5-1.

 帝が住まう天守閣を中心に周囲を池が、そして幾重もの堀が覆っていた。なんでも外敵が容易に城内へ侵入出来ないようにする為の防御機能であるらしい。ジョンは池に掛かる橋を渡りながら、コウスケの話に耳を傾ける。

 城を中からではなく、外から眺めるとまた違った美しさがあった。白い外壁と黒い瓦のコントラストは絵画のようだった。しかし、美しさだけにあらず、敵からの防御機構を多数仕込まれた実用性も兼ねた美しさだった。ジョンにとって、その実用性こそが何よりも美しく感じられた。


 ジョンは玉砂利の敷かれた広い庭を歩みながら、周りの景色を眺める。英国では見られない草木、匂い、湿度、気温。全てが未知の環境、その中で育まれた文化を見て回りたい好奇心が沸き上がる。しかし今は既に夜も深まり、何よりここには仕事で来ているのだ。ジョンは胸に手を当てて息を吐き、自制に努めた。


 コウスケの語った道場は敷地内の隅に建てられていた。中から男達の野太い声と大きな足音、そしてドスンと床に叩き付けられるような物音が響いて来た。ジョンは早足になりそうなるのを、またも懸命に堪えた。

 横開きの戸を開いて中に入るコウスケに続き、ジョンとメアリーが道場の中に踏み入る。靴を脱ぐよう促される中、ジョンの視線は常に稽古の様子に釘付けだった。

 白い道着に黒い袴と呼ばれる、ゆったりとしたデザインのパンツ。相手に足捌きを見せないようにする為らしい。それらに身を包んだ男性の中に、幾人か女性も混じっていた。


「翁先生、失礼します」

 突然の来客を引き連れて現れたコウスケが、道場の最奥に仁王立ちする白髪の老人に声を掛ける。ジョンとメアリーは生徒達の奇異なものを見る視線を感じながら、コウスケの後ろに立った。

「英国からの客人です。こちらの女の子はメアリーさん、そしてこちらがジョン・シャーロック・ホームズさんです」

 ジョンの名を聞き、老人が少し眉を上げた気がしたが、気のせいだろうか。ジョンは前に出て頭を下げた。

「初めまして、ジョン・シャーロック・ホームズです。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません。ですが、この国の武術を見たいという欲求にどうしても勝てなかったのです」

 ジョンは正直に自分の思いを伝えた。彼がそういった行動に出るのは珍しいが、それだけ興味があった裏返しだろう。


「ふむ、遠い所からよくお越し下さった」老人は厳めしい顔付きを柔和に解き、「わたしは植芝モリヘイ。一見して分かり易い術ではないにしろ、何かを見出せたら貴方の為になるでしょう」

 何かの挑戦状だろうか。一筋縄ではいかない雰囲気を感じ取りながらも、ジョンは差し出された老人の手を握り返した。


「では、金田一、お前が見せてやりなさい」

 肩を叩かれたコウスケが「分かりました」と頷き、道着に着替える為にその場を後にした。残されたジョンとメアリーはモリヘイから生徒達へ紹介された。生徒の中には「ホームズ」の名を聞いて、目を丸くする者も多かった。父はこの国にいたのだから、名を知っている者がいても当然だが、ジョンはその評判が悪評でない事を切に願った。


「実際に触れて見るのが一番だろう」

 すぐに戻ってくるや否や、コウスケはそう口を開いた。ジョンは彼に導かれ、道場の中央に立たされた。周りを生徒達が正座して囲み、固唾を飲んで二人の様子を見つめていた。

「どんな形でもいい、自分に掛かって来い」

「……あァ?」

 ジョンは戸惑うような声を上げた。

「貴方は、そういう方が得意そうだと思ったのだが」

「いや、でも怪我をさせる訳には――」

 ジョンが言い切る前に、コウスケは皮肉気に口元を歪めた。

「問題ない、胸を借りる気持ちで掛かって来い」

 ――ナメてんのか? ジョンは悟り、即座に目付きを険しくした。彼を正面にしていた生徒達は、その形相に思わず目を丸くする。


 ジョンは中段に開手を構える。彼にとってのオーソドックス。体は半身に、足は開いて。真っ直ぐに、只管真っ直ぐにコウスケを睨む。

 コウスケは手を開き、足を開き、顎を引いてそこに立つ。なんでもないその姿勢、力みや緊張などどこにも見えない。けれど芯の通ったその立ち姿に――、ジョンは巨木を幻視した。


 ……踏み込めない。彼は立っているだけなのに、それなのに隙を見出せない。揺るがない視線、脱力した体が今にも爆発しそうな言いようのない危機感。前に出れない、飛び出せない。前に出るべき時機がどこにも見つからない。――けれど、唐突にコウスケの視線が下を向き、俯いた。なぜかは分からない、しかしその一瞬を見逃さない。ジョンは足に溜め込んだ力を爆発させるようにして、一気に前へと距離を詰めた。


 ――自分は彼と対等なのだろうか。ふいにコウスケの中にそんな問いが湧き、思わず後ろめたさから視線を落とした、落としてしまった。彼はハッとなり、立ち合いの最中だと慌てて目を上げたが、既に目の前までジョンが詰め寄っていた。


 目線を決して落とさぬまま、ジョンは敵の足を刈り取るカーフキックを放つ。しかし、コウスケは足を上げてその蹴りを躱して後ろに下がる。――直後、空振った足をそのまま遠心力にして加速、ジョンは更に前へ出てコウスケを追う。

 躱される事も、防がれる事も想定内。ジョンは「そうなった」先に待つ敵の行動、自分が取るべき行動も、事前に選択肢として思考済み。敵の動きに先んじる、その為に必要な行動は実行する前に頭の中に敷いてある。


 ジョンは剛に固めた拳へ存分に加速を乗せて放つ。それが魅せる速度にコウスケは驚愕した。こんな速度は今までに体験した事がない。自分が回避する事を事前に加味し、その先に繰り出す攻撃にまで思慮は及んでいた。先読み、深読み、自手にも他手にも及んだその熟慮を一瞬で弾き出す思考力。驚嘆すべきはむしろそちらだ。

 ――それでも彼は冷静に対処する。コウスケはジョンの左拳を視認すると、それを受け止めようと右腕を掲げ、た――が、衝撃は予期せぬところにやって来た。

「ぐ、ム……ッ」

 ジョンの右拳がコウスケの左腹を突き飛ばした。あの速度と威力を纏った左拳を囮に使うなど考えもしなかった。完全に思慮の外にあった攻撃に、コウスケは成す術もなくその場に膝を折った。


 なんという体たらく……ッ。コウスケは脂汗を浮かべながら苦笑する。ジョンの戦いぶりを見た事はあるが、実際に敵として相対するのはまた違う。彼の最も恐るべき強さはフィジカルではなく、そのメンタルだ。まともに喰らえば意識だって吹き飛ばすだろう加速し切った左拳をブラフに切り替えたのは、自分がそれを受けると分かっていたからだ。彼が己の中に用意した選択肢は十全以上の用意があった。自分はそれを知らず、彼の力量を甘く見積もっていた。――一筋縄ではいかない。コウスケはふうと息を吐いて立ち上がる。


 ジョンは腕を組んで、コウスケが立ち上がるのを待っていた。彼が息を吐くのを見、ジョンは再びニィと笑んだ。

「で? 胸を借りるって言ったか?」

「訂正する。貴方は――強い」

 どうだかな。ジョンは腕組みを解き、コウスケと対峙する。二人の姿は元に戻る。ここからがようやく本番だと、ジョンは再び構える。

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