2-2.
ジョンは振り返り、ビッグ・ベンを見る。英国の象徴的な存在である時計台は、ちょうどお昼の十二時を指していた。
「話は分かったよ、メアリー。それより飯にしよう」
「うん!」
しかめ面をやめ、元気良く頷いたメアリーに、ジョンは少し笑った。
ジョンが幼い頃から通う、馴染み深いパブに立ち寄る。夜は酒場だが、昼間はカフェとして経営されていた。
「マスター、コーヒーとサンデーロースト」
「おお、ジョンか。いつもいつも同じモンしか頼まねえなあ」
エプロン姿の主人が、小言を言いながらも笑顔でカウンター席に座ったジョンとメアリーを迎える。
「メアリーはどうする?」
「わたしもおんなじ」
「あいよ!」
いつも通りの歯切れのいい返事だった。拭いていた皿を置き、マスターがキッチンに立つ。
ジョンは店内を流し見る。カウンターの向こうの棚にズラリと並ぶカクテル・ベースやウイスキーなどの酒瓶。壁際の丸テーブルとそれを囲う椅子。カウンターと壁際の席との間には大樽があり、それも卓として使われている。煙草と酒の匂いが染み付いた、この粗野な、だからこそ遠慮の要らないこの店の雰囲気が、ジョンは気に入っていた。
雑誌棚に並ぶ書物にも目を向ける。その中にあった一冊に目を止めると、ジョンは実に嫌そうに歯を食い縛った。
「マスター、いつまでアレを店に置いておくつもりだよ」
「アレって?」
マスターは怪訝そうに眉を上げる。ジョンは苛立ちを隠そうともせず頭を掻き、
「アレだよ、アレ。ザ・クィブラーだよ」
ジョンは雑誌棚の一冊を指差した。その雑誌の表紙には、『切り裂きジャック事件解決の立役者、ジョン・シャーロック・ホームズ独占インタビュー!』の文字が躍っていた。
ジョンは切り裂きジャック事件を解決して以後、何度も各社からインタビューを求められたが、全て断って来た。事件に対する世間からの関心が強かっただけに、聴衆は関係者からの情報を望んでいた。故に何度断ってもインタビューの依頼が止む事はなかった。
そんな中、一社でもインタビューを受ければしつこい催促も止まるかも知れないと、ジョンに告げた人物がいた。それは彼の友人のジュヌヴィエーヴ・ルパン。かの有名な大泥棒、アルセーヌ・ルパンの娘にして、今は胡散臭い記事しか出さない事で有名な出版社に勤める雑誌編集者である。
インタビューを受けるなら是非ウチで――。ジュネからの打算しか見えない申し出に、ジョンは「彼女からの頼みなら」とようやく重い腰を上げた。それこそが唯一事件について語った雑誌「ザ・クィブラー」である。
ジョンの記事が載ったその号は、増版増刷の嵐だった。出版社開業以来の発行部数を記録し、ジョンはジュネと共に社長から号泣を共にした感謝の意を受け取った。押し付けられた。
ジョンにとっては気恥ずかしさの塊、この先に残してしまった禍根の象徴。それが店に置かれたザ・クィブラー第二百十号だった。
「いやあ、ずっと置いとくさあ。おれだって嬉しいんだよ。ガキの頃から見知った奴が、雑誌に載るくらい有名になったんだぜ? そりゃあいつまでも皆に自慢したいじゃないか」
「僕は嫌なんだよ。捨てろ」
「そう恥ずかしがるなって。ちょっとは喜べよ」
「……もう二度とインタビューなんか受けねえからな」
笑顔を浮かべるマスターに、ジョンは派手に舌打ちした。それすらもマスターは笑いながら、料理を再開した。
そっぽを向いたジョンの目に、ざっくばらんに並ぶテーブルを拭き上げていく一人の女性が映る。マスターと同じくエプロンを着けるその女性の背中には巨大なゼンマイが刺さっていた。その顔に表情は一つもなく、動作は酷くスムーズで、しかしどことなく違和感を持たせた。
彼女は『人形』だった。死体に適切な処理を施し、生前と同じように動作させる技術を以って復活した人体。
「そう言えば、少し前にエマをヴィクターに診て貰ったよ」
マスターがジョンの前に料理を置きながら言う。「ありがとう」とジョンは礼を言ってから、
「切り裂きジャック事件の後、あいつはロンドン中の『人形』を検査して回ってるからな」
切り裂きジャック事件は、重大な禍根を残した。人々の生活に密着する『人形』に、悪魔が取り憑く事の出来る可能性を置いて行った。
そも『人形』に悪魔が取り憑く事は出来ない。遺体は教会に因って浄化され、彼らの手で埋葬される。清浄な遺体に、悪魔は手出しが出来ない。
しかし、あの事件では違った。それは被害の出た地域が原因だった。切り裂きジャック事件の起きた場所は、英国の闇を凝縮したとも言われる、ホワイトチャペルという地域だった。そこは警察もほぼ介入出来ないような地域で、ほとんど野放しになっていた。そこを大悪魔とモリアーティが目を付けた。
路上に転がる遺体を子供達が回収して回り、その遺体をモリアーティが施術し、悪魔が取り憑けるようにする。そしてそれをひっそりとロンドンの街の中に潜ませる。
実際、事件の捜査中にジョンは何度か悪魔憑きの『人形』に襲われた。町の人々は不安がり、警察や市に『人形』の安全性の保障を求めた。
そこで白羽の矢が立ったのが、ヴィクター・フランケンシュタイン・ジュニアという男だった。致命的損傷を受け、魂と別れを告げた肉体――死体に機械的な補佐と補修、精神に接触する事で、生前と同じような代謝、活動を可能にする技術。要するに「生きている死体」を生み出す技術。その開発者、ヴィクター・フランケンシュタインの息子である彼は、誰よりも『人形』に精通している。
ジョンは店の中の『人形』――エマに振り返る。
「やあ、エマ。体の調子はどうだ」
「はい、ホームズ様。体に不調はありません」
坦々とした感情のない声を返されたが、ジョンは「そうかい」と何気なく答えた。『人形』はいつもこんな感じだ。ヴィクターの友人である彼は、そんな事には慣れっこだった。
「エマの頬に赤みが差すようになってな。あいつは恥ずかしがり屋で、からかわれるとすぐに真っ赤になってたっけ……」
懐かしむように言うマスターの瞳は、ずっとエマを追っていた。彼女は、彼の亡くなった妻だった。
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