3-4.

 政治と宗教はお互いに不干渉。人の行いと神の教えの不文律は今に始まった事ではない。

 政府は『教会』に人心を操作され、国の行く末を握られてしまう事を恐れた。『教会』もまた、政府が定める法に因る宗教弾圧を恐れた。その睨み合いを暗黙の了解とし、両方を監視する為の機関が設けられた。


 それが『異端審問会』。世界各国に存在する、国や政府、そして『教会』から独立した機関。


 祓魔師や探偵が悪魔を退治する為に身に付けた異能のチカラ。それを武器として振る舞う事がないよう『教会』への抑止力とする一方、凶行に及んだ彼らを誅する権利を持つ。更には、政治家達の信仰の自由を認めながらも、彼らの発言が信者達から選挙票の獲得や内部派閥の癒着などを見張り、場合に因っては謹慎などの処分を下す事の出来る権利すら持っている。


 政府と教会。両者を牽制する役割を持ち、表沙汰には顔を出さない国家の暗部。

 英国の異端審問会、名を『MI6』。それがジョン・シャーロック・ホームズという探偵の下に訪れたと言う事は、すなわち――、


「……異端審問会が僕みたいな一介の探偵になんの用だ?」

 ジョンは額に汗を浮かべながら問うた。自分に罰が下る心当たりがあり過ぎる。『十字架』、『聖痕』、『特異点』――。自分にも良く理解出来ていない代物が手元にあり、それを先の事件で武器として振るった事は事実だった。

 背後の男――ボンドが自分の首に鎌の刃を当てる死神に等しくなった。ジョンの手がそろりそろりと下がっていく。懐にある得物を手に取ろうしていた。しかしボンドが素早く両手を取り押さえた。

「警戒は不要。しかし余計な動作は謹んで頂きたい」

 行為とは裏腹に、ジョンはボンドの言葉の中に敵意は検知出来なかった。再びの溜め息をつき、ジョンは大人しくなった。

 それを見届けたボンドが、ジョンの手を離して口を開く。


「『M』より伝言を預かっておりまする」

「『M』?」

 恐らくはコードネーム。誰の事だか、ジョンは見当も付かなかった。


「今夜午前一時、キングス・クロス駅9と3/4線にて待つ――。以上が『M』よりの言伝であります」


「は、何、えッ、9と……なんて言った?」

 ジョンは聞いた事のない言葉に戸惑う。キングス・クロス駅は分かるが、ボンドは果たして何番線と言ったのか?

「9と3/4線――であります」

 ボンドは繰り返すが、ジョンは「そんなプラットフォームがあったか?」と首を傾げる。

「小生の任務はこれに終了。では」

「あッ、なンだと……ッ!」

 ジョンは慌てて振り返るが、やはりその先に人の姿はない。

 常に背後を取り続ける。それはなんらかの技だとジョンは判断した。歩法か、体捌きか。しかし「このまま帰らせて堪るか」と煮え滾って冷め切った思考の末、ジョンの体が答えを導き出す。


 他人の家に押し入って、好き放題に喋った挙句に黙って帰らせる訳ねえだろうが……!


 敵を背にしたまま、攻撃を繰り出す。ジョンは構え、肩から骨盤を押すようにして体を落とし、その最中で体を反転させた。敵が自分の背中を取ろうとするならば、先程までジョンが「正面」と捉えていた方向へと動いた筈だ。反転で敵の位置を誘導、固定。体の落下で生じた速度を落とさぬまま、床に両手を付き、左足を後方へと突き上げた。

「ッ!」

 足に衝突の感触、同時に狼狽えたようなボンドの声。

 ジョンは左足を戻すと同時に両手共に強く床を突き飛ばした。まずは右足、遅れて左足を伸ばしながら体ごと回転して振り回す。二度の激突の感触を得、体の上下を戻すと素早く構え直した。

 背の向こうは窓。背後に男が立つスペースはない。それでもジョンは正面に敵を捉える事は出来なかった。しかし、回転の最中にチラリとだけ男の姿を見た。タキシードスーツを着た、なんの変哲もないどこにでもいそうな男。一瞬垣間見た男の姿に、ジョンはそんな印象を抱いた。


「いやはや……」ジョンの背後から、男の声が煙のように立ち昇った。「まったく、破天荒なお方だ。お父上の血を引いておられるだけはある」

「糞親父は関係ねえだろ」

 ボンドの声に少しばかりの疲労感が伺えた。ジョンはしてやったりと笑む一方で、彼の言葉に思わず眉間に皺を寄せた。

 男は窓の向こうにいる。と言うか、器用にも窓枠に足を置いてしゃがみ込んでいる。ジョンは目の前の床に映る影から、ボンドの姿勢を見た。


「糞っ垂れが。本当に背後を取る事だけは見事だよ」

 ジョンは苛立ちを顔に出しながらも、ボンドの手腕を称賛する。ボンドの影が恭しく頭を下げた。

「お褒めに預かり光栄の至り。『影追い』――と、称される技であります。文字通り敵の影を追い続ける技にございます」

 聞いた事のない名。「文字通り」と言われても、一体どんな動きなのか、想像も付かない。ジョンは溜め息をつき、再び両手を上げた。

「降参だ。これでも姿を拝めないなんてな。僕もまだまだ精進が必要って訳だ」

「左様。貴方はまだ若く、そして世界は広い。それを努々忘れ得ぬよう」


 ジョンはボンドの言葉に舌打ちをして、

「一時にキングス・クロス駅9と3/4線……だったか? 訳分かんねえ事言いやがって。ナメてんのか?」

 苛立ちに任せ、依然口が悪いまま、ジョンが確認する。ボンドの影が頷き、

「そこには一人で来られますように。あの小さな助手やご友人達に明かさぬようお願い申し上げる。これは内密な案件。『M』は機密保持に特に執心されておられた」

 だからその「M」って誰だよ。ジョンは瞬きの後に、それを問おうとした。しかし目を開けた時にはボンドの影は消えていた。

「はッ……?」

 ジョンは思わず声を上げ、バッと身を翻すと窓から体を乗り出した。

 道を歩く人物一人一人に目を配る。しかし視界のどこにもタキシード姿の男は見付けられなかった。


 ジョンは部屋の中に体を戻すと、壁に背を預けてしゃがみ込んだ。

「意味分かんねえ……。なんだったんだ、今のは」

 ジョンは袖で汗を拭き、何度か大きく息を吐いた。「戦闘意思はない」――ボンドのその言葉に甘えるような形になった。もしも彼が敵として現れていたのなら、自分が彼の存在に気付いた頃には背後から心臓を一突きにされていた事だろう。

 ――「悪意」の察知。そこからの敵の行動予測。対応する為の取捨選択の速度。ジョンが最も得意とする「最速」の闘法。しかしそれでも追い付けない者が存在するという事実。

 ジョンは俯いていた顔を上げ、萎んだサンドバックの前に立つ。構え、そして刹那の後に拳を、蹴りを叩き込む。

 その速度と体動の安定具合には誰もが舌を巻く事だろう。それでもジョンが見据える地点はそこではない。


 ――シャーロック・ホームズならば、ジェームズ・ボンドにどう対応するのか。


 ジョンはそれを考える。そしてその思考を深める一方で沸々と煮え滾る、不甲斐ない自分へ向けられる憤怒。

 ジョンが辿り着くと見据えた地点は、『最強』と言われた父――更にその向こう。

「僕はもう――、負けられねえんだよ……ッ!」

 吐き出した想いと共に、突き込んだ拳にサンドバックの形が大きくくの字に歪み、揺れた。

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