5-3.

「どうでした」

 道場に残ったコウスケはジョンの下にやって来て、彼に問うた。ジョンは静かに立ち上がり、

「もう一度、相手をして欲しい」

 ジョンの目を見、コウスケは目を見張る。瞳の中で揺れる陽は、上機嫌そうに揺れていた。どうした事だろう――、コウスケは不思議に思いながらジョンと共に中央に立った。


 そんな二人を見ながら、翁師は愉快そうに笑った。

「何か見付けましたかな、ほうむずさん」

「それを確かめたいんです」

 たった二時間、しかもただ見ていただけだ。それなのに何かを掴み得たのか。コウスケは信じられない思いで、ジョンと相対する。


 コウスケは構える。右手右足を前にして体は半身。対して、ジョンは左手左足を前に同じく半身。両者開手を下げ、体重は後ろ脚に預けていた。

 ……先と違う、前回は前重心だった筈だ。コウスケは目を見開いて、相手の一挙手一投足を見逃すまいとする。必ず彼は自分から前に来る、彼はそう確信していた。――だから、ジョンの体重が前脚に移動し、自分へ向かって飛び込んで来る前に十全な心構えが出来ていた。


 足が床を潰し、そして襲い来る左の拳。先と何も変わらないではないか。コウスケが少しの落胆を滲ませながら、その腕を取ろうと自身の腕を伸ば、す――、

「――――」

 しかし、腕を取られたのはコウスケだった。ジョンは彼が腕を伸ばす挙動を見せるや否や左拳を開き、体を回しながら、伸びて来た前腕を取った。同時に右手を伸ばして彼の手首を取ると、ぐっと捻り上げた。そして、ジョンが左手に力を込めると、コウスケの体が崩れ落ちた。

「ぐ……っ」

 コウスケは呻き、空いた左手を床に付いた。


「で、ここからこうするんだよ」

 ジョンはそう言うと右脚を振り上げ、コウスケの顔の前でピタリと止めた。

「…………」

 コウスケは信じられないといった面持ちだった。たった二時間、それも見ていただけなのに、技の一つを物にしている。一体どんな眼を持っているのか。


「ふむ……」

 そんな彼らを、髭を擦りながら面白そうに眺めるモリヘイ。手や脚の動作などの分かり易い表面的な部分だけでなく、重心や体重移動といった内面にすら、観察が行き渡っている。生半可な努力では得られない、真と実を捉える特別な眼。誰かはソレを――「真眼」と呼んだ。


「父親譲りか、それとも自力で得たのか、その眼、その瞳」

 モリヘイの言葉に、ジョンは振り返る。

「親父からは何も教わってませんよ。ただ殴られ、蹴られ、投げられ、跳ね返されました」

 ジョンの返答に、モリヘイは少し目を丸くした。


 ジョンは父から技や術を教え込まれた訳でなく、ただ実戦しか経験していない。何も語らない父――、 それでも何かを得ようとして、ジョンは経験を繰り返し反芻し、反省し、思い返した。父が繰り出した技や術の原理を推測しては実験し、実践し、体に刻み込んだ。そうして出来上がったのは、異常なまでに正確な観察眼と洞察力。戦闘に於いてどう体を動かすのかではなく、その思考法を完成させた。

 息子がそこに行き着くように、父が敢えて何も言わなかったのかは定かではないが、ジョンが辿り着いたのは父と同じスタイルだった。

 敵を観察し、敵を予測し、敵を推測し、敵を思慮し、敵を想像し――、敵と息を合わせる。敵との同一化こそが目指す極地。敵の思考が手に取れるならば、最早攻撃は攻撃でなくなる。敵を意のまま、まさしく思うがままに出来るだろう。


「……ほうむずさん、わたし達の術はどのようなモノか、言葉に表せるか」

 モリヘイの唐突な問いに、ジョンは少し考える風に顎に手を当て、

「……力の流れ、人体の反射や反応に構造、体重や重心の位置などを円運動を中心に翻弄し、操作し、誘導し、掌握し、相手を無力化する事に特化した武術――ですかね」


 争わず、抗わず、競わない究極の護身。――父はそれを元に、けれど敵を倒す術へと変貌させた。


「父の――、そして僕の原点がこの武術にあると思います。けれど、僕らは貴方方が生み出したこの術を、敵を倒す為に使っている。だから、僕らは貴方方に……なんと言いますか、とても失礼な事をしてしまっている気がします……」

