5-10.
トランクケースを肩に背負ったジョンの背中が遠ざかっていくのを、メアリーは一階にあるハドソン夫人の部屋の窓から見送る。その顔はいっそ拗ねるように歪んでいて、目には涙を湛えていた。
部屋の中はジョンの殺風景な部屋とは打って変わって、細部まで装飾に満ちていた。小さな花が浮かぶ壁紙、可愛らしい陶磁器の並ぶ棚、キッチンの棚には英国人らしく様々な紅茶葉が収められていた。
「メアリーちゃん、どうしたのぉ?」
盆にティーポットとカップを乗せ、ハドソン夫人がキッチンから現れる。メアリーは返事もせず、ハドソン夫人に抱き付いた。
「あらあら、甘えん坊さんねぇ」ハドソン夫人が盆をテーブルに乗せてから、メアリーを迎え入れた。「ジョン君、行っちゃった?」
「うん……。本当に、わたしを連れて行ってくれなかった……」
ショックだった。何か一言くらいあってもいいのに……。メアリーはジョンに裏切られた気分だった。
「ジョン君も不器用だからねぇ。メアリーちゃんに何を言っていいのか分からなかったんでしょう。……まったく、シャーロックさんにそっくりだわぁ」
「……シャーロック?」
「ええ、ジョン君のお父さんも、ジョン君がちっちゃい頃、黙って仕事に出掛けていたわ。だからわたしが面倒を見るしかなかったのよぉ」
「ハドソンさんが? お兄ちゃんの、お母さんは?」
メアリーはそう言えば、ジョンから父親の話はともかく、母親の話は聞いた事がなかった。
「あの子のお母さんはねぇ、ジョン君を生んですぐに死んじゃったの。だからジョン君はお母さんの事なんて、何一つ覚えていないのよ。写真を見た事がある程度でしょうねぇ」
メアリーはジョンの部屋にある書棚に、彼女が読めない字の本があるのを思い出す。
「ねえ、お兄ちゃんのお母さんって、もしかして外国の人?」
「そうよぉ」ハドソン夫人はどこか遠い目をして、「黒い髪が長くて綺麗で、でもすごく目付きの鋭い人。シャーロックさんに負けないくらい気の強い人だったわぁ」
メアリーは自分の母親の記憶を辿る。……けれど、もう思い出せなかった。ホワイトチャペルで過ごした日々が、今日を生きる為に明日を捨てるあの日々の中で、置いていってしまった。
「お兄ちゃんはわたしの事、もう要らないのかな……」
口にして、メアリーは途端に強い不安に襲われた。震え出した体を押さえ付ける事が出来なくなった。
「大丈夫よぉ」ハドソン夫人は優しくメアリーを抱き締める。「ジョン君は誰かを見捨てたり出来ない子だからねぇ。メアリーちゃんを置き去りになんてしないわよぉ」
「やっとお兄ちゃんの役に立てると思ったのに……。わたし達を助けてくれたお兄ちゃんを助けてあげられると思ったのに……」
悔しさだった。込み上げる涙の理由は悔しさだった。恩人の中にある自分の立ち位置と、自分が思う自分の立ち位置、その相互。理想と現実との差に、メアリーは打ちのめされていた。
それを悟ったハドソン夫人は、いつものように微笑みを向ける。
「ジョン君はねぇ、ずっと今のメアリーちゃんと同じなのよ」
「……どういう事?」
「ジョン君はねぇ、シャーロックさんに勝ちたい、勝ちたいってずーっと言ってる。でも一度も勝てないまま、シャーロックさんは逝ってしまった。それでもジョン君は立ち止まらずに、シャーロックさんを睨み続けてる。それはどうしてか分かる?」
「…………」
分かるようで――しかし、分からなかった。メアリーは首を振った。
「ジョン君が自分で自分に課したからよ、シャーロックさんに勝つまで歩みを止めないって。あいつに負けるのは百歩譲って許すけど、自分には絶対に負けない。もうそうなったら『これまで』と『これから』が全て無駄になる。それが一番悔しい――ですって」
これまでの努力とこれからの積み重ね。勝ち負けでなく、諦めてしまう事が何よりも悔しい。
「ジョン君は意地っ張りで、本当に意固地な子だからねぇ。今まで足掻いて来た自分を見捨てる事も出来ないのよ」ハドソン夫人はメアリーの頭を撫で付けた。「悔しいって思えるなら、まだメアリーちゃんは戦おうとしてるのよ。戦い続けていれば、いつかジョン君にだって追い付ける。いつかメアリーちゃんはジョン君の相棒になれるわよ」
「いつか――いつか……」
メアリーは未来を思い描く事をやめていた。ホワイトチャペルで過ごした日々は彼女から未来を奪った。でも、今は違う。彼らに助けられ、自由な未来を夢見る事が出来る。
メアリーがジョンに付いて行く必要性など、どこにもない。真実、どこにもない。けれど、メアリーは自分で選んだ。
――「じゃあ、僕のところに来ればいい」。そう言って、彼はわたしに手を差し伸べてくれた。本当に嬉しくて、その手を取った。……そう、手を取ったのは、わたしなのだ。
「……わたし、子供だね。お兄ちゃんには返し切れない恩があるのに、わたしは子供みたいな我が儘を言って、お兄ちゃんを困らせた……」
「いいのよぉ、そんなの。メアリーちゃんはまだ子供なんだからぁ」あっけからんと笑うハドソン夫人は、メアリーの頭を撫で続ける。「ジョン君だって、分かってる。でもジョン君はジョン君だから、メアリーちゃんに何を言っていいのか分からなかっただけよぉ」
彼女からすれば、二人ともまだまだ子供に違いない。このアパートには問題児ばかり集まった。だからと言って、彼女は住人達を見捨てない。
「お兄ちゃん、わたしのこと、許してくれるかな」
「大丈夫よぉ。わたしがいる限り、仲違いなんてさせないからねぇ」
この家を守る事は、彼女の亡き夫との誓い。何より愛しい人を守る事が、彼女の望みだった。
「喧嘩して、いがみ合って、争って、それでも一緒にいてしまうのが家族。ジョン君もヴィクター君もジュネちゃんもジャネットちゃんもジェーンちゃんもメアリーちゃんも、わたしの大事な大事な家族。皆で仲良くいられれば、わたしはもう何もいらないわぁ」
ハドソン夫人の微笑みを見て、メアリーも釣られて笑う。彼女の笑顔を見ていると、胸がほっこりと暖かくなる。不安が嘘みたいに溶けてしまう。
「仲直り、出来るかな」
「大丈夫。いつも通り『おかえりなさい』って、言ってあげればいいのよぉ」
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