3-2.

「ジェーン? おい、しっかりしろ!」

 呼吸が速くなり、手足が硬直し始めたジェーンを見、ジョンが椅子から立ち上がって彼女を抱き寄せた。目を見開き、喘ぐように口を開閉する彼女は過呼吸に襲われ、パニックに陥っていた。


「落ち着け、ジェーン。ゆっくりと深く息をしよう。いいかい、ボクと呼吸を合わせるんだ……」

 飛び付いて来たヴィクターが、制すようにジェーンの顔の前に自分の手を広げ、深呼吸をして見せる。ジェーンは彼が呼吸する様子に自分の呼吸を合わせると、段々と落ち着いて来た。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 やがてジェーンが口を開くと、どこか慌てた様子で謝罪を繰り返した。ジョンは黙って彼女を抱き寄せたまま、彼女の背中を擦る。

「謝んなよ、僕の方こそ済まない。急な話で戸惑わせたよな、悪い」

 ジェーンの体がこんな風になってしまった責任は自分にある。例え彼女が許しても、その罪悪感は消えない。ジョンもまた苦し気に顔を歪ませながら、彼女を強く抱き締めた。

 ジェーンはそんな彼の顔が見たくなくて、彼の胸に顔を埋めて視界を潰した。


「ジョン、そろそろお暇しよう」

 ヴィクターにそう言われ、ジョンは「ああ」と短く返事をした。ジェーンをベッドへと横たえると、椅子から立ち上がった。

「ジェーン、君は何も心配しなくていい。ジョンの事だ、どうせなんとかする。今までもずっとそうだっただろう?」

 ヴィクターの呼び掛けに、ジェーンは「そうだね」と頷いた。その顔は柔らかく笑んでいて、いつもどおりの彼女だった。


 ――そのように、少なくとも四人には見えた。だから、ジェーンへ振り返らずに、彼らは部屋を後にした。


 つ――と、流れる血の一滴。俯き、唇を噛み締める彼女の唇から垂れ落ちた滴がベッドのシーツに紅い染みを広げる。

「……ワタ、シ、は――――」

 何も出来ない何も出来ない何も出来ない。危険に身を投じようとする彼と彼女を引き留める力すらない。そんな事は分かっている、だから、祈る事しか出来なかった。いや、それしかして来なかった。


 ――そして求めた。そして失った。けれど手に入れる、ワタシは手に入れる。


「ジョン……」

 ――「例の『地獄攻略』に、僕も一枚噛めるようになるかも知れないしな」。彼の言葉は意外ではない。彼の性分を考えれば至極当たり前で、参加したい理由もある。


 止めたかった。本当なら彼を止めたかった。貴方がそんな事をする必要なんてないと言いたかった。だって真実、必要性なんて、どこにもない。『教会』が提示する作戦ならば、彼らの指揮に因って進むだろう。本当に地獄へ向かうなら、より経験のある熟練者を選ぶだろう。そこにジョン・シャーロック・ホームズという新米探偵が入り込む余地などないはずだ。


 ジェーンは先と同じように深呼吸を繰り返す。大丈夫、大丈夫。彼がどれだけ功績を上げようと、今からではもう遅い。ジェーンは自分にそう言い聞かせるようにして、胸の内に膨らむ不安を押し殺す。最後に一際大きくフウと息を吐き、俯いていた顔を上げた。


 目の前に、いつの間にか女性が立っていた。

 骨のように白い肌の上に纏う黒いイヴニングドレス、その大胆に開いた背中を長い銀髪が隠していた。四肢の肘や膝から先は獣のような黒い体毛に覆われ、爪も獣のそれのように鋭かった。物憂げな瞳で、彼女は静かにジェーンを見詰めていた。


「こんばんは。最近、良く来てくれるわね」

 およそヒトとはかけ離れた女性の姿に、ジェーンは怯える様子を見せなかった。それどころか、親し気に笑いかけた。

「…………」

 しかし、女性は笑みを返すどころか、声すら掛けずにいた。そんな彼女にジェーンは拗ねるように頬を膨らませる。

「どうかした?」

 女性はジェーンの問いに、やはり何も言わずに首を振った。


「……本当に、いいのか」

 やがて女性が口を開く。小鳥の旋律のように震えた声だった。何が不安なのかと問うように、ジェーンは優しく笑って頷いた。

「ワタシが決めた。自分で決めたんだもの。ワタシが生きて来た中で唯一、自分で決断出来たモノよ」

 ジェーンの誇らしげな――それでも陰のある――微笑みを、女性は堪えるような面持ちで見つめ返す。

「……お前が決めた事だ。ワタシはそれを支援する事しか出来ないが……」

 ジェーンは申し訳なさそうな女性の口ぶりに首を振る。

「それが一番嬉しいよ、ありがとう。アナタがいてくれる事が、ワタシにどれだけ元気をくれるのか、知らないの?」

 分かる訳がない――。女性はそう思い、また目を伏せる。相変わらずな様子に、

「もう……」と、仕方なさそうにジェーンは苦笑した。


「ねえ」

 ジェーンが女性に向けて手を伸ばす。残されたただ一つの腕、縋る力など籠らない手。それを懸命に伸ばす。応えようと、女性も手を伸ばした。

 その手と手が触れ合う――事なく、空を切る。互いの手は重なっているように見えても、そこには一切の感触も、体温も、何もなかった。虚空の中に手を置き、形だけは重なり合っている。けれど、それでも、それだけでもジェーンは心地良かった。

「……また、お話しようね」

 ジェーンがそう言い、笑い掛ける。女性は一瞬瞠目するも、小さく笑い、頷いた。そして瞬きの後、ジェーンの前から女性は姿を消した。


「…………」

 ジェーンは中空に置き去りされた手を下ろし、切なそうに息を吐いた。


 貴女には心配させてばかりだね。だけど、大丈夫だよ。アナタがいてくれたから、ワタシがいる。


「……大丈夫。ワタシはもう、迷わないから」

 貴女とお話出来て、元気が出て来た。ジェーンは小さな微笑みを浮かべながら、やがて安らかな寝息を立て始めた。

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