5-2.

 真っ暗になった階段はしかし、扉が下りた直後、足元に淡い光が灯った。ジョンは止めていた足を動かし、離れて行くボンドの後を追った。


「おい、なんだあの壁。どういう仕組みなんだ?」

 追い付いたジョンが、ボンドの背中に問う。

「手の平の内側にある静脈は、個人個人で違う地図を描いております。それを予め登録し、記録させておくのです。そしてそれを機械に読み込ませる事で、複製が不可能な鍵として利用しているのです。生態認証と呼ばれる技術であります」

「……何言ってんだ?」

 機械全般に疎いジョンは、ボンドの説明が何一つ理解出来なかった。

「医術と技術の融合であります。恐らくご友人のヴィクター殿ならお詳しいと思います」

 苦笑めいたものを浮かべ、ボンドはそう言った。技術の進歩は喜ぶべきものだが、それに付いて行けない自分みたいな人間はどうすればいいのだろうか。ジョンは頭を抱えた。


 階段を降り切ると、また壁があった。ボンドは壁の一角に顔を――否、瞳を近付ける。するとまた聞き慣れないピピッという音がして、壁が右へとスライドして開かれた。

「……今度は何を鍵にしてるんだ?」

「瞳の虹彩の模様です。これもまた、個人個人で全く違うパターンを成しているのです」

 ジョンは「すげー」と一本調子で口にする。


 壁の向こうには広い部屋があった。窓はなく、四方は壁に囲まれていた。四隅に電灯があり、中央には机と椅子があるだけの、まるで牢獄のような部屋だった。


「『M』、ジョン・シャーロック・ホームズ殿をお連れしました」


 そしてその中央の椅子に、恰幅のいい男性が腰掛けていた。

 前髪の後退が見える黒髪、肉の付いた頬が目立つ柔和な顔付きとは裏腹な猛禽類のように鋭い碧の瞳。格式の高いビーフィースーツのベルトには、でっぷりとした腹が乗っていた。

 贅肉の付いた体格、しかしその瞳の鋭利さからは彼の生き抜いて来た世界の厳しさが伺える。決して温厚そうな見た目に惑わされてはいけない凄味が、男からは醸し出されていた。

 しかしジョンは彼の事を知っていた。目を丸くして、気構えを解いた。


「あんた、伯父さん――マイクロフト・ホームズか?」

「はッ、そうだとも。あのバカの葬式以来か。久し振りだな、ジョン」


 男――『M』ことマイクロフト・ホームズは一笑し、ジョンに椅子に座るように促した。

 ジョンはマイクロフトに従いながら、信じられないような面持ちで彼を見る。


 マイクロフト・ホームズ。ジョンの父、シャーロック・ホームズの兄であり、つまりジョンの伯父にあたる。彼は政府に勤めており、ジョンの記憶では確かどこかの官庁で会計検査の任に就いていた筈だ。そんな彼が異端審問会に属しているとは想像すらしなかった。

 そもそも異端審問会は『政府』とも『教会』とも別の、王族直属の第三者機関だった筈だ。何故、政府高官のマイクロフトが『MI6』のメンバーになっているのか。


「はン。そんな事か」

マイクロフトは懐からパイプを取り出して葉を詰め、マッチを灯して火を点ける。プカプカと何度か吸って葉に火を回すと、煙を口の中に燻らせて吐き出した。ジョンはその動作に父の面影を見出した。兄弟だからなのか、一連の手付きのことごとくが似ていた。

 天井に煙がしばらく渦を巻いていたが、時間を掛けて壁に吸い込まれていく。どういうシステムか、ジョンには想像もつかない。

「ここ、煙草を吸ってもいいのか」

 ジョンも懐からジッポーと煙草箱を取り出して、机に置いた。マイクロフトは「おお」と唸って頷いた。

 横からスッと手が伸び、ボンドから灰皿を手渡される。ジョンは礼を言い、煙草を咥えて火を点けた。


「で、俺がどうして『MI6』にいるのか――だったか」マイクロフトは相も変わらず詰まらなそうに、「異端審問会は王族直属だ。しかし『王族』は『政府』と繋がっている。要するに、『政府』が用意した『教会』への安全装置だ。第三者機関とはただの名目だ」

「それなら『教会』が黙っている筈ないだろ」

「『教会』は何も言わんさ。何せ奴らには不正や不実なんてありはしないんだからな」


 例え『政府』と異端審問会に繋がりがあろうとも、『教会』がそれを良しとするのは、ひとえに自分達の潔白性に偽りはないからだ。その「繋がり」に口出しする事こそが、「何か調べられてはマズい事がある」と自白しているのと同じ事になる。だから『教会』は何も言わない。何も言わぬままに座し、自分達の姿をありのままに晒す。


「……と言うか、あんたらが逆手に取って何も言わせないだけじゃないのか」

 眉を上げるジョンに、マイクロフトがニィと口を歪ませる。

「ふン。少しは頭を使えるじゃないか。まだまだ青いがね」


 マイクロフトの小馬鹿にしたような口調に、ジョンは「そう言えば……」と思い出す。後にも先にも、シャーロックを「バカ」と呼ぶのは彼以外にいなかった。

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