3-2.
「出掛けるなら夜には戻って来いよ。ヴィクターとジュネも誘って、飯に行くだろ?」
お馴染みのパブで晩餐を彩る。ジャネットが帰郷した際のいつもの行事だった。しかしそれを誘うのがジョンなのは初めてだった。ジャネットは一瞬キョトンした後に、
「へ、へえ……。ジョンが誘うだなんて、珍しいじゃない……」
なぜか動揺して声が上ずってしまった。ジャネットは頬が熱くなっていくのを自覚した。これは喜びなのか、嬉しさなのか……。いやどっちも同じじゃない……と、動揺が治まらない。
「あァ……?」ジョンは怪訝そうな声を上げ、「いつだかお前らに飯を奢って貰っただろ。そのお返しだよ。なんか文句あんのか?」
「あ、成程ねえ。……へえ、そうなの、へえ……」
頬を赤らめ、どこか口元が緩んでいるジャネットに、ジョンは怪訝そうに顔をしかめる。
「じゃ、じゃあ夜までには戻るわ、必ず――必ずね! メアリー、行こうか」
なぜか「必ず」を強調するジャネットに、ジョンはますます首を傾げた。
呼ばれたメアリーがジャネットの手を握って、部屋を後にしようとした時、「あっ」と声を上げた。
「今日の分のトレーニングをまだやってない……」
「え、トレーニ……、えッ?」
ジャネットが驚いたようにメアリーの言葉をオウム返しする。メアリーは「うん」と頷き、
「お兄ちゃんにね、戦い方を教えて貰ってるの」
「ああ――」ジョンは得心が行ったように声を上げ、「まだやってなかったか」
「ちょっとジョン! メアリーになんて事させてんのよ!」
ジャネットに再度詰め寄られたジョンは、「いやいや」と彼女を手で制した。
「教えてくれと言ってきたのは、メアリーの方からだ。それに心得がないよりはマシだろう」
「何言ってんのよ! そんな事させたら、手のお肌が荒れちゃうじゃない!」
――そこが問題なのか? ジョンは口を開けて、絶句した。
「だったらお前の肌はもうボロボロじゃねえか」
ジョンは自分と一緒になって蹴るは殴るはを繰り返して来たジャネットの手を見遣る。
「う――うるさい! アタシの事は関係ないのー!」
サッと両手を後ろ腰に隠し、ジャネットは顔を赤くしながら抗議した。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」メアリーは柔らかく笑いながら、「それに、わたしはお兄ちゃんの助手だもん。少しは強くならないと」
健気な少女の言葉に、ジャネットはしゃがみ込んでメアリーを抱き締めた。
「ああ、もう。ホントにいい子ね、メアリーは。きっと素敵なお姉さんになるわ」
くすぐったそうに笑い、メアリーはジャネットから離れると、寝室からグローブを装着しながら現れた。
「あんた、あの子に何させてんの?」
だからどうして睨むんだ。ジャネットの剣呑な目付きに晒されながら、ジョンは頭を掻く。
「基本的な事だけだよ。拳の握り方から正しい姿勢での殴り方、蹴り方。いざとなったら敵に一発見舞って逃げられる程度の立ち回り方だけだ」
そう平然と言い、メアリーを見守るジョンの横顔に、ジャネットは何も言えなくなってハアと溜め息をついた。
「まったく、メアリーは女の子なのに。アンタみたいにゴツくなったらどうするのよ」
「それはそれで、お前みたいに逞しくなるんじゃねえの?」ジョンは意地の悪そうにニヤリとし、「ホラ、こんな風にゴリゴリに」
ジョンはジャネットの肩を、そこにある鍛えられた筋肉を叩く。印象からはとても想像出来ない程に鍛えられた彼女の体を、ジョンは確かに評価していた。
「うるさいっ。バーカ、バーカ!」
ジョンの手を振り払うジャネットは、しかしどこか嬉しそうではあった。「女性らしさ」からはかけ離れていても、ジョンに評価される――褒められる事は彼女にとって嬉しい事だった。
口調と裏腹にはにかむジャネットを奇妙そうに見ながら、頬を撫でる風にジョンは振り返った。その視線の先には、アパートに入る際に見付けた開きっ放しの窓があった。
「……そう言えば、ジャネット、お前はこの部屋にどうやって入ったんだ?」
「窓から」至極当たり前のように、ジャネットはジョンの視線の先にある窓を指差した。「戸は鍵が閉まってたし、ヴィクターはいないし、でもシャワーに入りたいし――。そしたら、丁度良く窓が開いてるじゃない」
どうやって登ったのか――を、ジョンは尋ねなかった。彼女の運動能力ならそれくらいの事はお手の物だろう。
それ以上に問題なのは、「どうして窓が開いていたのか」だ。閉め忘れかと思ったが、メアリーが「確かに閉めた」と言った以上、ジョンは彼女の言葉を信用する。ならばこの場にいない何者かが鍵を開け、部屋の中に入ったという事になる。
単なる物盗りだと言えば、話は終わってしまう。けれどここは「探偵事務所」だ。それで済ませていい訳はない。探偵の動きを警戒し、襲撃を仕掛けた魔人も過去に少なからず存在する。
しかし部屋の中に何か細工をされたり、物色されたりした形跡はない。ジョンは「自分ならこの部屋のどこに姿を潜ませるか」を考えたが、この部屋は良くも悪くも物が少ない。
……と言う事は、やはり閉め忘れかとジョンは首を傾げながら、メアリーに視線を戻す。
メアリーは慣れた手付きでグローブを装着し終えると、少し足を開いてサンドバックの前に立つ。その瞳は真剣そのもの。普段の彼女からは想像出来ないような鋭い目付きで、目の前に揺れる赤い袋を睨んでいた。
メアリーが息を吸い、足が床を踏み付けようとしたその瞬間だった。ジョンは部屋の中に何かおどろおどろしい気配が膨れ上がるのを感じとると、思わず床を蹴り、メアリーに向かって飛び出していった。
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