4-4.

 襖を越えてすぐ、后を捉えて五メートル程手前。その何もない空中で、ジョンの渾身の一撃は阻まれた。感触としてはゼリーのような弾力。その弾性の前に、ジョンは成す術もなく弾き飛ばされた。


「……ああ、そうか。コレも『結界』か……ッ!」

 ジョンは空中で身を翻して器用に着地すると、驚愕に目を見開いたまま理解した。それへ、『その通り』と答える声はすぐにやって来た。

『この国随一の術師であるわたしが敷いた「結界」だ。何人も入れず、そして何人であろうと脱出する事の叶わない極地が、不可視ながら確かにそこにある』

「成程……」

 ジョンは拳を解き、前に進んで手を伸ばす。手に伸し掛かる強い弾力。何もない筈の空間に、確かにその「極地」は完成していた。


「予告もなしに飛び込んで来るとは、中々に勇猛果敢と言えるだろう。これも父親の血か?」

 驚いた様子もなく、むしろ愉快そうな面持ちで、帝はジョンへ言葉を向けた。

「……突然の無礼、お許し下さい」ジョンは一先ず頭を下げた。「しかし、貴方の後ろにいるのは間違いなく悪魔です。貴方はそれをご存知――」

 ――でしょう? と問う前に、帝は今度こそ笑い声を上げた。

「ハッハ。百も承知よ、ホームズの倅。だが、悪魔であろうがなんであろうが、余の愛を受け、それに答えるのであれば、それは余の妻に他ならない。これは美しく、そして度し難い程に余を愛しておる」

 帝は妻の顎を摘むようにし、すると彼女は躊躇いなく彼の唇に己の唇を重ねた。

 その姿にジョンは顔を引き攣らせ、メアリーは頬を朱に染めた。ナズナとコウスケは無表情を向けたままだった。


「……あの、祓魔師様」

 おずおずと后がジョンに向けて口を開く。

「あァ?」

 ジョンが物騒な声を上げて聞き返すが、相手は悪魔。敵意を向けるのは詮のない事だった。

 しかし、后はジョンから放たれた圧力に「ひぅっ」とたじろいだ。そんな彼女の頭を帝はポンポンと軽く叩き、

「余の妻を脅すか、ホームズの倅。痴れ者であるぞ」

 何故、悪魔と敵対する事を非難されるのか。ジョンは混乱しそうになった。

「わ、わっちはこなたのお方と静かに暮らしとうだけなのじゃ。そっとしておいてくんなまし……」

 妙な口調だが、意味は分かった。だがジョンは食い下がらない。

「ナメた事言ってんじゃねえよ。お前らの言葉なんか信用出来る訳ねえだろうが」

 ジョンは『結界』に向けて拳を放つ。阻まれると分かっていても、その拳を収める事は出来なかった。


「……アジサイの奴、何も話していないようだな」

 何事かを察したのか、帝は額に手を当てて息を吐いた。

「申し訳ありません、姉の不手際です……」

「いや、良い」帝は頭を下げたナズナへ向けて、「奴はいつも何か抜けているからな。まあ、それも策の内の一つかも知れないが」

 帝はしばらく考え込むようにして、再度ジョンへと視線を移した。

「ホームズの倅よ、余を案ずる必要はない。お主はお主の為すべき事を為せ」

 自分のやるべき事こそ、悪魔を倒す事なのだが……。ジョンはそう言いたくなったが、なんとか堪えた。


「ホームズ様、細かい事情を説明致しますので、今は……」

 先に話すべきだったかも知れないと悩みながら、ナズナがそう口にした。ジョンは『結界』で守られている以上、悪魔に対処出来ない事実を認め、彼女の言葉に頷いた。


 そんな中、メアリーは后の姿に見入っていた。角や尾を除けば、見目姿がとても悪魔には見えない。勿論、そうやって誰かを騙す悪魔もいるのかも知れない。けれど彼女の瞳はそういった類には見えなかった。もっと純粋な――、何かのような。だがその「何か」までは、メアリーには分からなかった。

「メアリー、行くぞ」

 階段を下りようとするジョンに催促され、メアリーは慌てて振り返った。急いで彼を追おうとするも、もう一度だけ后に振り返った。

「…………」

 后は少し恥ずかしそうに頬を赤らめると、メアリーに向けて小さく手を振った。思わず笑顔を返したメアリーは手を振り返し、階段を下りて行った。


「可愛らしい女子だ。ホームズの倅の助手とは思えんな」

「そうですね……」

 帝の言葉を、后は控えめに肯定した。頬を持ち上げる彼女を揶揄うように、

「なんだ、子でも欲しくなったのか?」

 途端、沸騰したかのように顔を真っ赤に染め、后はアワアワと口を震わせて何も言えなくなった。その姿に、帝は大口を開けて笑うと、彼女を自分の胸に抱き寄せた。

「済まん、揶揄い過ぎた。お主があまりに愛らしい故、揶揄わずにはおれんのだ」

「もう……」

 こんな風に優しく抱き締められたら、何も言えない。后は頬を朱に染めたまま、帝の胸に顔を埋めた。

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