5-1.

「くそ……」

 ジョンはワトソン邸を出るや否や、煙草に火を点けた。紫煙を吐きながら、速足で道を歩く。約束の時間まで、もう数分しかなかった。


 ――「ジョン、なにか、アタシに隠してない?」。先程聞いたジャネットの声が脳裏に響く。


「チィ……ッ」

 ジョンが苛立ちに任せて、派手に舌打ちを飛ばす。


 相変わらず勘のいい奴だ、忌々しい。ジョンは胸中でそう吐き出しながら、また舌打ちを飛ばす。

 正直に言えば、ジョンはジャネットと顔を合わせるのが苦痛になっていた。彼女とジェーンは双子だ。ジェーンとそっくりの彼女を見れば、否応なしに過去の過ちを呼び起こされる。


 自分がしっかりしていれば。何か一つでも出来ていれば。もしもこうしていれば、死んでしまった三人は助かったかも知れない――そんな事ばかり頭を過ぎる。今更考えてもどうしようもない事、今から何か出来る事など何一つないのは百も承知だ。それでも、それでも――と、考えてしまうのは、仕方ないだろう。

 だがそれを「仕方ない」で片付けられないのがジョンだった。彼にとっては途方もない失敗、取り返しの付かない失態だ。そしてジャネットにそう責められても当然の事だと思っている。彼女がそうしないのは、彼女が聡明な人間だからだ。当時の状況を把握して、思考し、納得出来る人間だからだ。ジョンに責任はないと、彼女が考えてくれたから、彼女は自分を責めないのだ。


 ジョンはそれが嫌だった。簡単に言ってしまえば、今、自分は彼女に気を遣われている。彼は彼女と対等でいたい。二人の間にわだかまりなどない状態がいい。忌憚なくなんでも言い合え、例え怒鳴り合い、喧嘩ばかりでも、その距離感が彼は好きだった。


「全部僕の我が儘さ。だからどうした糞っ垂れ……ッ」

 子供の我が儘。大人のエゴ。自身の欲求通りにならない苛立ち。


 責めるなら責めろ。言いたい事があるなら言ってくれ。僕とお前とで隠し合いなんて似合わない。ジョンは内なる罪悪感から、幼馴染に懐疑的になっている自分が嫌だった。

 それを煙で燻して殺そうと、ジョンは吸い殻をテムズ川に投げ捨て、新たな煙草を咥えて火を点ける。


 キングス・クロス駅までさほど遠くない。このまま歩く速度を保てれば、約束の時間にギリギリ間に合うだろう。

 ジョンは空に向けて、紫煙を大きく吐き出す。ジャネットの事は一旦頭から外そう。これから会うのは、得体の知れない異端審問官だ。苛立ちで冷静さを欠いて良い相手ではない。意識を切り換えろ、集中しろ。ジョンは構え、中空に拳を放ちながら歩き続ける。

 シャドー・ボクシングを繰り返しながら歩く姿は珍妙だったが、今は深夜だ。人通りはほとんどなく、ジョンの姿を咎める者はいなかった。そうしている間に、キングス・クロス駅に辿り着いた。


「…………」

 当然の事ながら、一日の営業を終えた駅は門が閉められ、出入りが出来なくなっていた。ジョンはどこか忍び込める場所はないかと目を走らせたが、見付からなかった。ジョンは踵を返して線路際まで進むと、柵を乗り越えて線路上を歩き、構内へと侵入した。

 9番線のプラットフォームに到着し、ジョンは「さて……」と呟いて首を傾げる。


 レンガと鉄骨が組み合わされた現代と古代の融合。ガラス張りのアーチから覗くのは、いつものごとく霧に煙るロンドンの夜。ジョンはしばし駅舎の景観に見ていたが、やがて頭を振ってレンガ造りの柱に掛かる「9番線」を示す表示板に目を移し、自分が立っている場所がやはり9番線である事を再確認する。


「9と3/4番線だったか……?」

 口にして、ジョンはからかわれているような気分になった。そんな中途半端な路線が存在する筈がない。

 プラットフォームを端から端まで歩いてみる。やはり「3/4」と呼ばれる所以が分からない。ジョンはプラットフォームの後端から駅構内の方を見る。構内は闇に包まれ、灯りは薄い月明かりとジョンが口元に咥える煙草の火だけだった。

 ジョンが深く息を吸う。火の灯りが強くなる。目を閉じ、意識を閉じる。……自分の外にある「意識」を探知しようと試みる。


「……ああ、そういう事か」

 やがてジョンはそう呟くと、火が点いたままの煙草を背後に向かって投げ捨てた。

「…………」

 いくら待っても、煙草が床に落下した音がしない。ジョンは溜め息をついた。

「いつからいたんだよ」

 その問いは、正面を向きながらも背後に向けられていた。返答はすぐに来た。


「貴方がワトソン邸を出てすぐであります」


 数時間ぶりに聞くその声を忘れる筈がなかった。ジョンはいつの間にか、ジェームズ・ボンドに尾行されていたのだ。ジョンは「糞っ垂れ」と舌打ちをして、

「それで? 僕がここに来て困り果てていた姿を見て笑ってたのか?」

「いえ、小生に気付くまでは入り口を教えないよう、『M』から申し付けられておりました」

 ボンドがスッと頭を下げた気配。それでもジョンの気は治まらない。頭を掻いて、素直に苛立ちを示す。

「『M』とか言うフザけた奴は、一発ブン殴って構わねえよなァ?」

「お止めください」

 ジョンが本当に言葉通りにすると思ったのか。幾許かの焦りが、ボンドの短い言葉に含まれていた。


 靴音がして、ジョンが思わず振り返る。その瞬間をすり抜けるように、ボンドがジョンの前に出た。そのタイミングの妙に、ギョッと目を丸くしてジョンは慌てて向き直った。撫で付けた短い白髪、タキシードスーツのスラリとした背中が、目の前にあった。

「……いいのか、僕の前に出て」

「貴方は信頼出来るお人ですから」

 そう語る彼の指には、ジョンが投げ捨てた煙草が挟まっていた。

「……ハッ。そりゃあどうも」

 皮肉気に笑うジョンに、返すボンドのニヒルな微笑は見えない。ジョンは足を動かし始めたボンドに続いて歩く。


 九番線のプラットフォームにある各フォームを繋ぐ歩道橋を前にして、ボンドが立ち止まった。その壁に手を押し付ける姿を見、ジョンは訝しむように眉を寄せる。


「……何してんだ?」

「鍵を開けるのです」


 手の平を壁に押し付けながら何を言って――と言おうとした時、ジョンの耳にピピッという何やら聞き慣れない音がした。その直後、壁の四方に亀裂が入り、音もなくせり上がった。

「…………!」

 どんな仕組みだよ! ジョンが独りでに動いた壁に面食らっていた。そんな彼を意に介さず、ボンドは扉だった壁の向こう――地下へと続く階段を降りて行く。


 成程、9と3/4番線ね……。ジョンは胸の中で呟くと、慌てて彼を追った。彼が扉を潜った直後、また音もなく扉が下り、壁としての責務に戻った。

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