3. DOZING GREEN

0.

 ――――ねえ、アナタは、もう覚えていないのかしら。


 そう思いながら、ワタシは病室の窓から雨の降る外の景色を眺めていた。窓に直接手を触れて、冷えていく外気を感じ取るようにしながら。


 遠くに見えるホワイトタワーの礼拝堂、そこで行われている「国際会議」。議題はどれ程進んでいるのだろうか。上手く事は運んでいるのだろうか。友人は――ジャンヌは不安に囚われていないだろうか。……なんの力にもなれないワタシは、成り行きが問題なく進む事を祈るくらいしか出来なかった。


 窓からそっと手を離す。結露で濡れた窓の表面にワタシの手の跡がくっきりと残っていた。

 それを見て、少し手を伸ばし、手跡のすぐ横に指を運ぶ。

 窓面を一つのキャンバスに見立て、結露に指を滑らせて、そこに文字を書き込む。それは時間が経つと再び結露に埋もれて消えてしまうけれど、暖かい吐息を吹き込めばたちまち浮かび上がって来る。


 ワタシ達姉妹の秘密の遊び。幼い頃、互いの本音や隠し事をそうやって共有し合った。書いているところを決して見られてはいけない、必ず自分一人だけがいる時機を見計らって秘密を書き残すのだ。

 恥ずかしい失敗、学校生活への愚痴、父さんの手料理の不味さ――そんな他愛のない事ばかりを、ワタシ達は取り留めなく伝え合った。

 そして、彼への恋心を教えてくれたのも、この遊びからだったよね……。ワタシはそう思いながら窓から離れ、倒れ込むように車椅子へドスンと体を落とした。

 ワタシは窓に記した言葉を望む。それはまるで遺言のようだった。もしも、これに彼らが気付いたとしても、既にワタシはココにいないだろう。……若しくは気付かれもしない事だってあり得る。彼女が……この秘密の遊びを覚えてすらいないだろうから。


 アナタは変わった――その変化に、ワタシはとてもじゃないが追い付けなかった。生来の虚弱体質を疎ましく思う自分をひた隠し、ワタシはそれでもアナタの傍にいたかった。ずっとずっと、一緒に隣を歩んでいきたかった。

 でも、ワタシがいつまでも付き纏っていては、アナタが望む場所へ向かおうとしても足枷にしかならないと気付いた。だから、ワタシもアナタから離れ、それでも同じように戦える手段を模索した。

 それを教えてくれたのは、アナタと同じようにワタシの傍にずっといてくれた「彼女」だった。まるで月のように淡く、けれどどんな夜よりも昏い眼差しを持った彼女……。

 いつからか、彼女はワタシの傍にいた。彼女の存在をハッキリと感じ取れるようになったのは、物心ついた後の事だった。


 ワタシの中に違う誰かがいる。その事実に、ワタシは恐怖しなかった。彼女はワタシに害を与える事はなく、むしろワタシの言動を暖かく見守ってくれていた。余計な口は挟まず、ワタシが問うた時にだけ応えてくれる良き相談者であり続けてくれた。今も尚、彼女はその姿勢を崩さず、ワタシの選択に対して背中を押してくれた。……例え、彼女自身に思うところはあったとしても。


 窓に刻んだ想いが露に霞んで消えていく……。その様子を見ながら、同じようにワタシの中で自分自身が消えていくように感じた。全て、ココに遺して行くつもりだった。これから向かう先に「ワタシ」は必要ない――この脆弱な存在を捨てて、ココじゃないドコカへ行くつもりだった。

 時は近い、きっとワタシが考えているよりも、遥かに。そんな予感が鎌首をもたげた。

 覚悟は既に出来ている――……筈だ。未だ断言出来ない自分がお粗末に思えて、いっその事、殴りたくなった。もう止まれないと言うのに。もう、引き返せないと言うのに。

 ワタシは立ち向かわなければならない。これまでの人生において、何とも戦って来なかったワタシにも、遂にその時が来た。この戦いは自分で選んだ――その事実をとても誇らしく思った。これでやっと彼らの前に胸を張って立てる。……そう思っても怯えを禁じ得ないのは、きっと経験不足が故なのだ。彼らのようになる為には、ワタシは誰かを傷付け、そして傷付けられる必要があるだろう。

 例え刃を向ける相手が敬愛し、尊敬する彼らであったとしても、躊躇う事は最早許されない。そうだ――ワタシが最も恐れるとすれば、相対するワタシを見る彼らの目だ。

 彼らは、ワタシを「敵」として認めてくれるだろうか――――。

 淡い期待、拙い願い。敵を見詰める彼らの瞳を、その中で燃ゆる炎の彩を幻視する。……嗚呼、まだ見てもいないと言うのに、その激烈な色彩にワタシは魅せられそうになった。きっとどんな宝石よりも幻想的で、情熱的な輝きを放つ事だろう……。


 幽かな不安、不可視の希望。やがて訪れる未来への畏怖を胸に、ワタシはまた窓へ目を向けた。

 自分が存在している事実を落とし込んだように、手の平の跡が窓の隅にまだ残っていた。幾らか消えかけているとは言え、雨に透けたそれは不自然そのものだった。まるで現実に在る事を否定するように、夢の中のひと時にいるのだと示すように。

 思わず、すっ……と手が伸びた。ワタシは手跡の傍にその一文を書き込むまで、自分の手が動いている事を気付けなかった。

 何て事だろう……。ワタシは自分の手が書き込んだ文字を愕然とした思いで見詰める。その短い一文に、ワタシというニンゲンの本性が潜んでいるようだった。咄嗟にそれを消してしまおうとして……、ワタシは結局、伸ばした手を元に戻した。


 どうせ気付かれはしないワタシの本望、そして本音。それが例え消え行くとしても、文字というカタチに出来た事に意味があるように思えた。

 彼は顔を上げて前を見る、過去を糧にして己に課した道を進み続ける。愚鈍なワタシとは違うのだ。だから、彼が隠れ潜む言霊に気付かないよう祈る。

 結局、誰に見られる事もないワタシの本願、そして真意。それが例え霞み行くとしても、文字というカタチで目に捉えられた事が大切に思えた。

 彼女は今を生きている、そして未来に向かって進んで行く。既に死んでいるワタシとは違うのだ。だから、彼女が過去に思いを馳せる事もないだろう。


 ――――けれど、

 ねえ、アナタは、もう覚えていないのかしら。

 アナタにも、姿なき声が聞こえていた過去があった事を。

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