5-4.

「お疲れ様です」

 道場を出てすぐに声を掛けられたジョンはそちらへ振り向くと、そこにはナズナが立っていた。「汗をお拭き下さい」と、彼女はジョンに腕に持っていた手拭いを差し出した。

「ありがとうございます」

 ジョンは素直に礼を言い、額の汗を拭った。


「宿泊用にお部屋を用意させて頂きました。そちらへご案内致しますね」

 ナズナに従い、ジョンとメアリーは再び城内へと戻る。板張りの廊下を歩きながら、

「植芝様にお会いになれたのですか?」

「ええ、いい勉強になりました」

 嬉しそうにそう言うジョンの顔を見て、ナズナは「ふふっ」と思わず笑ってしまった。どうしたのかと眉を上げるジョンに、彼女は弁解するように手を振る。

「ああッ、申し訳ありません。バカにしている訳ではないのですよ。けれど貴方が、まるで少年のように笑うので、意外だなと思ってしまって……」

「いえ、別に気にしていませんが……」

 少年……、童顔が災いしているのだろうか。ジョンは自分を顧みながら少し落ち込む。彼は幼く見える自分の容姿を気にしているのだ。


「好きなのですか、ああいった武術や体術が」

「まあ……、そうですね」ジョンはどこか言い難そうに、「僕にはそれしか取り柄がないですから」

「だからお強いのですね。姉から少しばかり聞いておりますよ」

 ジョンは自分の知らないところで自分が話題になるといった状況が苦手だ。一体どんな風に伝聞されているか分からない。陰口や悪口ならまあ仕方ないとしても、変に持ち上げられたりしたら、どうしたってやり難い。だから彼は、ナズナの言葉に何も言わず、苦笑いだけを返した。


「ナズナさんはいつもここで働いているんですか」

 ジョンは無理矢理話題を変えた。「そうですね」とナズナは頷き、

「わたくしはこの城の侍女に過ぎません。ですから、今回の事件につきましては本来なら無関係なのですが、姉に良いように使われてしまっているのです」

 ジョンは少し驚いた。政府の関係者だと思っていたが、早とちりだったらしい。


「わたくしとアジサイは『十二花月』の六月、『水無月』。帝に仕える十二の家系の一つです」

 政府でも異端審問会でもない、この国の王に連なる十二の血――、「十二花月」。当主は初代から続く「名」を連綿と受け継ぎ、それは皆、花の名が付けられていた。


「姉は破天荒な人ですから、その軛から外れ、積極的に政府と連携を取っています。今回の『国際会議』に彼女が派遣されたのも、その関係があるからなのでしょう。政府と『教会』は不可侵ですが、無関係ではいられませんから」

 勿論、異端審問会も動いておるようですが。ナズナはまるで忠告のようにそう言った。

 しかし、それは英国も同じだ。英国の異端審問会である「MI6」も『国際会議』に潜り込んでいた。その手先の一人が、他でもないジョンだった。そう言えば、結局自分の仕事は彼らの役に立ったのであろうか。まあ、向こうに帰ってから、改めて伯父さんと連絡を取ればいいか。


「お姉さんは、確かに捉えどころのない人でした」

 ジョンがそう言うと、ナズナは少し可笑しそうに笑って、

「傍迷惑な人――と、仰って頂いても結構ですよ?」

「……ああ、いや」

 ジョンは言葉に詰まり、頭を掻いた。ナズナは揶揄うように笑いながら、

「ふふ、正直な人ですね」

 そして、すっと自分の腕をジョンの腕に絡ませて見せた。思わずビクリと身を縮ませるジョンを尻目に、ナズナはなんでもない様子で、

「……『水無月』は女系の一族。何やら殿方を堕落させる名器ばかりらしく――、どうです。一度試してみます?」

 そう、ジョンの耳元に口を近付けて囁いた。

 ジョンは視線を宙に泳がせた。衣服越しに伝わって来るナズナの体温が生々しい。近付けて来た顔は美しく、腕に押し付けられる肉の感触はどこまでも蠱惑的だ。雄ならばどうしようもない魅力を放つ彼女を――、

「いや、いいいいいいです……ッ!」

 ジョンはナズナの腕を振り払い、素早い動作で後退った。彼は色恋沙汰が破壊的に苦手だった。女性の裸など想像しようものなら、支離滅裂な言動を繰り返しながら、即座に耳まで赤く染める。そういった悪戯を、今まで幾らジャネットに仕組まれたか分からない。


「あら、残念」ナズナは艶めかしく舌を出して唇を舐める。「ですが気に入った娘を城内で見付けましたら、遠慮なくお声掛け下さい。貴方の旅の疲れを癒しに参る事でしょう」

「…………」

 ジョンは何も考えないように努めながら、けれど頬を赤く染めた。

「うふふ、悪ふざけが過ぎたようで」一頻り笑ってから、ナズナは小さく頭を下げた。「ですが、何やら揶揄われるのがお好きなように見えましたので。もしや、普段からそういった扱いを受けていらっしゃいます?」

「…………」

 ジョンは相変わらず黙したまま、しかし心当たりが多過ぎる事実に辟易した。

 そして、ナズナは大きく一歩を踏み出すと、ジョンの正面に回り込んだ。思わず身構えるジョンを尻目に、ナズナは彼の顔に自分の顔を寄せると、至近距離から瞳を覗き込んだ。

「……不思議な魅力が感じられます。どうしてでしょう。放ってはおけない何かが、ホームズ様の内から伸びて、わたくしの手を引くのです」

 ジョンは顔を強張らせたまま、金縛りを受けたようにその場から動けない。降参を示しているのか、牽制しているのか、諸手を上げた姿勢のままだった。

「……ですが、」ジョンの眼前で、ナズナが優美な笑みを浮かべる。「わたくしには約束した相手がいますので、先程までの言葉、努々本気にされる事のないようご注意くださいませ」

