2-6.

「お兄ちゃん……」

 目の前の惨状に、メアリーは言葉を失っていた。


「メアリー、君を傷付けたのは誰だ?」

「――――」

 ジョンの不意の言葉に、驚いたように固まるメアリー。


 メアリーはジョンの下へ来た時、酷い怪我を負っていた。それは明らかに刃物に寄るものだった。あの「ママ」の姿からジョンはメアリーの怪我を連想し、そして彼女が息を呑む様を見て、疑惑を確信に変えた。

 しかし、さっきまで目の前にいた「ママ」を思い出したのか、震え始めたメアリーを見て、ジョンは困ったように頭を掻いた。


「……何と言うか、もし嫌なら無理に答えなくていい。でも君が協力してくれたなら、この事件は早期の解決が見込めるかも知れない。それは分かって欲しい」

 ジョンは不器用な性格だった。咄嗟に上手い嘘がつけないのだ。だからその口から零れる言葉は真実であり、本心だった。彼は己の心情そのままを吐露してしまう。メアリーを案ずる気持ちも本当であり、事件を解決に導きたいという思いも本物だった。

「……大丈夫。ありがとう、お兄ちゃん」

 少し覚束ない笑みを浮かべ、メアリーは一生懸命に頷いた。


「さっきの質問に答えてくれ。君を傷付けたのは誰だ?」

「……『ママ』だ、よ。私が……怖くなって、逃げ出したから」

 か細い声でメアリーがそう言い、やがて目に涙を浮かべ始めた。ジョンは躊躇いがちに、彼女を不器用に抱き締めた。


「あいつは怖いよな、僕も怖かった。……ごめんな、もっと早く気付くべきだった。怖かったよな、本当にごめん」

「怖い――そうなの……? シャーロック・ホームズの子供なのに……?」

「……あのな、僕はあいつの子供だけど、あいつみたいに人間離れした滅茶苦茶な奴じゃない。至って普通の人間なんだ。怖いものは怖いし、苦手なものは苦手だ」

「そうなんだ……」

 意外そうにそう何度も繰り返すメアリー。ジョンは不思議に思って、


「ホワイトチャペルにいても、親父のことは知っているんだな」

「知ってるよ、有名だもん。……あの子達に、寝る前にお話してあげてるの、シャーロック・ホームズの物語を」

「……そうか。お姉ちゃんなんだな、メアリーは」


 ジョンとメアリーは迂回しながら、いつか警部達と出会った教会を目指した。おそらくあそこに警部達はいるだろうという勘に近い判断だった。

 教会に辿り着き、その扉を開けた先には疲れ切った警部と肩で荒い息をしている警官達がいた。弱々しい目で見詰め返してくる彼らに、「市民は彼らを頼りにしていいのか」とジョンは思わず不安になった。


 そんなジョンの胸中など知らないレストレードは、やがて汗を拭きながら口を開いた。

「それで、ホームズ、あの女は……悪魔なのか?」

「十中八九そうでしょうね」

そう答えるも、ジョンは違和感を禁じえなかった。警部も同じ様子で、

「そうなんだろうが……なんというか、断言は出来ないな」

「そうですね……」

 あの女が悪魔であることを断言出来ない。明らかに「神聖」を拒絶していた時と、そうでない時があった。悪魔に憑かれた人間なら、そうはいかない。体を彼らに支配されているから、必ず「神聖」に対して反応する。

「反応しなかった理由は分かりませんが、反応した理由なら分かる。あの女は悪魔憑きです。祓魔師の派遣を提案します。僕から言えるのはそれだけです」

「うむ……、しかし……」

 警部は慎重だった。どうしたって違和感を拭い切れないのだ。


 ジョンは負傷している所為せいもあり、立ち眩みに襲われた。ふらついた彼の体を、メアリーが後ろから支えた。

「ホームズ……?」

「……すみませんね、警部。手を刺されているもので。出来れば早く治療させてくれるとありがたいんですが」

「――そうだな。こちらにも負傷者がいる。医者のいるところへ急ごう」

 思い出し、慌てたように警部が口を開き、足を動かした。


 市内にまでなんとか戻ると、警部は最寄りの警察署へ入り、馬車を要請した。それで負傷者を運ぶのだろう。だが、ジョンは普通の医者にかかるわけにはいかなかった。

「ベーカー街221Bへお願いします」

 馬車の御者にそう伝え、ジョンは布越しに傷口を圧迫し続けた。下宿に辿り着くと、急いでヴィクターの下へ向かう。


「おや、今日は早いじゃ――メアリー、すぐジョンをソファーへ」


 扉を開けたヴィクターがジョンの負傷を見るや否や、いつものニヤケ面を一変させ、厳しい顔と早口でメアリーにそう言った。メアリーにコートを引っ張られたジョンがソファーに座り込むと、ヴィクターは道具を持ってやって来る。


