7.

「貴女がこうも頻繁に来てくれるなんて、思いもしなかったわ」


 マスクを口に当てたまま、病室にやって来た客人にニコリとジェーンが笑った。

 訪れたのはジャンヌだった。普段通りの固い顔付きのまま、ベッドに寝るジェーンに会釈した。勝手知ったると言わんばかりに、携えていた花を花瓶に生ける。


「いつもの鎧はどうしたの?」

 ジャンヌの恰好は白いシャツにジーンズと、普段の鎧姿からは想像も出来ないくらいに身軽だった。手に鞄を下げたジャンヌはジェーンの言葉に少し笑って、


「お見舞いにあの姿ではおかしいでしょう」

「そう? あの恰好、ワタシは格好いいなあって思っているけど」

「本音を言えば、あんなもの、重くて肩が凝るばかりで何もいい事はないですよ」

 そう言い、悪戯っぽく笑うジャンヌ。ジェーンもクスクスと笑みを返す。

 父の仕事の関係で、幼い頃からジャンヌとワトソン姉妹は顔馴染みだった。ジャンヌにとっては唯一友人と呼べる関係かも知れない。


「『国際会議』もあるし、忙しいんじゃない? こんなところに来て大丈夫なの?」

 全く、他人の心配ばかりですね。ジャンヌは友人の相変わらずさに少し笑う。

「いくら忙しくても、貴女に会う為に時間を作るくらいは出来ますよ」

「……ありがとう」


「…………」

 申し訳なさそうに笑うジェーンを見、ジャンヌは少し顔をしかめる。その変化に、ジェーンが首を傾げた。

「貴女のその、罪悪感混じりの笑顔は正直、見てて苦しいです」


「え……っ?」

 あまりの発言に、ジェーンが絶句する。

「すみません、少し棘がありましたね」ややあって、ジャンヌが手を振って、「ここに来ると、貴女は誰しもに申し訳なさそうな顔をするのです」

「……でも皆、忙しいのにわざわざ来てくれるんだもの」

「それは貴女に会いたいからです。貴女と話したいからです。貴女はそれを喜ぶ事すれ、罪悪感を抱く必要なんてないのですよ」

「本当に――そうなのかな……」

「疑うのですか?」


「そう、いう、ワケじゃないけど……」ジェーンはキツく目を閉じ、ハァと溜め息をついて、「もう、ジャンヌって相変わらず意地悪ね」

「そういう性分ですから。ジョンにもよく嫌な顔をされます」

「それが楽しい癖に」

 ジェーンの言葉に、ジャンヌはおどけるように目を逸らした後、耐え切れずに口元を綻ばせた。


「……皆が来てくれるのはね、すごく嬉しいの」ジェーンはいつの間にか俯いていた。それに気付かないまま、言葉を続ける。「それは本当に本当なの」

「なら、貴女は素直に喜べばいいんですよ」

「そう、だね……」

 ジャンヌの言葉は嬉しいものだった。それに頷けない自分がどうかしている。

 けれど、どうしてもダメだった。皆が自分に笑顔を向けてくれる度、胸を刺されるような気持ちになる。ワタシにはそんなものを向けられる資格なんてない。ワタシは弱い、だからこうするしかなかった。ただそれだけだ。誰かを傷付けられる事を嫌い、けれど傷付ける事を良しとした。

「貴女が何を胸の内に抱えているのかは、私には測り兼ねます」ジャンヌは俯いているジェーンに溜め息をつく。「貴女は皆の太陽です。貴女の傍に居ると、暖かくなりますから」


「……そんな恥ずかしい事、良く言えるね」

 ジェーンが驚いたように目を丸くする。ジャンヌは自分の発言を反芻はんすうするのに少し時間を使った後、

「……そういう、他人の隙を突くような発言、やはり貴女とジャネットは姉妹ですね」

「うふふ」ジェーンは口元に手を当てて笑う。「そうよ。あの子と私は意地悪だからね」

 ジャンヌはジェーンの笑顔を見る。事件以来に見る悪戯っぽい、けれどそれを許してしまう魅力を秘めた、彼女らしい笑顔だった。


「……今日、ここに来たのは、」

 ジャンヌは大きく息を吐いた。これを誰かに向けて口にするのは、ジェーンが初めてだった。だから、どこか緊張してしまう。けれど、この決意を抱けたのはジェーンのお陰だった。彼女の言葉が後押ししてくれたからだ。


