5-8.
夜が明け、ジョンは目を覚ます。メアリーがジョンの部屋の戸を叩いたからだ。
「よう、おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん。お姉ちゃんは始発の汽車でもう行っちゃったよ」
「だろうな……」
いつも通りだ。メアリーはジャネットを見送った後、その足でジョンの部屋へと戻って来る。
いつものように簡単な朝食を用意するメアリーを尻目に、ジョンは顔を洗って服を着替える。彼が戻って来た頃には、満面の笑みと共に焼き上がったトーストとスクランブルエッグがメアリーと共に待っていた。
「今抱えている案件だけどな、三日で終わらせる」
「え……っ?」
食事中、ジョンから告げられた突然の言葉に、メアリーは手に持っていたトーストを落としそうになった。
「急にどうしたの、お兄ちゃん」
「デカい仕事が入った。しばらくはそっちに集中しなきゃならない」
トーストを齧りながら平然とそう言うジョンに、やはりメアリーは目を白黒させて、
「えぇ? いつの間に、そんな……えぇ?」
「お前がいない間に僕が一人で決めたんだよ、悪いな」
わたしがいない間――。メアリーはハッとなった。
「もしかして、昨日皆でご飯を食べた、あの後? だからあの時、お兄ちゃんはお酒を飲まなかったの?」
そうだと頷くジョン。その、あまりにも平然とした様子に、メアリーは傷付いたような顔をした。
「そんな……。わたし、何も聞いてない。お兄ちゃんの――助手なのに……」
「それからな」俯き、食事の手を止めたメアリーに追い打ちを掛けるように、ジョンは続ける。「そのデカい仕事に、お前は連れて行けない」
「――――」
今度こそ、メアリーは息を呑んだ。どうしてか涙を零しそうになって、それを必死に堪えた。
「ど、ど、どうして、わたしは、一緒に、行けないの……?」
「…………」
ジョンはメアリーの震える体を見詰める。俯いたままの彼女を見詰める。
……話が唐突過ぎたか。ジョンはしまったと歯を噛んだ。彼女がここまでショックを受けるとは思っていなかった。
それでもマイクロフトからの案件にメアリーは連れて行けない。依頼主からの条件は守らなければ。
「一人でやってくれってのが、今回の案件の条件だからだ。だから、僕一人で行く。お前は留守番だ」
「で、でも、わたしは、その、お兄ちゃんの……」
「助手だとしても、今回はダメなんだ。僕一人だけで行く。お前は要らない」
「――……っ」
メアリーは勢い良く立ち上がった。拳を握り、肩を震わせたまま俯いていた。ジョンは見た事のないそんな彼女の様子に怪訝そうな目を送る。
「メアリー……?」
「お兄ちゃんの……ッ」キッと顔を上げたメアリー。「お兄ちゃんのバカっ!」
そう叫ぶと、皿に置かれていたトーストを手に取って、ジョンの顔に向けて投げ付けた。そして寝室へと駆け込むと、ドアを強く閉めて鍵を掛けた。
「…………」
寸でのところで
「あー……、メアリー? 食べ物を粗末にするのは良くない」
自分でも何を言っているのか分からなかった。ジョンのそんな間の抜けた言葉に対し、メアリーはドアに向かって枕を投げ付ける事を返答とした。ドシンと大きくドアが揺れて、ジョンは思わず身を竦めた。
「バカ! お兄ちゃんのバカ! 知らない、もう知らない! わたしはお兄ちゃんの助手なのに! 要らないなら勝手すればいいじゃん!」
「……いや、要らないって言うのは、今回の案件についてだけであってな――」
「うるさい、知らないもん! お兄ちゃんのバーカッ!」
しかし、今回の案件にメアリーを連れて行けないのは真実で、どうしようもない。それを説明したのにどうしてこうなってしまったのか。ジョンは引き攣った笑みを浮かべ、頭を掻く。本当にどうすればいいのか分からず、固まってしまった。
困り果てるジョンの背後で戸がノックされる。ジョンは藁にも縋る思いでその戸を開けた。廊下にはヴィクターとジュネ、更にアパートの管理人であるハドソン夫人までいた。
「なんかメアリーの大きな声がしたから……」
心配そうにそう言うジュネは着替え途中で飛び出して来たのか、スラックスを履いているのに上はパジャマというおかしな恰好をしていた。
「いやあ、なんと言うか……、喧嘩になっちまってな……」
「まさか殴ってないでしょうね」
「そんな訳ねえだろ……」
ジュネに睨まれ、ジョンは苦笑した。彼は短気だが、だからと言って、子供に手を上げる程、
「何があったんだい?」
眠そうに目を擦りながら、ヴィクターが尋ねる。ジョンはその場の三人に経緯を説明した。
「あらぁ。それはダメよ~」
間延びした声で言いながら、いつも通りの割烹着姿のハドソン夫人が呆れたように腕を組む。
「何がです?」
「メアリーちゃんはねぇ、最近ジョン君の助手として活躍出来てる、しっかり役に立ててるって自信がついてきたみたいでねぇ。わたしに嬉しそうに今日はこんなお仕事をして、自分はこんな事をしたんだって、お話してくれるんだもん」
「…………」
メアリーは切り裂きジャック事件の後、ジョン達が引き取った。他の子供達は悪魔に憑かれた経緯もあり、『教会』に引き取られ、彼女だけが取り残されたからだ。
家族と離れ離れになった後のメアリーは新しい生活に慣れようと必死だったが、それでもあの悪名高きホワイトチャペルでの生活を忘れる事は出来なかった。暗闇を怖がり、また孤独を怖がった。ちょっとした物音にも飛び上がる程怯えていた。
しかし時が経つにつれ、そういった兆候は見られなくなり、本来の彼女らしい明るく元気で、ところどころ真面目過ぎるくらいしっかりした様子が垣間見えるようになった。そうなった切っ掛けはジョンと共に事件を解決しようと駆けずり回ったからかも知れない。その中でメアリーは自信を付ける事が出来たのかも知れない。
それなのに、ジョンはメアリーへの相談もなしに勝手に仕事を引き受け、あまつさえ同行を拒否した。……それがどれだけメアリーの心を打ったか、想像もつかない。
「メアリーちゃん、ショックだったと思うわぁ」
「やっちまったか……」
ジョンは頭を掻きながら、背後に振り返る。寝室の方から、すすり泣くような声が聞こえていた。
マイクロフトの話を聞きながら、ジョンはメアリー――自分の助手の事など考えもしなかった。自分の目的の事しか眼中になかった。メアリーがハドソン夫人にそんな話をしていたなんて知らなかった。まさか彼女が探偵の助手を勤めている事に誇りを持っているなんて、考えもしなかった。自分の事が利己的な酷い裏切り者に思えて、ジョンは重い溜め息をついた。
それでも、今回はダメなんだ。ジョンはしかし、考えを改めなかった。隠密行動を求められる今回の依頼には、メアリーを連れて行けない。
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