11-6.

 扉を蹴り開け、ジョンは屋上に辿り着く。――直後、ジョンのすぐ耳元の壁に銃弾が突き刺さった。彼は倒れ込むように床に伏せる。


「ホームズ様……!」

 オリバーの声がした方を向く。彼は屋上の塀の陰にジャネットと共に身を隠していた。ジョンは這うようにしてそちらに近付いた。

 ジャネットは背を塀に預けて蹲っていた。肩で息をし、右耳の辺りにタオルを当てていた。止血しているようだが、そのタオルは血で真っ赤に染まっていた。


「ジャネット……ッ」

 ジョンの顔から一気に血の気が引いた。落ち着きをなくし、おろおろと狼狽する様は彼らしくなかった。

「……大丈夫よ、何も死んじゃいないわ」

 ジャネットはタオルを耳元から離した。耳を貫かれ、側頭部に長い裂傷が走っていた。

「ちょっと頭がフラフラするだけよ……」

 弾丸は強い衝撃波を纏って射出される。衝撃波が頭部の近くを弾丸が通り過ぎたとすれば、脳震盪などを起こしてもおかしくはない。

「弾は当たってない。顔の近くを通り過ぎただけ……」

 ジャネットはそう言うが、頭部を引き裂かれ、出血が酷い。しかし銃に狙われている状況では逃げるに逃げられなかったようだ。


 狙撃銃のスコープの反射で位置を把握された。ジャネットは目論見通り、自分の方へと狙撃犯の意識を向けられたのだが、反撃が予想以上に早かった。咄嗟に命中は避けられたのは、彼女の反射神経の賜物だろう。そうでなければスコープを貫いた弾丸に因って、眼球越しに脳を破壊されていただろう。


 ジョンは望遠鏡でタワー・ブリッジの方を見る。最早隠れる気はないのか、それとも最初から隠れてすらいなかったのか、狙撃犯の姿はすぐに見つかった。同時に目が合った――気がした。ジョンは直感に従って即座に頭を下げた――直後、望遠鏡が弾丸に吹き飛ばされた。

 ジョンは仰向けに引っ繰り返ったまま、ジャネットを見る。瞳に宿る光は強くも、しかしどこか胡乱に揺れている。頭部からの出血は少なくない、今すぐにでも治療を受けさせたい。


「糞っ垂れがァ……ッ」

 ジョンは牙を剥く。その怒りは狙撃犯と、自分自身に向けられたもの。ジャネットが怪我をしたという事実、させられたという事実。それだけが頭の中に一杯になる。

 その一方で、彼の脳は今の状況を打開すべき策を見出そうとしていた。憤怒の圧力に突き動かされて動く冷静な判断力という矛盾を併せ持つ彼の身体が導き出す答えとは。


 撃ち返す――それは誰が? 援護を求める――通信機器はある、しかし銃はここにある。逃げようとする自分達を狙撃しようする相手を、どうやって牽制すると言うのか? ここから逃げるには――敵の銃撃を掻い潜るには? ――いや違う、そうじゃない。まず第一に優先すべきはジャネットの救出だ。

 ジョンは思考の迷子に迷い込んでは始点に戻るを繰り返していた。時間は掛けられない。

 その中でも確実性に富んだ、何か、何か策を――。そして、ジョンははたと気付いた。


 自身の左手が、いつのまにか右の胸元にあった事を。

 思い出す、そこに刻まれた『傷』の存在を。


「――――」

 ジョンは一瞬の内にプランを組み立てた。上手く行けば、このホテルが陥っている状況を全て覆せる。だが、出来るのか――? と昏い声が聞こえた気がして、ジョンはニィと笑む。


 逆境、窮地、劣勢――弱者が強者に立ち向かう状況下。しかし、そんな局面こそが人間を成長させるモノだと、ジョンは知っていた。嫌になる程に思い知る父との差、それを覆す為に思考する日々、その瞬間。その積み重ねこそが、今の自分を形作った原動力。


「いつまでも調子コイていられると思ってんじゃねえぞ、糞野郎」

 ジョンは右胸に手を当てたまま勢い良く立ち上がると、タワー・ブリッジの狙撃犯に向けて凶悪な笑みを向け、そして見せ付ける様に左手の中指を立てた。

「ホームズ様、何を――ッ! 撃たれます、早く伏せて下さいッ!」

 絶叫にも似たオリバーの声は、ジョンには届いていなかった。


 ジョンは自らに向かって飛び込んで来る悪意を、爛々と光る狂気にも似た瞳で睨み付ける。


「『Amen』――」


 左手が――何かを掴む。そこにある確かな感触を実感しながら、右胸からソレを引き抜くと、勢いをそのままに振り回した。

 ジャネットはジョンが手に振るうソレを、そしてソレが飛び翔ける銃弾を弾き飛ばすのを見、思わず息を呑んだ。


 ――「彼の人」は荊の冠を被って十字架を背負いながら丘を登り、そして手足を十字架に打ち付けられて磔刑に処された。やがて右の脇腹に槍を受け、それを生死の判別とした。

 磔にされた「彼の人」と同じ位置に浮かぶ傷を「聖痕」と呼び、崇拝の対象ともなった。手足首の「聖釘」、額の「荊冠」、脇腹の「聖槍」、流れる「血涙」や「血汗」などがある。また「彼の人」を傷付けたそれらの物品は「聖遺物」として、これもまた崇拝の対象になった。

 ジョンの体に刻まれた手足首、額、脇腹の傷は、全て本物の「聖遺物」によってシャーロックとワトソンの手で刻まれたものだった。


「彼の人」と同じ物で、同じ場所に傷を受けた者が、その背中に背負う物とは――?


 シャーロックとワトソンが導き出した答えは、自身の息子の魂を変質させる代物だった。

 ジョンは自らの魂を「聖遺物」へと変質させる能力を得た。ソレが持つ「神聖性」は大悪魔ベルゼブブすらも退ける程に強力なものだった。

 かつて「聖十字架」を再現したジョンだったが、今、彼が手にするのは漆黒に塗られた一振りの槍だった。


「彼の人」の死を判別した「聖槍」――、その再現がジョンの手の中にあった。


「ジョン……」

 ジャネットは言葉を失っていた。そんな彼女に向けて、ジョンは不敵に笑みを返した。

「待ってろ、あの糞野郎をブン殴って来る」

 ジョンは後方に跳び、反対側の塀まで下がった。一体何をするのかと皆が固唾を飲んで見詰める中、ジョンは姿勢を低くして脚をグッと固め、右腕を掲げる。

 それはまるで投擲前の体勢に見えた。まさか――とジャネットが口を開こうとした時、ジョンが強く地を蹴って駆け出した。


「――――」

 ジョンが何をするつもりなのか、ジャネットには分からなかった。いや、分かったのだが、果たして一体本当に? 思わず彼を止めようと手を伸ばしたが、けれど彼を止められる力が果たして彼女に――、この世界にあっただろうか。


「Die, MotherFucker, Die! 」


 止まる必要などない。留まる必要などない。ジョンは駆け、掛け声と共に三段跳びの要領で塀を超えて屋上を跳び出すと同時に、右手の槍を思い切り投げ飛ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る