2-7.

「ええっと、そうだ――うん、それで、くだんの殺人鬼には会えたのかい?」


 そうか、その話をするべきだった。ヴィクターに尋ねられたジョンはそう思い直して、口を開く。

「切り裂きジャックかどうかは判断し兼ねるが、殊更ことさら怪しい奴には会えた」


 ジョンがホワイトチャペルで相見あいまみえた女の外見を、ヴィクターに伝える。最初は面白そうに聞いていたが、段々とその表情に、困惑が雲のように広がっていった。


「なんだいそりゃあ? どこの曲芸師だい?」

「それは僕が聞きたいところだよ」

「悪魔なのか、どうなのか――」

「……恐らくは悪魔憑きだ。恐らくは」断言は出来ない。ジョンは少し歯噛みする。それを断言するのが探偵という仕事なのに。「だが、聖音に反応した理由が他に思い付かない」

「そして背中から生えた金属製の腕を、まさに自分の体のように器用に使いこなす……」

 ヴィクターが顎に手を置き、思考を開始する。視線は下に向いて、表情は真剣が故の無表情。

 ……こいつがここまで真面目な顔をするのは、久し振りかも知れない。ジョンはヴィクターの邪魔をしないよう、メアリーに振り返った。


「メアリー、ホワイトチャペルで出会った女を『ママ』って呼んでたけど、あいつが君の言っていた『ママ』で間違いないのかい」

 メアリーは顔を上げ、やがて体を震わせながら小さく頷いた。

「うん……、あの人が、『ママ』……。わたし達に、ご飯をくれた『ママ』……」

 そして彼女の瞳に涙が浮かんだ。ジョンは慌てて、しかしどうしていいのか分からず、宙を手に彷徨わせる。

「ああッ、いや悪い、メアリー――って、何に謝っているんだ僕は……? いや、とにかくすまない……!」

 しどろもどろになっている様を自覚し、ジョンは大きく息をしてから咳払いをした。


「メアリー、『ママ』は明らかに君を狙っていた。これがどういう意味か、分かるね?」

 メアリーは俯き、時間を掛けてから小さく頭を動かした。それは体の震えなのか、首肯なのかを判断するには微妙な動作だったが、ジョンは頷きだと受け取り、彼女の小さな頭にポンと手を置いた。

「怖いし、辛いだろうが、君の事は必ず守る。依頼人を守るのは、探偵の義務だからな」


「……『ママ』にあんな目で睨まれるの、初めてだった……」

 ジョンは「ママ」の目を思い出す。メアリーを見詰める彼女の瞳を思い出す。アレはどう見ても、敵を射抜く為に磨かれたものだった。


 メアリーを連れていったのは失敗だったかも知れない。ジョンは彼女の表情を見ながら、後悔し始めていた。何も彼女に案内を頼まなくても、地図などで場所を示して貰うだけで良かったのだ。そもそも現地ではレストレード達に合わせて行動してしまった為に、メアリーは置いてけぼりだった。彼女を危険な目に遭わせただけでなく、まだ心のどこかで信頼しているであろう「ママ」にあんな辛辣な目を向けられた。……相当な衝撃が彼女を襲っただろう。


 しかし今となってはもう遅い。ジョンは頭を振り、これからについて考える事にした。


「メアリー、『ママ』の瞳の色は何色かな」

「…………」メアリーはキョトンと、どうしてそんな事を訊くのかという顔をした。「緑色、だけど……」

 なるほど、緑か……。ならばあの瞳の色の変化は、やはり悪魔に憑かれたが故の異形化の一部だろう。しかしその変貌のオンとオフが切り替わるのは何故だろう。


 人間と悪魔が行き来する――。ジョンはそんな魔人の形態を聞いた事はなかった。

「いや……」

 思考する内、一人の人物がジョンの脳裏に過ぎった。


 それはジェームス・モリアーティと呼ばれる男だった。

 歴史上恐らくはただ一人、彼だけが悪魔に憑かれながらも、逆にその悪魔を呑み込んだ異形中の異形。ヒトとしての意識を保ちながら、その体はヒトならざるカタチを持つ。ヒトでありながら悪魔、悪魔でありながらヒトという、まったく新しいカタチの魔人だ。


 シャーロックは何度も彼と対峙した。けれど彼を打ち倒すまでには至らず、ジョンに「あいつには関わるな」と念を押すほどだった。

 親父が死んだ今、あいつは何か悪巧みをするだろうと思っていたが……。まさか切り裂きジャック事件にあいつが関わっている……?

 しかし彼が英国を殺人事件で騒がせたとして、それでなんの益があるのか。ジョンにはそれが分からなかった。そもそも益の有無で動くような男であったかどうかも怪しいと、ジョンは頭を振った。


「ジョン、そいつが手指か何かで背中側の腕を操作する様子はあったか」

 ヴィクターから不意に問われ、ジョンは顔を上げた。

「……ないね。あいつは両手にナイフを握っていた。その状態で操作出来ると言うなら、話は別だけどな」

「そうか、そうか。なるほど……」

 得心が入ったのか、何度か頷きを繰り返すヴィクター。しかしその顔は、うんざりと言わんばかりの仏頂面だった。

「……なにか分かったのか?」

「ボクの推測が正しければね。ああ、しかし嫌な気分になるなあ……」

 溜め息をつくヴィクター。ジョンは痺れを切らして、

「勿体ぶらないでさっさと言えよ。お前の推測はなんなんだ」


「キミが出会った女は、恐らく『人形』だ」


「あァン?」ジョンは片眉を上げる。「アレが『人形』? どうしてそうなる」

「あまり物騒な声を出すものじゃないよ。

 ――とにかくだ、彼女に取り憑いた悪魔が浸食を重ね、背中から金属製の腕を生やせるまでになったとしよう。その場合、彼女にはもうほとんど人間的な意識はない。魂は悪魔に染まり切っているだろう」


