2-5.
「あ――」
ふいに、メアリーが小さく声を上げた。
ジョンが顔を上げ、メアリーを見た。しかし彼女はそんなジョンに
ジョンがメアリーの視線を目で追うと、そこにはジョン達に向かって歩いて来る、ずだ袋のような服を被った人間がいた。俯き、目深に被ったフードから零れる髪は長く、体型からは女性だと思われるその人物。しかし似たような格好の人間とは先程から何度も擦れ違っている。なぜ、メアリーは彼女にだけ反応したのだろう?
ジョンは立ち上がり、こちらへと正面から歩み寄る彼女を見詰める。右手に巻いたロザリオを解き、するすると落としたそれを拳で握り締めるのと、彼女が強く地を蹴ったのは、ほぼ同時だった。
ジョン達はちょうど橋の下にいた。上と左が石壁に囲まれ、右の脇には汚れた川が流れていた。要するに、正面からぶつかるしかない一直線ということだ。
ジョン達に飛び込んできた女は、自身が着込む衣服を裂きながら、まず最も近くにいたレストレードに向けて、大振りのナイフを突き出した。
レストレードの喉にナイフが喰い込む前に、ジョンが彼を押し退けてその前へと割って入る。
――ジョンは父から強い霊感を受け継がなかった。けれどその代わりと言ってはなんだが、一つ特筆すべき性質があった。
彼は「悪意」の察知に優れていた。それは「敵意」と言い換えてもいい。敵が「攻撃する」という意思を持つ。その瞬間を彼は感じ取れる。故に敵が実際に攻撃動作に移る前に、先手を打てる。
彼がホワイトチャペルを訪れてすぐに背後から突き刺さる視線や、教会の中で警戒し、身を潜めるレストレード達に気付いたのも、それが理由だった。
女は突然前へと出て来たジョンに、驚くような素振りを見せなかった。それどころか、その瞳には真実、なんの感情も浮かんでいなかった。
幽鬼めいた、緑に光る無色の瞳。それは――、まるで人形のようで。
ナイフの標的は警部からジョンへと強制的に変更。しかしジョンは体を右に捻りながら前へと進んでその切っ先を回避。そして同時に右の拳を射出した。
女の顔へと命中したジョンの拳がスパンと打撃音を響かせる。よろめいた彼女に追撃しようと、彼は更に前へと躍り出る。彼に「様子を見る」といった選択肢はない。常に攻めの一手で相手に防御を強いさせ、圧倒する。実戦において、その戦法が最も生き残り易い術だと、彼は信じて疑わない。
女の顔に向けて、ジョンは左右のジャブを繰り返す。彼が前へと踏み出すほど、女性はどんどん後ろへと下がっていく。それでも彼女の表情に変化はない。
無表情を貫く女に、ジョンが段々と気味の悪さを感じ始めてきた頃、やがて女が橋の下から脱した。その途端、彼女はバッと跳び上がった。
彼女が繰り出した擦れ違いざまの一撃を、ジョンは頭を下げることで避け、再び顔を上げた時には彼の目の前から女が消えていた。
「っ!」
ジョンは慌てて振り返る。女の真の狙いはジョンの首にナイフを突き刺すことではなく、彼の頭上を飛び越え、その背後にいる人物を襲うことだった。
跳び、更に橋の下部、道の天井を蹴飛ばして斜めに落ちながら、女はナイフを振るう。その一閃が、一人の警官の首を裂いた。吹き出す鮮血、響き渡る悲鳴。その合間から覗く、女の瞳。宝石のようにただ光を跳ね返すだけの眼球。
その目が忙しなく動き、敵の顔を確認していく。首を押さえ、青ざめていく警官。彼を抱え、必死に声を投げ掛ける者と、拳銃を構えて女を
全員を確認した目が、再び動いて、メアリーを見据える。
そして、ジョンは視認する。緑を放っていた女の瞳が、血のような紅に染まる瞬間を。