 彼女の微笑みを見て、ジャンヌは満足そうに息を吐いた。そして、鞄の中を探って小さな箱を取り出すと、ジェーンに向けて差し出した。

「なあに、これ」

「プレゼントです。貴女の入院生活と、その後の生活が健やかである事を願って」

「…………」

 ジェーンは驚いたように目を見張りながら、ベッドの上に置かれた贈り物をおずおずとした様子で紐解いた。

 中に入っていたのは、小型のカメラだった。それも最新機種の。撮影が趣味のジェーンからすれば、この上なく貴重な品だった。

 今のワタシには受け取れないと言って拒否しようと顔を上げたジェーンを制すように、ジャンヌが先に口を開いた。


「受け取って下さい。そして、貴女の今を、それを使って切り取って下さい。今の傷付いた貴女の姿を、いつか思い出として笑い合える日が来た時の為に」


 ――今の、ワタシ……。手足を奪われ、補助がなければすぐに呼吸すら苦しくなるようなこの有り様を? ジェーンは自身を振り返り、半ば呆然となった。この体を、こうなった経緯を、いつか皆と思い出として笑い合える日が来ると、信じられる筈がなかった。

 だが、ジャンヌは違う。ジョンやジャネット達だってそれは同じだった。いつかジェーンが元気な姿で戻って来ると信じているから、いつの間にかこの病室は皆にとっての憩いの場と化していた。訪れる事すら苦しいと感じていた過去が嘘のように。

「……そんな時が、来るのかな」

「不安になるのは分かります」ジャンヌはジェーンに唯一残った手を取って、「大丈夫です。全部上手く行きます。貴女が不幸になる謂われなんて、これっぽちもないのですから」


 いつも誰かの無事ばかりを祈っていた彼女が、今度は自分に向けてその祈りを捧げるべきだ。ジャンヌはそう思った。そして、友人達も皆、同じ想いだった。ジェーンに必要なのは少しばかりの休憩時間。心配や不安から解放されて、今は療養に努めるべきだ。

 強く握られる自分の手。重なるジャンヌの手を見詰め、語られる言葉に耳を傾けながら、ジェーンの心を彩付けるのは――消し炭のような緋を覗かせる絶望だった。

 俯いたまま、心が沈んで行くのを感じる。自我が埋まり行く様を見送りながら、ジェーンは顔を上げた。そこに貼り付いた安らかな微笑みを、言葉をくれるジャンヌへと向けた。

「ありがとう。いつかの為に、皆と思い出を振り返られるようにするわ」

 ジャンヌは「良かった」と口にして、ジェーンと同じような微笑みを返した。そして、一歩下がってから、


「私は――決めましたよ」


「そう……」ジェーンはその一言だけで全てを悟った。彼女は柔らかく笑い、ジャンヌの決意を受け止める。「だから、『国際会議』なのね」

「そうです」ジャンヌは屹然きつぜんと顔を固める。「貴女の言う通り、今が好機ではあります。このような状態は、今までにあり得なかった」


「…………」

 ジェーンは微笑んだまま、ジャンヌを見詰める。その笑顔からは、いつの間にか色が失せていた。

 ジェーンの変化に気付かぬまま、ジャンヌは話を続ける。彼女の視線が下がっているのは、決意の内に不安があるからだ。それでも、決意を曲げる事だけはしない。


「私には義務があります、人々を守る義務が。それが聖ミカエルから与えられた使命だと信じています」


 嘘つき……。ジェーンは笑顔を崩さぬまま、頷きを繰り返す。


「ジャンヌなら大丈夫。貴方は強いから」

「そう、でしょうか。私は正しいのでしょうか」

「貴女は小さい頃からこれだと決めたら、絶対に曲げないじゃない。貴女は貴女の正義を貫くべきよ。ワタシはそれを――応援しか出来ないけど……」

 苦笑交じりの笑顔を向けられ、ジャンヌは首を振った。

「いいえ、貴女の応援はいつも励みになります。それを貰いにここを訪れたと言って、過言ではありません」

「そうなの……? だったら嬉しいわ」

 ジェーンの笑顔に、ジャンヌはホッと息をつく。彼女の笑顔にはそういった魔力がある。

「いつもありがとうございます、ジェーン」


 言葉が――刺さった。ジェーンは左手で胸を押さえる。胸の中心がズキズキと痛む。締め付けられるように痛むのは何故か。彼女はその理由も一緒に押さえ込む。

 それでも浮かべる笑顔は壮絶さを奥底に秘めた決死のそれ。しかし、引きってもいない、強張こわばってもいない。当たり前のように貼り付く笑顔が、偽りで彩られたモノであると気付かれぬように。

 ジェーンのそんな必死の形相を他所に、ジャンヌは暖かな笑顔を彼女に向けたまま、部屋を後にする。病室の戸が閉められた事を確認してから、ジェーンは慌ただしく酸素マスクを手に取り、深呼吸した。

 苦しさで発狂しそうだった。ジェーンは目をきつく瞑って、体を縮める。シーツを握り締め、ただ震え続ける。


 嘘つき、嘘つき、嘘吐き……ッ。口の中に呟き続けるその言葉が誰に宛てられたモノか、それは彼女しか知らない。

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