6-3.

「ええと……、それで、パブに行きたいんでしたっけ?」


 ジョンは意思を失くしたムサシからアジサイへと目を移す。彼女は同行者の無礼に済まなそうに頭を下げた後、


「ええ。せっかく英国に来ましたので、この国の文化に触れてみたいと思ったのです」

倫敦ロンドンの地図は持っていますか?」


 ジョンの問いに、コゴロウが懐から地図を取り出す。ジョンはそれを受け取って、


「美味いかどうかは分かりませんが、僕の馴染みのパブならご紹介出来ますよ」

「まあ」アジサイが顔を綻ばせ、パチンと手を打った。「それは嬉しい。是非お願い致します」


 ジョンはいつものパブの位置を地図にマークする。「ふむふむ……」とアジサイはその様子を見ながら頷き、ジョンの手を握った。

「味の保証はしませんよ」

 女性に手を握られてドキマギしながら、ジョンはそう繰り返す。「良いのです」とアジサイは首を振って、ジョンの耳元に口を近付けた。


「貴方からのご紹介ならどこでも良いですよ――、ジョン・シャーロック・ホームズさん」


「……はッ?」

 自分は果たして名を名乗っただろうか。ジョンが記憶を辿るが、そんな覚えはない。何故、彼女が自分の名を知っているのだろう。皇国が外交を拒絶しているのだから、彼らも外の情報を知り得ない筈だ。自分は父が有名だが、その息子の名まで知れ渡っている訳ではない。ジョンはアジサイがどこで自分の名を知り得たのかを思考するが、思い付く筈もなかった。


「では、行きましょうか」

 ジョンが呆けている間に、一行は馬車に乗り込んでいた。「あァ?」と声を上げるが後の祭り。アジサイは優雅に手を振り、コゴロウは帽子を胸に当て、コウスケは小さく会釈した。ムサシだけがジョンに目をくれず、腕を組んで座したまま、馬車に揺られながら行ってしまった。


「…………」

 自分は何を棒立ちしていたのだろうと、ジョンは途方に暮れた。皇国一行に対応出来なかったホテルスタッフが彼に礼を言うが、適当にあしらって仕事に戻る事にした。


 ホテルのロータリーと道路を跨いで反対側にはロンドン塔がある。ジョンは東に建つその尖塔を眺めながら、ホテルの北側、ヨット・ハーバーへ向かう。南に流れるテムズ川から入るその港には、多くのヨットが停泊していた。マストに止まるカラスが、まるで出迎えるようにジョンを見詰めていた。

 港を取り囲むように商業施設や料理店が建っている。夕暮れ時だ。客や店員の騒がしい声がここまで漏れ聞こえて来る。


 ジョンも「そろそろ晩飯だなあ」と呟きながら、港を調べて回る。怪しい物は見当たらず、日も暮れてしまったので、今日の調査を終える事にした。


 だが――、ふいに視線を感じ、ジョンは振り返った。しかし、彼に視線を投げていると思わしき目ぼしい相手は見当たらない。

 気の所為か、いや――と、首を傾げる。この手の勘をあまり外した事のないジョンはしかし、警戒するだけに留めた。

 あまり気にし過ぎても仕方ない……。ジョンは息を吐いて、用意された部屋に戻る事にした。


 収穫はない。大雑把ながらホテルの周囲を調べたが、悪魔の痕跡は見当たらない。『会議』が始まったら、多くの探偵と祓魔師が会場に集まる。事前準備もなしに、悪魔達が『会議』に侵入しようとするだろうか。そもそも不可能なのではないか。

 ……しかし、彼らが『国際会議』に何か仕掛けて来るというのは想像に難くない。疑うばかりではキリがないが、それでも――とジョンは思案する。どこかに抜け穴はないか、抜け道はないか。なんにでも罠はあると言ったのは、果たして誰だっただろうか。


「ホームズ様」

 地下階へ行こうと階段に繋がるドアを開こうとして、ジョンはオリバーに声を掛けられた。

「首尾はいかがでしょう」

「特に怪しいところはありませんね」

 ジョンが素直にそう言うと、オリバーは満足そうに頷いた。

「そうでしょう。当ホテルの安全性は徹底的に計算して造られました」

 相当な自信があるらしい。オリバーの誇らしげな表情からそれが見て取れた。

 

 ジョンは幾つか質問しようと、体をオリバーの方へと向けた。

「先程、皇国の方々とお会いしましたが、もう既にこのホテルに『会議』参加者が何人かいるんですか?」

「いえ、貴方がお会いした水無月様達だけになります」言って、オリバーはジョンに近付き、囁くように小声で続けた。「しかし、身分を偽って秘密裏に訪れている方々もいるようです。ここが前夜祭会場だと気付かれてしまわぬように……」


 悪魔の襲撃を懸念しているのか。確かに同じホテルに各国の王族達が集まっている事が知れたら、そこが『会議』の会場だと言って回っているようなものだ。

 このホテルは新しいものであるのも理由だろうが、様々な人種が出入りしている。『教会』がここを会場に決めたのはそんな理由もあるのかも知れない。


「今日、二十階のホールを見て来たんですが、まだ準備は済んでいないようですね」

「明日完了する予定です」

 準備は着々と進んでいる。土曜日に開催する前夜祭までもう時間はない。ジョンは残る明日一日という期限を改めて重く感じた。


 恐らく何重ものチェックが行われているだろうに、それでもマイクロフトはジョンに依頼してきた。それは自分にしか見付けられないモノがあると期待されているからかも知れない。しかし、今日一日を使って何も――と考えたところで、港で感じた視線の事を思い出した。

 あの時は警戒するだけに留めたが、アレこそがマイクロフトが自分に見付けて欲しいと願ったモノかも知れない。


 ジョンは右手首の包帯の下、そこに刻まれた赤黒い傷痕を見詰める。何か太い物で刺し貫かれたかのような傷は、『彼の人』を十字架に磔にした時に使われた本物の『聖遺物』を使って穿たれた傷だった。その傷を囲むように、これ以上の損傷、治癒しないようにする為の呪いが言葉と図形として彫り刻まれていた。

 ジョンの体にはそういった『聖痕』が両手首と両足首、右胸、頭部に刻まれていた。これらは全て『聖遺物』に因って付けられた人工の『聖痕』。彼はその体で悪性の察知を行える。


 先の宮本ムサシとの対峙で、彼の攻撃を察知出来たのはその副産物。彼は相手が自分に対して「敵意」や「悪意」を向けられた際、それを察知し、相手が実行動を開始する前に動き出す事が出来る。それを用いて回避や先制に転じ、ジョンは多くの敵と渡り合ってきた。

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