「――メアリー」
女が初めて声を発した。それはごく普通にある女性の声だった。けれど誰もが身震いするような、暗く重い、悪性を孕んだ声音だった。
「っ、らあッ!」
女がメアリーを視認し、動きを止めたその一瞬の隙を突く形で、ジョンの飛び蹴りが女を強く突き飛ばした。
まさしくズタ袋のように転がっていく女を尻目に、ジョンはメアリーに駆け寄った。
「メアリー、大丈夫かッ!」
「そんな、ママ、ママ……ッ」
メアリーは顔を青白くさせ、
女が立ち上がり、再び地を蹴った。今度は真っ直ぐ、メアリーに向かって。
「――させるかよッ!」
ジョンが怒鳴るように叫んだ。同時に右手をコートの懐に突っ込み、聖水を詰めた小瓶を取り出した。周りの人間を押し退けて進み、メアリーを見詰め続ける女の顔に向けて、迷わずその小瓶を投げ付けた。
衝撃で小瓶が割れ、聖水が弾け飛ぶ。
「…………」
それだけだった。女は顔から滴り落ちる聖水をそのままに、ジョンを無機質な緑の瞳で見詰めていた。
「あン?」
ジョンは間抜けにも小瓶を投げ付けた姿勢のまま、女の反応の無さに思わず面食らった。
魔人となった人体は、取り憑かれた悪魔の人ならざる形を具現する。悪魔が望めば、腕が生えたり、尾が生えたり、羽が生えたり、なんでもありだ。切り裂きジャックが全身から幾つも腕を出現させたと言うのが真実ならば、それは魔人である可能性がある。
ジョンの前にいる女の目が突然、紅く染まった。それは魔人であるが故だと考えたのだが……。しかし彼女は、聖水を浴びても何も反応はない。彼女が魔人であるなら、悶え苦しむはずだった。
「ホ、ホームズ! 一体どういうことだね!」
それを知っているレストレードが
「僕に聞かれても困ります。っつーか、僕をその姓で呼ぶんじゃねえよ糞っ垂れ」
女が再び地を蹴る音がして、ジョンは素早く振り返る。左右の手にナイフを構えた女が、彼に向けて真っ直ぐに突っ込んでくる。
ジョンは構えて、彼女を迎え撃つ。体はやや半身、手拳は鳩尾の高さ、下半身は右脚を前に出す。
ジョンが父から教わったのは典型的なボクシングスタイルだったが、彼が選んだ構えはそれとは違った。上段構えは頭部へのダメージはガードし易いが、逆に下半身や腹部にヒットしてしまう。また、肘を伸ばす動作で攻撃を読まれ易い面がある。しかし中段構えは、確かに左右や後ろから攻撃には弱いが、真っ直ぐに腕を伸ばせば良いだけなので、より早く拳が相手に届く。最強の構えというものは存在しない、だからどれを選んだところで弱点はある。けれどジョンにとって最善なのは「最速」であるという一点だ。故に、彼は中段の構えを取る。
相対するジョンと女。碧と紅の瞳が交錯する。
女が左手を突き出す――その直前、ジョンは跳び出し、右手で女の左手首を掴む。そのまま引き寄せるようにして、左の拳を女の腹に突き込んだ。
女は「くっ」と息を漏らした。その途端、ジョンの左右の手首の傷が熱くなり、流血し始めた。「神聖」が「悪性」に反応したのだ。――やはりこいつは悪魔だ。そう確信したジョンは、彼女を掴まえたまま、左拳に巻いたロザリオで彼女の全身を乱打する。一、二、三、四、五――! 女は堪らず、ジョンを引き剥がそうと左手のナイフを振る、う――直前、ジョンは彼女を足で突き飛ばして、距離を取った。
女の体に浮かぶ、十字の傷痕。熱された十字架を押し付けられたような烙印。それは楔となり、悪魔の動きを封じる。女の動きもその例に漏れず、まるで痙攣しているかのようにぎごちないものになっていた。滑らかさを失った歯車が、それでも力任せに回っているような。互いを削り合い、やがて壊れて崩れると知りもせずに。
