16-1.

 ……意識はある。まだ、ある。地面の冷たさと、傷口から生まれる焼けるような痛みがまだ自分という意識を繋いでいた。


「っ、ぐ――ぅ……?」

 声にならない声だけが口から漏れていた。ジョンは自分の身に何が起きたのか理解しようと試みるが、思考がまとまらない、落ち着かない、制御出来ない。

「小僧、気を緩めたか」

 降り掛かる敵の声。その一言で、ジョンは自分の敗因を悟った。


『十字架』は心の制御。自分はムサシの攻撃を受ける際、彼の姿に父を重ねた。一度として勝てた事のない父の姿を。その時点で、自分の『十字架』は彼の剣に「勝てない」ものに成り下がった。

 ――「小僧、どこを見ている」。ジョンはくっと口を歪めた。なんたる皮肉、かつて学生時代にハリーへ、自分は似たような事を言っていた癖に、その言葉を自分が浴びる羽目になるとは。嗚呼……、糞っ垂れにも程がある。


 ジョンは無理矢理体を起こす。腹に力を込めれば、血を噴き出した。まるで猟奇映画染みた光景だなと、他人事のように感じていた。いっそ笑い出しそうになった途端、口から血が溢れて咳き込んだ。

「さあ、どうする、小僧」

 刀の切っ先がジョンの眼前に置かれる。ジョンは胡乱な目付きでムサシの顔を見上げる。その顔に依然、色は亡い。彼が敵と見做した者に突き付ける瞳なのだろうか。

「なんだ、終わりか」

「…………」

 至極詰まらなそうな声だった。ジョンは答えようとしても、声の出し方を忘れてしまったかのように、何も出て来ない。代わりと言わんばかりに、血ばかりが溢れていく。

 自分が死につつある事を感じる、理解する。その感触に怖気すら抱かないのは、それこそ死んでしまったからか。

 ……ここで、終わるのか。ふいに、そんな声がした。声が聞こえた気がした。

 終わる――、終わる? ここで、終わり? ジョンは信じられない気持ちになった。自分が終わる? 今までの積み重ねが、努力が、鍛錬が、全てここでふいになる……?


 僕は一度も、あの糞野郎に勝てないままで終わるのか――――。


 父が浮かべる憎らしい微笑を思い出した時、ジョンの意識が一瞬にして覚醒した。終われない、このままで終われる筈がない。自分は未だ何一つとして成し遂げられていない……!


 いなくなった左腕を探す。離れた位置に無造作に転がる自分から離れ離れになった腕。その腕から伸びる「鎖」が、未だ自分と繋がっている様を見た。ジョンは俯いて、目の前に零れて広がる内臓とも繋がっているのも確認した。

 ――「魂」は未だ繋がっている。ジョンはどことなく信じられない面持ちで、自分の意識の中でその「鎖」を引っ張り、手繰り寄せた。

 途端、引き摺られるようにして左腕が切断面に向けて飛び込んで来た。強い衝撃を伴いながらぶつかり、左腕が元の位置に戻った。何が起きているのか理解出来ないまま、徐々に戻って来た感覚に従って指を曲げて見る。――いつも通り硬く握られた拳が、そこにはあった。

「――――」

 信じられない面持ちなのは、ムサシも同じだった。続いて、腹に吸い込まれるようにして戻って行く内臓を見、声を失った。

「…………」

 ジョンはフラフラと立ち上がった。腹を見ると内臓は戻り、傷口は塞がり、切り裂かれたのは衣服だけ。左腕は何度確かめても、指は開き、肘は曲がり、動作に支障はない。


 ――「肉体」と「魂」は同じ形をしている。故に「魂」を治療する事で、「肉体」の回復を促す医術もある。「霊媒医術」と呼ばれるそれに準えるなら、「肉体」を斬られても「鎖」で「魂」との繋がりが保たれている限り、自分の「魂」に損傷はないものとして扱える、のか。

 原理や理屈は不明のままだ。けれど今、目の前に広がる現実は確かだった。


 ジョンは顔を上げ、敵を見る。ムサシはジョンの瞳に確かな意識があるのを認めると、伸びて来る右の拳が自身に触れる前に斬り捨てた。

 衝撃で傾く体に引き摺られて後退りながら、ジョンは吹き飛んだ手首から先の右手を目で追った。宙に舞うそれを捉えると、自身の体の中から伸びる「鎖」を手繰って引き寄せる。すると先の左腕や内臓と同じように、右手が宙で停止し、風を切って右腕へ帰って来た。

