1-1.
絶え間なく響く、炎の爆ぜる音。
死した罪人、悪人が堕ちる「あの世」――、「地獄」。
縦に深く掘られた洞窟、その中には無数の横穴が犇めいていた。まるで強力な爆弾、若しくは隕石が落下した痕跡のようなその土地は、樹木や水は一切なく、全てが氷に鎖された孤界だった。生命の蔓延る余地を極限まで排除するよう設計されたその絶滅界域だが、今やその「氷」の実権を握るのは「神」でも、ましてや「星」でもなかった。
深い穴の最下層――、だがそこには「氷」を否定する巨大な炎が鎮座していた。煌々と燃え上がり、息吹を上げる燈明は禍々しい黒で染め上げられていた。自然には存在し得ない不気味なそれは、命ある限り生と死の相反を体現し続ける。
最も深く、昏い底には黒い火の穂を望むようにして建つ、巨大な城があった。ロマネスク様式のような堅牢で重厚な佇まいは、あらゆる者を牽制する威圧感があった。そして、その城を形作るのはこれまた厚い氷だった。
巨大な城壁に囲まれた、いっそ神秘的にも見える城にある小さな窓から、外界を望む男の姿があった。
虫の触覚のように垂れ下がる二対の角。鴉の濡れ羽色をした髪、血のような紅色の瞳、骨のように白い肌。後ろ腰から生え、先端が膨らんで尖る尾。背部には薄長いものと球状の羽が二対あった。袖を落とした身軽そうな衣服の襟元には長いファーがあり、口元まで覆っていた。
厳格そうな鋭い目は胡乱な陰を宿し、窓の向こうで煌々と燃え上がる炎を見詰めていた。
あの炎は永遠と燃え続ける。そうでなければ、この世界は凍え、生命は息絶える。だから氷で覆われたこの世界を支配できるのは、同じく『凍結』のチカラを従える彼女以外にあり得なかった。
「…………」
それが彼女の最期の姿だった。この炎を絶やさず守り抜いて来た。
男――、『七大罪』の第七冠 《暴食》を被る大悪魔、ベルゼブブは視界を窓から切った。あの炎は彼にとって傷そのもの。あれがなくては生きていけない事すらも膿んだ傷と同じだった。
「兄上、皆が集まりましたよ」
部屋の戸の方から声を掛けられたベルゼブブが振り返った先には、山羊のように後方へ婉曲した角を頭部から生やした長身の女性がいた。
浅黒い肌、うねりのある暗い栗色の髪に紅色の瞳。肩や胸元を大胆に曝け出す、体型に合ったタイトなワンピース。前腕を守る銅色をした両の籠手。脚は扇情的な網タイツに覆われていた。見目麗しい美女である事を問われれば、どんな人間で肯定するだろう。けれど、頭部の角や瞳の色は人間とは隔絶したものだった。
「まさかお前が俺を呼びに来るとはな――、ベルフェゴール」
ベルゼブブの口調は驚愕を表していたが、その表情に大して色はなかった。
「サボリ魔ですけど、兄上に話し掛ける事は億劫になどなりませんよ」
そう言いながら、ベルフェゴールは少し頬を膨らませて見せた。
ベルフェゴール。『教会』が最大級の危惧を示す七体の悪魔――、『七大罪』の第三冠 《怠惰》を被る大悪魔。
「広間で座っているだけか、最悪、自室に引き籠って召集に応じないかと思っていたぞ」
「そんなのした事――……、ありましたね……」
ベルフェゴールが気まずそうに頬を掻く姿に、ベルゼブブは鼻を鳴らした。
「それより兄上、今までどこにいらしたのですか。人間界から戻って来るなり姿を消し、いきなり顔を見せたと思ったら全員を集めるだなんて」
「怪我をし、その回復に時間を使った」苦そうに笑い、ベルゼブブはベルフェゴールから顔を背けた。「……で、どうした。わざわざお前が足を運ぶんだ。何か理由があるだろう」
「……ええ」ベルフェゴールは居住まいを正し、「兄上と直接お話したい事があります」
「ほう。――それはラウムの件か?」
ベルゼブブは目を立てて、ベルフェゴールを見詰める。彼女は驚いたように息を呑んでから、