 あの女の姿が、悪魔の憑依によるものならばそうなのだろう。しかしそれだと、十字架などの「神聖」に耐えた理由が分からない。


「そう、悪魔の憑依が成す異形なのだとしたら、彼女が『神聖』に耐性を示した理由が分からない。まるで普通の人間のように。

 ――それで、だ。悪魔が『人形』に憑依したとしたら、どうだろう。『人形』の中に魂はない。空っぽの体に一つの魂。浸食という過程が必要ない『魔人』の誕生だ」

「……いや、そうはならないだろう」


 死体への悪魔の憑依。『教会』がそれを危惧しないはずがない。「人形化」を施す際には、『教会』の許可と彼らの認可を受けた技師にしか、施行出来ないようになっている。

『教会』の手はありとあらゆるところに伸びており、人々の生活を規制――もとい、保障している。それを邪魔だてようとする者達を「悪魔」と断じて処刑する事があるとしても。


「死体は全て聖なる祝福を受ける。そうして悪魔の侵入を拒んでいる。だから死体に悪魔は憑けず、同時に『人形』にも憑けない」

 ジョンの言葉に、ヴィクターは頷くが、

「全ての死体じゃないんだよ、ジョン。キミは見ただろう、ホワイトチャペルの現状を?」


 朽ち果てた教会。今日を生きる為だけに生を振り絞る。痩せ細った体を懸命に震わせ、請い願う事しか出来ない人々。分かっていてもそれしかないのだと、汚れた溝水を手で掬い啜る。どこを歩いても、破滅と崩壊の毒気が漂う霧の闇――。


「道端でくたばった人間を、『人形』にしている?」

「技師に死体を売買している輩がいるかも知れない。ホワイトチャペルに法の目は届かない。悪魔が身を隠すには最適解なのかな?」

 そうなるまでどうして放っておいたのかと、ジョンは誰かに問い質したい気分になった。そう言えるのは、ジョンと彼の地が今まで縁のない土地だったからだろう。


「ホワイトチャペルに認可を得ていない違法な人形技師がいる可能性、そいつに死体を運搬、そして金銭を受け取っている何者か。技師本人が悪魔憑きかも知れない。考えられる可能性は山ほどある」何にせよと、ヴィクターは溜息をつき、「答えを得るにはホワイトチャペルの内情を探らないといけないねえ。あーあ、骨が折れる」

「骨折程度で済むならいいけどな」

「まったくだ。まったく持って笑えない」


 乾いた笑いをお互いに交わしながら、ジョンとヴィクターははたと気付いた。二人同時にメアリーに目を向ける。「死体を――運んでる」。昏い声でそう言った、メアリーの言葉を思い出したからだ。


「……メアリー、君が運んでいたという死体は、一体どういった人のものだ?」

 何かが繋がったような、歯車が噛み合ったような。ジョンは曖昧ながらも、そんな感触を得ていた。

「……街をみんなで調べて、みんなで運ぶの。あそこはお腹が空いて、人がよく死んじゃうから」

 餓死、怪我や病気の放置などが原因で、死んだ人間が道端に倒れ、そのままになっていることが多いそうだ。

 ジョンはそんな場所が自分達の身近にあることに少しばかりショックを受けたが、今はそんな場合じゃない。

「その死体は『ママ』が回収するんだったな? その後にどうしているかは分からないと」

 メアリーはジョンの表情に少し怯えたように身を引きながらも、小さく頷いた。


 ――『ママ』が売人か? ホワイトチャペルの地理に詳しい子供達の手を借りれば、死体の収集は容易だろう。

 ジョンは口元に手を当てる。子供達に言葉を教え、食事を与えて懐柔する。そうして自分に心酔させ、子供達は自分が罪を犯しているという発想すら潰し、「ママ」の目的を達する為に動き続ける。

 ホワイトチャペルの過酷な環境の中にいるならば、子供達がそうなってもおかしくないのでは。

 そんな中、メアリーだけが危機感を抱いて逃げ出した。計画の失敗の引き金になりかねない不穏因子は始末してしまおう。そう考えていた矢先、ジョンがメアリーを連れてノコノコと自分の領域に入ってきた。


「ジョン、メアリーは警察に預けた方がいいんじゃないか?」

 ヴィクターが小声でジョンに耳打ちした。それはそうかも知れない――ジョン自身も、ヴィクターと同じ事を考えていた。

「……でもこの先は『教会』の仕事だ。警部には祓魔師の派遣を勧めておいた。片が付くのに一週間もかからないだろう」

 ジョンの言葉に、ヴィクターはニヒルな笑みを返した。


「そう上手くいくといいんだけどねえ」

 ボクの嫌な予感は当たるんだ。そう結んで、彼はまた溜息をついた。

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