 ジョンは言葉を濁し、どうしようかと頭を掻いた。困り果てる彼の様子に、モリヘイは口を開いて笑った。

「ほうむずさんも貴方のお父さんも行き着いた答えは同じ場所だ。敵との同一化――、敵と気を合わせる。我々が辿り着くべきは、自分を殺しに来た者と握手を交わす事だ」


 戦わない武術――。そんなモノが存在するだなんて、ジョンは考えて来なかった。


 ジョンは幼い頃から父に勝つ事だけを考えて生きて来た。本当にただそれだけの人生だった。鍛錬も稽古も手を抜く事なく、常に頭の中で父との戦闘を繰り返し反省し、あまつさえ夢の中でも架空の敵と戦って来た。彼はなんの才能も持たない平々凡々な一般人――、それは肉体面だけの話。異常なるは、その心。ただ一つと定めた方向にのみ邁進し続けられる異常なまでの集中力だった。

 真実、異常。ジョンは常に思考する。――例えば、目の前に立つコウスケが突然、刃物を取り出して襲い来るならば、自分はどうする、どう動き、どう倒すかを彼の脳は無意識に計算する。相手は誰でも構わない、モリヘイだろうが父だろうが――、それこそ幼い頃から共にいるジャネットやジェーンであろうとも、彼の脳は常に「もしも」を思考し続ける。戦闘にだけ向けられた思考、ジョンは自らの魂にそんな修羅を棲ませていた。

 ……けれど最も異常なのは、ジョン自身がそういった異常性を「善し」としている事だろう。彼は悔やまない――、全ては父に勝つ為。それ以外は要らないと、彼は自らの魂にそう刻み込んだ。


「金田一も得られるものがあっただろう。良き試合だった、ほうむずさん」

 モリヘイにそう言われ、肩を叩かれたコウスケがまたも目を落とした。どうも様子がおかしいが、何かあったのだろうか。


 しかし、時間だ。生徒達が帰った今、もうこの道場は閉まるのだろう。胸にわだかまりを残しながらもジョンとメアリーはモリヘイ達に礼を言い、道場を後にした。


 去っていく二人の背中を見ながら、コウスケはハアと大きく溜め息を付いた。

「金田一」

 名を呼ばれたコウスケが師の方へ振り返り、その転身と合わさるように放たれた平手が彼の頬を薙ぎ払った。成す術もなく床に倒れたコウスケは、そのままの姿勢で師を仰ぎ見た。


「目を反らしたな、馬鹿者が」先とは一転して厳しい口調。モリヘイは鋭い目でコウスケを睨み付けた。「敵から目を離すな。そんな基本など言葉にするまでもないだろう」

「それは……そうです。返す言葉もありません」

 コウスケは立ち上がり、頭を下げた。そんな彼の沈んだ顔を見、今度はモリヘイが嘆息した。


「お前が注意を逸らすとは、何か理由があるのだろう。どうしたのだ」

「…………」コウスケは師から目を反らし、ジョン達が出て行った扉の方へ顔を向けた。


「自分などが――、彼を騙した自分が、彼と対等に相手をしていいのかと、迷ってしまいました」


「ふん?」モリヘイが髭を撫でながら首を傾げる。しかしそれ以上、コウスケは口を開かなかった。「何があったかは聞かぬが、お前は必要以上に背負おうとする。持ち切れない荷物はどうしたって持てない。いい加減それを知りなさい」

「そう――ですね……」

 出来れば自分だってそうしたい。コウスケは胸の中でそう呟きながら、頭の中で水無月アジサイの姿を思い浮かべた。……溜め息しか出ない。コウスケは頭を振って、アジサイの面影を振り払った。


「良い試合だった」再びモリヘイはそう言った。「あの若さでとてつもない才能を持っている。世界は広いな、この国にいるからこそ、余計にそう考えてしまう」

「そうですね」コウスケは頷く。その口元には少しの笑みを浮かべながら、「それに彼は善良な人です。多数を救う為に自分が傷付くのを躊躇わない」

「お前とは違うか」

「はい」コウスケは翁師へ振り向く。「自分は、卑怯者ですから」

「卑怯などではない。お前は考え過ぎるだけだ。考え過ぎて、答えを出す頃にはもうお前しか残っていないのだ」

「…………」

 言い得て妙だと、コウスケは笑う事も出来なかった。

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