9-1.

 時間は少し遡る。ジョンはしかめ面のまま、前夜祭会場に立っていた。


 頭髪を掻き上げて固め、額の傷を隠す為にヘッドバンドを巻いていた。服装はホテルの従業員と変わらぬ給仕服。化粧も施され、全くの別人に変装した彼は、会場南側、テムズ川を見下ろせる窓際にシャンパンを乗せた盆を持って立っていた。


「どうだ、ジョン」

 右耳に差したイヤフォンからマイクロフトの声が聞こえて来る。ジョンは「嗚呼」と唸り、

「どうと言われても、どこかで見た事のある顔がニコニコしながら酒飲んでる姿しか見えねえよ」

「なんだァ、ジョン。機嫌が悪そうだな」

「こんな窮屈な恰好させられるなんて、聞いてねえぞ」

 顔に纏わりつくファンデーションの感覚が気持ち悪い。今すぐにでも拭い去りたい。女は毎日こんなモン付けて歩いてんのかよ。ジョンの悪態は留まる事を知らない。


「……本当に僕はここに立っているだけでいいのか?」

 ジョンは再三の確認を繰り返す。マイクロフトは頷くだけだった。

「ああ、お前はそこで警戒しているだけでいい。情報収集は全て007が行う」

「あいつもこのどこかにいるのか?」

「会場内にはいない。ホテル内に潜伏している。お前は会場内の人間の動向を見ていればいい。怪しげな行動を見付ければ知らせろ」

 曖昧な指示だと、ジョンは溜め息を付く。


 天井にも床にも豪奢な家具や飾り付けが施され、先日見た広間とは目を疑う程の変貌ぶりだった。ホテルの威信を掛けての一大事だ。オリバー他、従業員達の苦労が伺える。今も彼らは一縷の隙を見せる事なく、テキパキと精錬された動きを続けている。

 その中でただ一人突っ立っているだけの自分は、どうにも怪しい気がする。これなら警備員の姿を偽った方が良いのではないかと思ったが、しかし彼らが下手に動き回ると客に警戒される。だから給仕の恰好でいいんだと、マイクロフトから説明されたが、さてどうなのだろう。

 自分の処遇を内心危ぶみながらも、ジョンは視線を会場内に隈なく走らせる。


 英国を百年以上統べる女王、エリザベスⅡ世。

 米国の南北対立を統治し、祓魔師も現任する初代大統領、ブラッドアクス・リンカーン。

 厳しい環境の中、機械化に因る独自の発展を推す露国の皇帝、イヴァン・グローズヌイ。

 華と絢爛、国民に愛を受け、愛を手向ける王妃、マリー・アントワネット。

 鎖された国、東の果てにある謎多き皇国の皇女、水無月紫陽花。

 神の子を亡くした彼の地を護る以国、悲運の女王、バト・シェバ。


 ジョンは会場内にいる王族の姿を確認し、傍に控える探偵と祓魔師を見付けた。その中で皇国のアジサイの傍に宮本ムサシがいない事に気付いた。

「皇国の祓魔師がいない」

「何?」ジョンの呟きに、マイクロフトの声が飛ぶ。「007に確認させる」

 彼の性格を考えれば、こういった畏まった場は似合わない。だから不参加を決め込んだのかも知れない。ジョンはそんな風に考えながらも、マイクロフトの声に頷いた。


 会場内の人間はリラックスしていた。それもそうだろう。ここは英国で最も高さのある大広間。外から内部を覗く事は出来ないし、ホテル内は一階から最上階まで警備員や『人形』に因って守りを固められている。悪魔やそれに連なる者がここに危害を加えようと言うのなら、その全てを突破しなければならない。

 ジョンはホテル内や周囲に悪魔の痕跡を見つける事が出来なかった。何もないならそれでいい。だが――、『怠惰』。そう書かれた例の手紙を思う。『暴食』と共に七つの悪の一つとして掲げられる概念。あのメッセージが如何なる意味を持つのか。何故、MI6の下に手紙は届けられたのか。それは未だに不明のままだ。


 今、この場に悪魔が入り込んでいる形跡はない。ジョンは服の裾を捲り、自身の手首に巻かれた包帯、その下にある傷を見る。「聖痕」に反応はない。何者かの「悪意」も感じ取れない。

 けれど、時間が経つにつれてジョンの中に不安が膨れ上がっていく。理由の分からない昏い感情に、ジョンは尚更息苦しくなる。その中で視線を動かしている内に、やがてドレスに身を包んだジャンヌとジャネットの姿を見付けた。

 脚や背中、胸元を大胆に曝け出す彼女らの姿に、ジョンは目が眩みそうになった。なんて恰好だ……。いや、こういった催しならあの程度、当たり前の事なのだろう。顔が熱くなっている自分の方がおかしいのだ。落ち着け、落ち着け……。


 ジョンが胸に手を当てて深呼吸をしている中、ジャンヌとジャネットに近付く小さい影。その正体に、ジョンは目を見開いた。

「なんでメアリーがここにいるんだ?」

 その後にぞろぞろと続く見覚えのある面々。ヴィクター、ジュネ、アーバスにハリーの登場にジョンは大いに面食らった。

「とんだ同窓会じゃねえか……」

 ジョンが肩を落として呟いた時、ヴィクターがこちらをチラリと見た。バレたか、いや、まさかな……。思わず顔を引き攣らせるも、恐らく自分の背後に広がる夜景を目に映しただけだと思う事にした。しかし続けて、ジャネットがジュネ、ジャンヌと共にこちらを見た。


「…………」

 変装を見破られた? そんな、素人にバレるような細工ではない筈だ。思わず唾を呑むジョンだが、どうやら杞憂だったようで、ジャネットは何故か顔を赤くしてワインを煽る。どうやらジュネとジャンヌに何やら揶揄からかわれている様子。ジョンはホッと息を吐いた。

 いらない心配をさせんじゃねえよ――と、胸中で悪態を付く中、一同に近付く赤髪の男がいた。彼がリチャード・ザ・ライオンハート、『聖人』の一人である事は知っていた。

 彼はジャンヌと何か話をしている。『聖人』同士だ、話をしても何もおかしくはない。


 しかし、リチャードが踵を返し、ステージへ向かった直後、猛烈な「悪意」がジョンの背後で膨れ上がるのを感じた。


「なんだ……!?」

「どうした、ジョン?」

 ジョンの緊迫した声音に、マイクロフトが飛び付いた。

「僕の背後に何かいる……!」

 ジョンは振り返る。彼の背後には窓、その向こうにはバルコニーがある。しかし、そこには誰もいない。広がっているのは光が散発する夜の街だ。

「違う、もっと遠くだ……」


 膨れ上がった「悪意」が集束していく。その収束点はこのホテルから遥か遠く。ジョンはその位置を見極めようと意識を集中させる。


「どこだ、ジョン。どこにいるんだ……!」

「分からない、遠過ぎる……ッ」


 ジョンが外景に視線を走らせる中、「悪意」が消え、次の瞬間に爆ぜた。小さな塊となって、こちらに向かって突き進んで来る――。

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