本来ならジョンの仕事はこれで終わりだった。彼は探偵なのだから、悪魔であることを証明出来た時点で、祓魔師達にそれを報告してしまえばいいだけなのだ。さっさと退散するのが常である。だが――、
「お前には、メアリーのために聞きたいことがあるんだよ」
ジョンは右手でコートの懐を探り、ジュネから受け取った鎖を取り出す。伸ばした手から十字架を垂らすと、勢い良く振り回す。
円を描き、回転する十字架。すると、体の奥底へと沈み渡るような音がした。十字架に開けられた穴を空気が通り、笛のように発される音だった。
「へえ……」
と、ジョンは思わず感心する。それは「Aum」と発音する「聖音」だった。様々な宗教に取り上げられる聖なる響き。祈りの結びである「Amen」とも通ずるその響きが武器になると、ジュネは考えたのだろう。事実、その音を耳にした途端、目に見えて女の様子が一変した。悶え苦しむように全身を震わせ始めたのだ。
鎖の全長は二メートル強。その先端で振り回され、強い遠心力が働く十字架を、ジョンは上空から女へと叩き付けた。
大きな音がした。その一撃は女の左肩に突き刺さり、腕に強い衝撃を加え、女の手からナイフを零させた。ジョンは鎖を操作して十字架を引き寄せると強く振るい、今度は斜め下から彼女の右腕を狙った。続いて脇腹、右脚、左脚と全身を痛め付け、最後に首に鎖を絡ませて、女を下方へと強く引き倒すと、女は虫のような呻き声を上げた。
「……容赦ないな」
呆気取られたように、レストレードがそう言った。
「警部、こいつを捕まえて『教会』に引き渡して下さい。それで僕の仕事は終わりです」
警官の一人は首を切られている。幸い、動脈を傷付けられてはいないようだが、出血は少なくない。顔も青ざめている。早めに医者にかかったほうがいいだろう。
警部に指示されて、拳銃を構えた警官が手錠を片手に女へと近付く。ジョンは鎖を引いたまま、女性の動きを牽制し続けた。
女性がふいに顔を小さく上げた。瞳だけがジョンを見、彼もその瞳を無感情に見下ろす。そこにあるのは、鏡のように辺りの光景を映すだけの緑だった。
おや――と、ジョンは眉をひそめる。彼女の瞳の色が変わっていた。ナイフを振るっていた時は紅だったのに、地に這う今は緑だ。体の震えも完全に止まっていた。
――「神聖」に対する拒絶が治まっている。だが、それはおかしい。彼女は十中八九、悪魔である。十字架に絡まれている限り、拒絶反応が止むことはないはずだ。
違和感に
「拘束が規定分以上継続しました。解除し、攻撃態勢へ移行します」
突然、怪音が響いた。言葉にするなら、「キィイ」という甲高い音。途端、鎖の緊張が緩んだ。ジョンは何が起きたのか分からないまま、反動で背から地へと倒れた。
「な、ン……ッ」
ジョンが慌てて鎖を手繰り寄せると、唐突な場所で切断されていた。真っ直ぐで、ザラ付いた断面。明らかに刃物によるものだった。
女が静かに立ち上がった。首にはまるでアクセサリーのように、鎖と十字架を巻き付いたままだ。ぐぐぐ……と、女が背を丸めると――、背中側の服の布地が大きく膨らんでいく。ジョン達の誰もが呆気に取られて、その様を見詰めていた。
やがて、バリバリと衣服を引き千切り、現れたのは鋼鉄の細いシャフトとボール・ジョイントで造られた、四本の腕だった。それぞれの先端には無骨な刃物が連結されていた。