「……既に、知っておられましたか」
そう言い、額に汗を浮かべた。ベルセブブはしかし、首を振り、
「その件について、詰問するつもりはない。ただ事情や経緯を聞きたいだけだ。出来れば、皆の前で」
「……分かりました。では、参りましょう」
ベルフェゴールの声に従い、ベルセブブは彼女と共に自室を出た。
回廊を通り、大広間の扉を開くと、そこには既にこの城に住まう残り三人の大悪魔が長机の前に座っていた。
藍色のポンチョで全身を包み、その中の姿は窺えない。髪を収めたエナンを被り、垂れ下がるヴェールが不思議な雰囲気を醸し出していた。額の少し上辺りから伸びる大きな一本角が、彼女の矮躯と相反して力強く見える。先に鰭の生えた尾を揺らし、気難しそうに口を結んだまま椅子に佇む彼女の名は、レヴィアタン。『七大罪』の第一冠 《嫉妬》を被る大悪魔。
右頭部を刈り上げ、紅桔梗の髪を全て左へ流す特徴的な髪形。頭部から真上に伸びる二本の大きな角。黒いパンツとドレスシャツ。ギラギラとした光を滾らせる紅く、力強い瞳。針のように尖った尾も彼の凶暴性を表しているようだった。机の上に足を投げ出し、粗野な態度を崩さない彼の名は、ベリアル。『七大罪』の第二冠 《傲慢》を被る大悪魔。
鋼鉄の、しかし水着めいた鎧姿。蠱惑的な瞳と、起伏に溢れた体は扇情的という言葉では足りず、人間界に伝わるサキュバスそのもの。ふわふわと揺れる桃色の髪の隙間から、羊のような巻き角が生えていた。可愛らしくも官能的な姿だが、クリクリと良く動く紅い団栗眼や先が球根型に膨らんだ蠍のような尾は、彼女が間違いなく悪魔である事を示していた。名を、アスモデウス。『七大罪』の第六冠 《愛欲》を被る大悪魔。
「よォ、兄貴。呼び付けた本人がえらい遅刻じゃねえか」
姿勢を崩さず、ベリアルが大広間に現れたベルゼブブを見るやそう言い放った。
「兄様に向かってなんて口を利くのですか。弁えるのです」
キッと強くベリアルを睨み、そう言葉を叩き付けたのはレヴィアタンだった。ベリアルは「なにィ?」と剣呑な声を上げて立ち上がる。
「テメエこそ口の利き方に気を付けろよ、チビ助」
「――今、わたしの事をなんと呼びました?」
椅子から飛び降りたレヴィアタンの腕が走る。いつの間にか取り出した螺旋状に渦巻く騎乗槍の穂先が、ポンチョの隙間からベリアルの首元へと伸びていた。
「もう、やめなよー。アンタ達は顔を合わせれば、すぐにケンカするんだからー」
諭すような言葉と裏腹に、口調は間延びしたもので無気力さに溢れていた。アスモデウスが彼らに目を向けないまま、机を指で叩いていた。
「二人共、席に着きなさい。兄上がいらしたのですから」
ベルフェゴールが屹然とした態度でそう言うと、ベリアルとレヴィアタンの矛先が彼女に移った。彼女を睨み付ける彼らの口から、
「うるさいです、いつもやる気のないベルフェが何を言うのです」
「黙ってろよ、マグロ女。オメーは寝てるくらいしか能がねえだろうが」
言い返されたベルフェゴールが先の屹然とした態度はどうしたのか、「うぅ……」と唸って項垂れた。
そんな彼女の肩に手を添え、アスモデウスが「まあまあ」と椅子へと導く。
「似合わない事しちゃダメよー、ベルフェちゃん。あんたはいつも通り、何もせずに座ってればいいの」
フォローになっていない……。ベルフェゴールは半ば泣きそうになりながら、先に房の生えた自分の尾を手に巻き付ける。
「……相変わらずの調子で安心したよ」
上座に座ったベルゼブブが昏い声で言った。その声音に、その場の全員が押し黙り、自分の席に戻った。
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