 そう言ってから、すっとナズナがジョンから一歩離れる。ジョンは呼吸を思い出したかのようにドッと息を吐いた。

 ……結局、彼女の言葉は自分を揶揄う為のものだったらしい。ジョンは安堵する一方で、己の内に肩を落とす自分の姿を見付けた。そいつを勢い良く殴り飛ばしてから、「仕方ないじゃないか、僕だって男だもの」と言い訳のように胸中で呟いた。


 しかし、そんな彼の姿をメアリーは睥睨し、ぼそりと呟いた。

「なんか、厭らしい」

 耳に届いた彼女の言葉に、ジョンは何も言えない。狼狽える情けない醜態を見せてしまったと、彼はくっと歯を食い縛った。

「帰ったらお姉ちゃん達に言っちゃお」

「待て待て待てッ、頼むからそれだけはやめてくれ……!」


 お姉ちゃん達――、ジャネットとジェーンそして、ジュネの事だろう。ジャネットはこの上なく愉快そうに自分を揶揄うだろうし、ジェーンはもしかしたら怒るかも知れない。ジュネは露骨に軽蔑するような視線を寄越すだろう。……そんな事態は絶対に避けたい。続いたメアリーの言葉に、ジョンは縋り付く思いで懇願した。

 そんな彼らを、笑みを含みつつ眺めるナズナは、確かにアジサイの妹だった。同じ血が流れていると、ジョンは確信した。


 ナズナはジョンとメアリーを連れ、まずは風呂場へと案内した。あんな話の後だ、まさかおかしなハプニングが起こるのではとジョンが警戒していると、ナズナはニッと悪戯っぽく笑った。

 メアリーを連れ、ナズナが女性用の風呂場へと消えていく。ジョンはしばらく躊躇ってから、勢い良く風呂場へ続く横開きの戸を開いた。その先にある脱衣所には誰もおらず、そしてその奥になった風呂場にも、誰もいなかった。肩透かしを喰らったような惨めな気分になった。

 ジョンは木の囲いの中に張られた湯水を見て、「ああ、そうか」と呟く。そういえば、皇国は体を湯に沈める習慣があったとどこかで見聞きした事を思い出したのだ。

 これも文化交流だと、ジョンは恐る恐る湯に浸かる。全身から温まる心地良さは筆舌に尽くし難いと、彼は体を弛緩させた。

 しかし、あまり長々と浸かっていると、何か起こるかも知れない。期待……否、欲望……否々。滾々と湧き出る雑念を振り払うようにして、ジョンは風呂を出ると体を清め、脱衣所へ入る。備え置きされていた浴布で体を拭うと、服を着て廊下へ出た。

 ……何も、起きなかった。ジョンは床にへたり込むようにすると、安堵とも落胆とも似付かない溜め息を付いた。果たして一体どちらだったのかを考えるのは野暮だと、ジョンは考え込もうとする脳味噌を振り乱した。

 やがて廊下へとメアリーを連れたナズナが現れた。果たして風呂上がりの女性の迎えるのにこうも緊張した事があるだろうかと、ジョンの脳は尚も回転しようとした。

 そんなジョンに何を思ったのか、「わたくしはメアリーさんを介助しただけですよ」とナズナがしれっとした様子で口にする。思わず口を引き結ぶジョンの姿に、またもメアリーの冷たい視線が突き刺さった。


 ナズナの後に続いて歩き、ジョンとメアリーが通された部屋には布団が二組敷かれ、荷物も既に運ばれていた。ベッドがない事に驚きはしたが、もうそんな感覚にも慣れていた。一々反応していては、それだけで疲れてしまう。

「それではゆっくりとお休み下さい」

「は、はい……」

 顔が引き攣るのは、彼女がいつまでも愉悦めいた含み笑いを浮かべているからだ。ジョンは去るナズナの背中を見送りながら、火照る頬をなんとか静めようと努めた。


 今日一日が一息付き、メアリーは体にドッと疲れが伸し掛かるのを感じた。いつの間にか布団の上に倒れるように転がる自分に気付き、少し驚いた。

「慣れない環境だからな、疲れたろ」

 ジョンはそんなメアリーの様子を見、労わるように言った。

「だ、大丈夫だよっ!」

 メアリーは咄嗟にそう見栄を張ってみたが、体を起こす事は叶わなかった。それどころか段々と目が細くなっていき、やがて意識を手放した。

 ジョンはメアリーを布団の中に入れてやると、廊下に出、小さな窓から外に目を向けた。


 盗まれた「彼の人」の遺体。盗賊の中に見たと言われる天草シロウなる「彼の人」。両者が本当に関係しているのかは分からない。自分が追うべきは遺体だ。天草シロウはまた別の問題だと、コウスケも言っていた。

 けれど、どうしてもジョンは気になった。暴徒と化した『解放一揆軍』、その意思は果たして天草シロウを発端としたものだったのか。彼自身に他人を傷付ける意思はあったのか。仮にも「彼の人」と呼ばれた者がそんな事を許せるのだろうか。……何にせよ、天草シロウに会えなければ答えは出ない。だが、彼はそもそも生きているのかも分からないのだ。


 ジョンは嘆息する。――思考を単一化しろ。自分を取り戻せ、乱されるな。ジョンはそう自分に言い聞かせる。

 ……休もう。ジョンはまた息を吐くと、メアリーと同じように布団の中に潜った。寝付けるか少し不安だったが、睡魔は案外早く訪れた。

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