2-1.

 時と場所は移り、英国の倫敦ろんどん。そのどこにでもあるような、とある民家。


「おっしゃ、捕まえたぞコラ手ェ掛けさせやがってこの糞っ垂れが!」

 体を埃塗れにしながら、大声で悪態を付く青年が、転げ落ちるように屋根裏から屋内へと降り立った。その腕には痩せ細った黒毛の子猫を抱えていた。

「まあ、その子がどうしたの……?」

 民家の家主夫妻が目を丸くして、少年の腕の中の子猫を見遣る。

 黒のモッズコートの下に白のシャツ、黒のパンツ、首元の黒いネクタイはだらしなく緩められていた。ボサボサの黒髪に碧い瞳。目付きはいつだって険しく厳ついが、その幼い顔付きと似合わずどこか滑稽だった。彼の名は、ジョン・シャーロック・ホームズ。ロンドンに拠点を構える「探偵」だ。


「この猫が、件の怪音の正体です」

 ジョンは自身の傍らに立つ赤いワンピースに黒のハイカットスニーカーを履く少女――メアリーに子猫を渡す。彼女はジョンの助手を勤めていた。


 家の中でおかしな物音がする――。ベーカー街221Bにあるジョンの探偵事務所を訪れた夫婦からそんな相談を受け、そのまま彼らの居宅を捜索し、ジョンはボイラーの配管近くに子猫を見付けた。

「恐らく、この子の鳴き声が配管に反響していたんだと思います」ジョンはメアリーの腕の中でか細い声を上げる子猫を見ながら、「最近、屋根裏で何か修理しました?」

「ああ、それなら、」主人が顎を擦りながら、「壁に小さな穴が開いていてね、鳥が入り込んで巣を作られたら困ると思って、そこを塞いだんだよ」

「入れ違いですかね。この子の親が既にこの家を拠点にしていて、子供を置いてちょっと留守にしている間に出入口が塞がれてしまい、この子が置き去りになってしまった」

 ジョンは子猫の傍に親猫の存在を見付けられなかった。それどころか、多数の子猫の死骸を見付けていた。

「まあ……。それじゃあ……」

 夫人が口を手で塞ぎ、絶句した。ジョンは頷いて、

「この子だけが生き残り、必死の思いで親を――助けを呼んでいたんだと思います」

「可哀相に……」メアリーは子猫の頭を細い指で撫で、「でも、強い子だね」

「体力もないだろうに、僕から逃げ回ったからな、こいつは」

 ジョンは苦笑し、埃塗れになった自分の体を見回した。


「物音の正体は間違いなくこの子なのかい?」

 確認するように主人がジョンに問う。彼は頷いた。

「屋内に『悪性』の兆候はありませんでした。悪魔がこの家に憑いている事はないでしょう」

 その言葉に安堵したのか、夫婦は顔を見合わせて、息をついた。そして夫人がメアリーから子猫を受け取る。

「ごめんね、貴方達に残酷な事をしてしまったのね、わたし達」

 ごめんなさいと、夫婦は揃って子猫に詫びる。子猫は怯える様に体を震わせたまま、見開いた目で彼らをジッと見詰め続けた。

「わたし達でこの子は引き取るわ。まずは病院ね」


「そうだな――。と、それよりもホームズさんにお礼だな」

 そう言い、財布を取り出そうとした主人を、ジョンは手で制した。

「いや、別にこのくらいの事でお代は――」

「はい、頂きます。ホームズ探偵事務所は皆さんの不安を取り除く為に邁進しております!」

 しかしそんなジョンの前に、メアリーが勢い良く飛び出た。笑顔と共に挨拶を口にし、主人から紙幣を受け取った。

「はは、しっかりしたお嬢さんだ。これからも頑張ってね」

「はい!」

 笑顔で交わされるそんな会話に、ジョンは口をへの字に曲げた。彼の顔を見た夫人は小さく笑い、

「受け取って貰わないと、こちらが困りますよ、ホームズさん。貴方達が路頭に迷う羽目になったら、わたし達は誰に相談すればいいの?」

「しっかり仕事をしてくれたんだがら、君は堂々と報酬を受け取るべきだ」

「はあ……。……ありがとうございます」

 ジョンはしかし、「なんだかなあ」といった様子で、頭を掻いた。


 ジョン達は夫婦の下を後にし、帰路を歩く。

「お兄ちゃん、ダメだよ。ちゃんとお金は受け取らなきゃ。この前も言ったでしょ!」


 巷で起こる怪奇現象。その裏に悪魔がいるのか否か。しかし結末にあるのは、なんでもない些細な誤解や偶然から起こるものがほとんどだった。不安が不安を呼び、当事者達は怯え、ないものをあるものと思い込む。だからその不安を取り除く。単純に言ってしまえば、探偵の仕事はそれだけだ。しかしそんな簡単な結末ばかりではない。何気ない現象の裏に本物の悪魔が潜んでいて、悲惨な結末を迎えた事例もあるのだ。だからどんな事件にでも、探偵は本気で取り組む。それで回避出来る事件があるからだ。


「いや、そりゃそうだけどさあ……。あんなしょっぱい案件で金を取るのもさあ……」


 それでもジョンは何度か報酬を断っていた。特に疲労感もなく、ものの数分で解決してしまったような案件に、金を受け取るのはどこか心苦しいと感じたからだ。


「仕事は仕事。頼まれて、そして解決したんだから、しょっぱくても甘くても辛くても受け取る物は受け取るべきだよ。あの人達もそう言ってたでしょ?」


 しかし今や彼の傍らには立派に成長した助手がいた。と言うか、報酬を受け取らないではメアリーが困る。何故なら結局困るのは自分達だと、彼女は骨身に染みて理解しているからだ。


「…………」

 ジョンは自分の腰辺りから響く叱責に閉口した。そんな中で「メアリーも随分と成長したなあ……」と、空を見上げる。


 切り裂きジャック事件。そう呼ばれた連続殺人事件があった。メアリーはその犯人の身内だった。ジャックと呼ばれていた犯人を止める為に、メアリーは彼とその家族の下を飛び出し、ジョンを頼った。事件を解決に導いたジョンは、その功績で一気に名を広めた。

 あれからもう半年が経った。ジョンはどこか懐かしく思うが、それだけ終わらせていい事件ではなかった。ジャックの後ろには大悪魔とジェームズ・モリアーティがいた。

 ジョンは事件以降、大悪魔とモリアーティの動向は出来る限りの方法で調べているが、目立った成果は得られていなかった。悪魔と出会う事すらなかった。それでも彼は今、出来る事を続ける。それがどこかに繋がっている事を信じて。

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