「止血して消毒し、その後に傷口を縫い付ける。痛いだろうが我慢しろ」

 真剣な目でジョンをしっかりと見ながら、彼はそう言った。

「任せるよ」

 彼は腕のいい医者であり、技術者であることをジョンは知っている。信頼している。

 治療はあっという間に終わった。最後に包帯を結び、ヴィクターが救急箱の蓋を閉めた。


「無理はするなと、言ったはずなんだけどねえ?」

 彼はニヤリと笑って、早速嫌味を飛ばしてきた。ジョンは鼻を鳴らして、

「無理なんてしていない。相手が僕の理解の範疇を超えていただけだ」

「そうかい? しかし相も変わらず不便な体だ、君は『霊媒医術れいばいいじゅつ』が効かないんだから」

「まったくだ。それもこれも糞親父とその糞友達の所為だ」


「霊媒医術」――魂、霊体に治療を施し、それに合わせて肉体の回復を促す医術。

 そも魂は肉体と同じ形状、大きさをしている。肉体が負傷した際には、魂にも同じ傷が刻まれる。そこに霊感のある人間が特殊な道具で治療を施す。魂と肉体は同義であり、魂に傷がなければ肉体の傷もない。魂の傷を癒すことで、肉体の回復力を促進させて、負傷を治すという技術だ。

 普通の医術とどう違うのかと言えば、痕が残るかどうかという点で大きく違う。また治療の際に痛みや違和感がほとんどない、患者に優しい医術と言える。即効性こそないが、治療後の体を労わるなら――と、「霊媒医術」を好んで選択する人は多い。


 特に才のある者が扱える偉業であった「霊媒医術」を「技術」に落とし込んだヴィクター・フランケンシュタインだったが、それでも魂と接触出来る最低限の霊感は必要だと結んだ。技術と言っても誰にでも出来るものではなく、霊感の有無や強弱に左右される為、霊媒医術の周知や発展に貢献した部分への評価が大きい。


『人形技術』は「霊媒医術」の「魂への接触」から発展したものだと、いつかヴィクターは言っていた。両者は『教会』からは蔑視べっしされている。けれども『人形技術』の周知によって、共々日の目を浴びるようになったそうだ。


 しかしジョンには霊媒医術を施術出来ない。彼は一般人とは魂の「形」が違うからだ。そしてそれを秘匿ひとくしなければならない。普通の医者にかかれず、ヴィクターに頼るしかないのは、その為だ。


「大丈夫、お兄ちゃん?」

 心配そうに自分の顔を覗き込むメアリーに向けて、ジョンは自嘲するように口の端を曲げた。

「大丈夫だ。こんなの、親父の拳骨げんこつに比べれば、屁でもない」

 その言葉に、ヴィクターも思わず笑った。二人の笑みに、メアリーはキョトンとした目を向けた。


「ジョンは本当に良く殴られていたからなあ。打ち身で熱を出して寝込むなんてしょっちゅうだった」

「……あんまり思い出させるんじゃねーよ」

 意地の悪い笑みを浮かべるヴィクターを尻目に、ジョンは心底嫌そうに顔を歪めた。


「一番酷いのはどんなだった?」

「……顔面が陥没骨折、吹っ飛んで壁にブチ当たった衝撃で腕と足が骨折して、ついでに肩を脱臼した」

 その時の一撃は、生まれて初めて親父に本気で叱られた時だったな。ジョンは言いながら、そんなことを思い出していた。


「怖い人だったんだね……」

 メアリーは視線を下げ、半笑いを浮かべていた。

「そうかもなあ……」ジョンは天井を見上げながら、「でも、あいつの言葉は正しかった。僕が間違いを犯したから叱った。それだけだ」


 ジョンは父から言葉を、拳を伴って体に叩き込まれてきた。正しいものは正しい、間違っているものは間違っている。それを分かっていたから、その痛みはしっかと受け止めた。……しかし、そうとは分かっていても、湧き上がる反抗心は止められない。

「それでまたやり返される。最初は吹き飛ばされるジョンの容態にヒヤヒヤしたものだが、最終的には慣れてしまって、もう可笑しくて笑っちゃったね」

 ヴィクターはそう言いながら、既に笑っていた。ジョンは牙を向いて彼を睨み付ける。

「医者が言う言葉かそれは、糞っ垂れ。このヤブ医者が」


「……わたしも、お父さんに殴られたなあ……」

 ふいに、ポツリとメアリーがそう呟いた。

 ジョンとヴィクターは黙り込み、メアリーを見た。彼女は顔を下げ、握り締めた両手を見詰めていた。

「……でも、お兄ちゃん達みたいに笑えない……」

「「…………」」

 ジョンとヴィクターは互いに顔を見合わせ、「何か言えよ」と肘で小突き合う。しかし言葉が見つからないまま、やがて焦ったようにヴィクターが話題を変えた。

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