5-9.

「ヴィクター、ジュネ、それにハドソンさん。済まないが、しばらくメアリーを頼めるか」

「ボクは構わないけど、本当にいいのかい。あの子に相当恨まれるぞ」

 ヴィクターの言葉に、ジョンは顔をしかめる。それは嫌だ――本心からの想いだったが、それでもジョンは首を振った。

「ああ、それでも今回はダメなんだ。悪いな」


「謝るんなら、メアリーに言いなさいよ。ホラ」

 ジュネがジョンの体の向きを変え、メアリーが閉じ籠る寝室に向けてグイと背中を押した。

 ジョンは寝室に近付くと、戸をノックする。……また何か投げたのか、戸が派手な音を立てて揺れた。

「あー……、メアリー?」ジョンの声に、返答はない。溜め息をついて、続ける。「本当に悪いと思ってる。この埋め合わせはちゃんとする。今回だけだから、許してくれ」

 こんな情けないセリフを吐く日が来るとは思わなかった。後になってジョンはそう思ったが、今の彼は冷や汗を流すくらい必死だった。しかし、返って来たのは怒鳴り声だった。


「うるさい、信じない! お兄ちゃんのバカ、バカ、バーカッ!」


「…………」

 ジョンは自分のこめかみがヒクヒクと痙攣しているのを感じていた。あと少しで大声を上げるところだった。危機を察知したヴィクターとジュネに因って廊下に引き戻され、なんとか事なきを得た。

「あそこで吠えていたら、大人げないにも程があるぞ、君」

「おう、危なかったぜ……。いやあ、あのクソガキ。一発痛い目見ねえと分かんねえか?」

「やめなさいよ。まったく、クソガキ具合なら貴方もいい勝負よ」

 ジュネの言葉に、思わず「あァ?」と声を上げるジョン。そんな彼の頭を、ハドソン夫人が鷲掴みにして握り締めた。

「ダメよぉ、物騒な声出しちゃあ。今のはジョン君が一方的に悪いからねぇ」

「痛たたたたッ!」


 ハドソン夫人の可憐な見た目とは懸け離れた威力のアイアンクローに、ジョンは悲鳴を上げる。ジョンは幼い頃から親しみたくもないその威力を、身を持って知っている。


「自分に向けられた悪口に対して、反射的に声を上げるのは悪い癖よぉ。ジョン君はまだまだ子供。少しずつ大人になっていきましょうねぇ」


 子育てという点でいい親ではなかったシャーロックは、仕事を理由にして幼少期のジョンをハドソン夫人に任せ切りにしていた。その恩と抗い難き恐怖を埋め込まれ、ほとんど親代わりのハドソン夫人に、ジョンは逆らえない。

「でも、メアリーちゃんも頑固者ねぇ。やっぱり普段、傍にいる人の影響かしらぁ」

「それは僕の事ですかねッ! それより痛いんでそろそろ放して貰っていいですか!」

 自分の手を何度も叩くジョンに「あらぁ」と声を出し、ハドソン夫人は彼の頭から手を離した。ようやく拘束を解除されたジョンは、力なく床に崩れ落ちた。


「……いや、それでも、メアリーは連れて行けないんだ」

「一体君はどこの誰からの依頼を請け負ったんだ?」

 ヴィクターの怪訝そうな声に、ジョンは首を振った。

「はぁ。それも喋れないと。……本当に信頼出来る依頼なのかい」

「それは大丈夫だ。これ以上ないくらい信用出来る依頼主だよ」

 何せ、異端審問会長官直々の依頼だからな――とは言えないが。ジョンの深い首肯に、ヴィクターはそれ以上何も言えなかった。

「でも、依頼内容も依頼主の事も何も話しちゃいけない上に単独行動を求めるなんて……。怪し過ぎない、本当に大丈夫なの?」

 しかし、ジュネは尚も心配そうだった。確かに傍から見れば怪しい事この上ないだろう。ジョンもそれを認識しつつも、「大丈夫だ」と頷いた。


「心配ない。土曜日までメアリーの事を頼むよ」

 ジョンがそう言って頭を下げた直後だった。

「――土曜日?」

 ヴィクターが急に目付きを鋭くし、呟いた。ジョンは怪訝そうに彼を見る。

「なんだ、どうかしたか?」

「いや、随分長丁場だなと思って……」ヴィクターは視線を宙に漂わせ、「どこか遠くに行くのかい」

「いや、倫敦ロンドンからは出ないよ」

「そうかい」ヴィクターは小さく息を吐いた。「分かった、メアリーの事は心配いらない」

 どこか変な言い回しだなと、ジョンは思った。しかし、いつもと変わらぬヴィクターのニヤケ面に、「まあいいか」と思い直し、彼に部屋の鍵を預けた。


「じゃあ、僕は仕事に行くから。メアリーの事、頼んだぞ」

 メアリーをこのままにしていくのは不誠実だと、ジョン自身にも分かっている。けれど彼女には納得して貰う他ないのだ。ジョンは自分にそう言い聞かせるようにして、足早に階段を降りて行った。


 その後、ジョンは猛スピードで溜まっていた依頼をこなした。こんなに忙しいのは開業以来だろう。全ての事件が家屋の劣化や害獣が原因で本当に助かった。これでもし本物の悪魔が紛れ込んでいたりしたら、ジョンはマイクロフトの依頼に取り掛かれなくなっていただろう。

 自室に戻ってもメアリーの姿はなく、どうもハドソン夫人の部屋にいるようだった。メアリーがジョンと顔を合わせたくないと語っている事に幾ばくかのショックを受けたが、ジョンはなんとか飲み込んだ。


 そして、ジョンは発言通り、三日で依頼の完了と報告書の提出を済ませると、着替えと装備をトランクケースに詰め、ベーカー街221Bを後にした。

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