 ジョンは右手を抱えるようにしながら、右手の指を動かし、開いたり握ったりを繰り返す。動作に支障はない。まるで最初からそこにあったように、斬撃の痕すらどこにもない。


「――く、ハ……ッ!」

 戻った右手の在り様を見て、ジョンは思わず笑みを零した。それはあまりにも狂的で、あまりにも甘美に濡れていた。

 爛々と光る狂気の瞳、歪んだ口が描く笑顔はしかし艶やかで。強く地を蹴り、ジョンはムサシに向かって飛び出し、闇雲に両腕を振りかざす。

 嗚呼――、やっと。ジョンは胸の中で息を吐く。ついに訪れた、ついに来たのだと、ジョンは安堵にも似た思いに包まれる。

 斬られ、刻まれ、貫かれ、断たれ、突かれ、刺され、傷に傷を上乗せて傷口から傷口を吐くような痛みの中、血塗れの想いが花を開く。


 ――――やっと、贖罪の時だ。


 痛みを受けて、罪が薄まる。

 流した血の中に罪が溶ける。

 悲鳴を上げれば罪が晴れる。


 何度も何度も繰り返せば、きっと、僕の罪は消えてくれる気がするんだ。


 歩みを止めた時、彼は底のない罪の意識に沈んでいくだろう。

 そして、やがて罰を求める。――――それこそ、底無しの。


 伸ばした手が、指が寸断される。

 歪んだ声を上げる喉が貫かれる。

 前へ進もうとする脚が断たれる。

 裂かれた腹から臓腑が飛び出す。


 ――しかしその傷が、切り離された体が、零れた臓腑が吸い込まれるように体に戻り、瞬く間に元のカタチを取り戻す。


「くハハハはぃははハハハァはいエははあへえヘハハはへはハはああああッッッ!」

 絶叫する。絶唱する。絶笑する。理性は、本能は、理解は、理知は全て解けて消える。求めていたモノが判明し、ジョンの祈りは哄笑と共に昇華される。


「ふむ、飽きた」人斬りは刀を振るって、血を濯ぐ。「どこを斬ってもたちまち治ると言うならば、首を断つ以外に道はないか」

 肩に刀を置く。瞳が睨むは眼前にある不死身の肉。斬っても斬ってもたちどころに治っていく肉に刀を入れるのは、流石に飽いた。命を絶たねば、刀を握った甲斐がない。命を断たねば、刀を振るう甲斐がない。


 ムサシは前に出、首に目掛けて刀を横振りする。その一閃はしかし、ジョンの振り上げた右腕に阻まれ、軌道を逸らされた。しかし、その程度なら想定内。ジョンの腕を飛ばすと、そのまま体をぐるりと回し、遠心力と共に続いて大きく振り切る。それを跳躍で躱そうとするジョンを追って手首を返す。両足が吹き飛び、着地を殺された敵がドッと地に落ちた。これで詰めだとムサシは剣を突き立てるが、転がって躱され、更に復活した足で後ろに下がられた。


「――――」

 ムサシはまた肩に刀を置いて、息を吐いた。詰まらないと、そう感じた。自分は斬らされているという違和感が付き纏っていた。敵は自分の攻撃を選んで受け、そして致命的なものだけ躱している。首を飛ばそうと狙った攻撃だけが捌かれている。それはどういった心境から来る行動なのか、ムサシには分からない。腕や脚を切り裂かれる痛みは想像を絶するだろう、だがそれをわざわざ受けに行く心境など分かる筈もない。

 そして先程、敵が上げた哄笑――。まるで待ち侘びたと言わんばかりの感触を受けたが、さてはてどういう事か……。


 静観を続けるムサシに対し、ジョンは体中から脂汗を流しながら肩で息をしていた。

 目が回る、呼吸も安定しない。それは当然の事で、ジョンの足元には夥しい量の血が流れていた。出血多量で意識が朦朧とし始めていた。離れた手足が例え繋がったとしても、失われた血液までは回復しない。それはベルゼブブとの戦闘で分かっていた事だ。覚束ない足取りで前に一歩進んだが、すぐによろけそうになった。

 それを見逃す筈もなく、ムサシが前に出る。ジョンは振り下ろされた刀を避けようとするも、やはり足が動かない。霞んだ瞳が刀を捉えようとしても、朧気な影しか見えなかった。


 飛び散る血で、君達の顔が良く見えない。

 溢れる血で、君達との記憶に沈んでいく。

 嗚呼――、いっそ全部消えて、僕も消えてしまえばいいのに。

 君達に憎まれるくらいなら、そう、いっそいなくなってしまいたいんだ。


「ああ――ッ!」

 その時、ドンッと強くジョンが横に突き飛ばされた。何が起きたのか分からず、ジョンは為すがまま地に倒れる。

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