかったんだ。リスクを抱えながら、それでも尚、ボクに覚悟を問いたかったのか」

「そうだとも」モリアーティは、今度こそ彼に振り返らなかった。「戦おうとする君が見定めなければならない真実を前に、それでも武器を手に取る事が出来るのか。努々、良く考えたまえ」

「…………」

 真実を真実として。事実を事実として。現実を現実として。科学者の彼は、目の前にれっきとして存在するモノを肯定する。彼の頭脳は、その存在を定義するに値する公式を構築する。


 ジョンの『十字架』が『黙示録』へのスイッチを押した。終わりを回避する為に、『教会』は地獄への侵攻を世界に提案した。そして、恐らくそれは可決される。『十字架』を切っ掛けに、この世は未曽有の大戦を開始しようとしているのだ。

 自分にその未来を告げたのが、魔人王に「構造」を見せ付けられたジェームス・モリアーティだという点が、最も重大な事実に思えた。彼の言葉の内、どれが嘘で、どれが嘘でないかを判断するのは難しい。人間を騙すという意味で、彼の右に出る者はいないだろう。だから、彼の話をどこまで信じていいのか分からず、ヴィクターは歯噛みした。


「次の面会はまた追って連絡する。それまでにアレの完成を急ぎたまえ」

「……もう最終段階まで来ている。それほど長くは待たせない」

 ……結局のところ、自分は何も出来ない。今はただ待っている事しか出来ないのだ。戦争は恐らく始まってしまう。ならば、それに勝つ為に何をすべきか考えろ。ヴィクターは己の無力をも受け入れ、そうして道を探る。

 ヴィクターは暗い面持ちのまま、重い溜め息をついた。それを耳にしながら、モリアーティが喫茶店を後にする。――最後に、生垣の傍で蹲る女性の姿を横目に流しながら。


 ジュネはモリアーティが去って行く姿を見ないようにし、逃げるようにその場から離れた。絶対にヴィクターに見付かってはいけない――、ただそれだけを考えていた。


 ヴィクターとモリアーティの会話の全容を把握出来た訳ではない。だが、ジュネにとっては彼らが繋がっていたという事実の方が衝撃的だった。どうしてヴィクターが魔人と――しかも、よりにもよってなぜモリアーティなのか。

 ジュネは裏切られた事実に打ちのめされていた。当てもなく走り続け、やがて息が続かなくなり、彼女はその場にへたり込んだ。


 どうしよう……。ジュネは冷静な判断力を失っていた。一体自分はこの事実をどう受け止め、どう処理をすればいいのか分からなかった。

 ジョンに話そうか……。いや、彼に余計な重荷を背負わせたくない。ならばジェーン、……いや、彼女だって同じだ。一体、一体わたしはどうすればいいの……。ジュネは目の前が真っ暗になり、体が動かなくなった。

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