3-3.
「メアリーッ!」
「えっ!」
突然大声で名を呼ばれ、メアリーはその場で飛び跳ねた。ジョンはそんな彼女を抱え上げ、瞬く間に元の位置に転がるように戻った。
「……アンタ、何してんの?」
ジョンの行動に意味を見出せなかったジャネットが、眉をひそめて彼に問うた。
「いや……」と、言葉を濁すジョンは、しばしの沈黙の後、「――よし、メアリー。今日のトレーニングはなしだ。早くしないとジャネットと買い物する時間がなくなっちまうからな!」
明るい声と笑顔。似合わない両者を放つジョンに、ジャネットとメアリーは互いの顔を見合わせ、呆然とする。しかしそんな事はお構いなしにと、ジョンはメアリーの手からグローブを外した。
「一日くらいサボったってバチは当たんねえよ。さあ早く行け」
ジョンは二人の背中を押し、半ば追い出すように部屋の外に追い遣った。
「アンタ、いきなりなんなのよ?」
「なんでもねえよ。気が変わっただけだ」
尚も怪訝そうなジャネットの表情に、「流石に嘘が下手過ぎだな」とジョンは自分の不器用さを悔いた。
「ホラ、もう十四時になる。晩飯までと考えると、あんまりのんびりしてらんねえぞ」
「…………」ジャネットはしばらくジョンの顔を見詰め続けて、やがて溜め息をついた。そしてメアリーの手を握り、「まあ、いいや。じゃあ、行きましょう、メアリー」
「うん……」メアリーは少しバツの悪そうに俯いていたが、「お兄ちゃん。明日、ちゃんと今日の分も合わせてやるから、大丈夫だよ!」
「お、おう。そうだな」
真面目な少女の言葉に、ジョンは驚きと共に頷く。それを気にしていたのか。謝意を胸にジョンは手を振り、階段を降りる二人を見送った。
「さて……」
ジョンは部屋の中に戻って戸を閉めると、物騒にも指の骨をバキッと鳴らした。サンドバックの前まで歩くと、上から下まで繁々とそれを眺める。
まさかな……。ジョンは自分が得た感覚に疑問を持ちながらも、右足を一歩後ろへ下げた。一瞬の躊躇、しかし吐気と共に右脚と共に振り払った。
ドスッという、鈍い音。ジョンが毎日聞く音は明らかに異なる感触とその音に、彼は「ハッ」と笑みと牙を剥いた。
「マジかよ。一体どうなってんだオイ……ッ!」
「――ッ」
揺れ乱れるサンドバックの中から、息を呑むような音が――否、声がした。
「方法は分かんねえけどよォ、自分から袋に収まる盗人がいるかよ。それとも自分がサンドバックになりてえっていう被虐願望か?」
なら、御望み通りにしてやるよ――。体はやや半身。右足を前に出し、両手は開いたままで体の前に。脇を締めて顎を引き、相手を正面から射竦める。ジョンはいつもの構えを取り、即座に床を蹴るとその勢力を乗せて、右拳でサンドバックを射抜く。一度で止まらず、二度、三度と繰り返し、掛け合わさるようにその速度は上がっていく。
その最中、唐突なタイミングでジョンの背後でガツッという物音がした。咄嗟にそちらに振り向くと、床にナイフが突き刺さっていた。
「その躊躇いのなさ、流石と言わざるを得ませぬ」
低く、渋みのある男の声。身長は自分よりも上、屈強な体付き。声音に含まれる余裕に、ダメージの気配はない。ジョンは一聴の中で相手を想像しつつ、再び声のしたサンドバッグへと振り返った。
「!」
目の前にあるサンドバッグは、ものの見事に萎んでいた。中に詰められていた布やスポンジが床に散っていた。
嘘だろ、一瞬でどこに――! ジョンは驚愕と、それ以上の恐怖と焦燥を胸に瞳を動かす。正面、左右にはいない。
ならば敵は背後――ッ! ジョンは体を回転させながら、左拳を振るう。遠心力を伴った裏拳は、しかし空を切った。
「小生に、戦闘意思はない。しかし顔を見せる気もなし」
背後から響く声に、ジョンは奥歯を噛んだ。なんだ、敵の姿が一縷として見えない……ッ! 再度振り返ろうとした刹那、何か尖った物が背中に触れた。
「…………!」
ナイフだ。ジョンは敵に背後を取られ、刃物を突き付けられている。
「再度発言。小生に戦闘意思は皆無。しばしの清聴を願う」
ジョンは「またかよ」と息を吐き、両手を上げた。戦う意思がないと宣う相手は、確かに言葉通りのようだった。
「本題の前に、失礼ながら、どうして貴方が小生に気付けたのかお尋ねしたい」
「あァ?」ジョンは面喰らって声を上げた。「……僕は他人の『悪意』ってヤツに敏感なんだ。あんたがメアリー――分かるだろ? さっきまでここにいた女の子だ――あの子がサンドバックを殴ろうとした瞬間、気配がした。その気配の位置にまさかと思ったが、確かにこの部屋の中で人一人が隠れられるとしたら、サンドバックの中だけだ」
「成程、『気配』とは……。確かにあの少女に拳を向けられた時、敵愾心を抱き申した」
ジョンは霊感に優れた父、シャーロックからその才能を受け継がなかった。しかし後に彼とワトソンの手に因って『聖痕』を与えられた。
――『神聖』は『悪性』を拒絶する。この法則こそが、ヒトが悪魔と同じ戦場に立てる唯一の理由。祓魔師や探偵はそれを操るエキスパートと言える。
ジョンは他人が抱いた「悪意」や「敵意」を感知出来る。それは「自分」に対する『悪性』に他ならないからだ。体に『神聖』を宿した彼だからこそ成し得る異形だった。
「で、なんであんたはサンドバックになんて隠れていたんだ?」
「小生は伝言を請け負っている。ジョン殿のみとの対面を望んだ。小生の姿は余人には見せられない故」
……対面してねえんだけどな。ジョンは口の中で舌打ちをし、男の次の言葉を待った。
「小生はボンド。ジェームズ・ボンドと申す者。『MI6』所属の工作員であります」
「――『MI6』ッ!?」
ジョンは予想だにしないその名に、驚愕を露わにした。
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