女が顔を上げる。肩から伸びる二本の手、背から生える四本の手それぞれが刃物を掲げた。まるで巨大な蜘蛛が巣にかかった餌に飛び掛かるように。彼女の、その悪魔的な姿勢に、ジョン達は目を見開くばかりだった。
「――うおおおおッ!」
警官が雄叫びを上げ、拳銃を連射した。響き渡る轟音と共に射出される弾丸は、けれど一つとして女に命中することはなかった。
女の動きは、明らかに人間の
マズい――ジョンはそう直感して、発砲する警官の襟を掴んで後ろに引き倒し、前へ躍り出る。
「警部、今は一先ず逃げましょう」
ジョンは鎖を右手に掴んだまま、再び中段の構えをとる。上下左右を問わず、威嚇するように跳び回る女を、素早く目だけで追いながら警部をそう促した。
警部を先頭に一行は走り出す。続くは首を負傷した警官と他二人、メアリー、ジョンの順。ジョンは後ろから迫る女を警戒しながらの
女は壁や地を飛び跳ねることをやめていた。背の腕を蜘蛛のように広げ、真っ直ぐにジョン達に向けて走り出す。恐怖を
背の腕の一本が、ジョンに向けて突き出される。背の腕の全貌は衣服の中に隠されていて、ジョンが想定しているよりも射程があった。彼と女の間に二メートルは距離があったのに、眼前にナイフの切っ先が迫っていた。
「ッ!」
ジョンは咄嗟に鎖を両手でピンと張り、環に絡めてナイフをなんとか押し止める。しかし彼は失念していた。彼女が先程、鎖を切断して拘束から逃れたことを。
再び、怪音が響いた。それは女の手から発されているようだった。なんの音かを察した時、小気味いい音を立てて、鎖の環が破断した。
驚きの声を上げる間もなく、解放されたナイフが吸い込まれるようにジョンに向けて突き進んできた。向けられた一閃を首を逸らして
「ぐうッ!」
走る痛みに、ジョンは思わず声を上げた。歯を食い縛り、憎しみを持って女を強く睨む。彼女の顔にはなんの色もない、人を刺した際に浮かぶであろう感情が何一つとして存在していない。それは不気味と言う以外の何物でもなかった。
「糞がッ!」
ジョンは悪態をついてナイフで刺し貫かれたまま、あえてその手を握り、拘束した。左拳のロザリオで女の顔面を殴り付ける。悪魔である彼女はこれにはひとたまりもないだろう――しかし女は緑色の瞳だけを動かして、ギロリとジョンを見詰めるだけだった。
やがてキィイ……という怪音が再び響いた。今度はその正体を、ジョンは身を持って知る羽目になる。
「うぐ、がああッッッ!」
Fuck, Fuck, Fuck, FUCK! ジョンは吐けるだけの悪態を叫んだ。
怪音の正体は振動音だった。女の鉄腕の手の平部分が前後に細かく振動し、ナイフがまるでチェーンソーのようになっていた。これなら鎖を裂いた破断力も頷ける。実際、血を激しく弾き飛ばしながら、ジョンの手を真っ二つにしつつあった。
女の背の腕が広がる。鉄腕は残り三本もある。獲物を捕らえたのはジョンではなく、彼女なのだ。まるで巣に絡め取った蝶を、蜘蛛が
「――Fuckin’ Jesus…!」
酷い悪態をついて、ジョンは左手で女の後頭部を掴んで引き寄せ、強烈な頭突きを喰らわせた。反動でジョンと女の体は互いの後方へと飛ばされる。
ジョンはその際に無理矢理右手からナイフを引き抜き、左手で傷口を押さえながら、女から素早く距離を取った。
危ねえ……ッ。ジョンは自分の頬を冷や汗が伝うのを感じながら、周囲に何か目眩ましになるような物がないかと探す。警部達は女と十分に距離を取れたが、女は八本の手足を駆使し、地面を這って疾走する。その速度は獣を連想させた。このままでは警部達を追い詰めるのも時間の問題だった。
十字架、ロゼリオ、聖書、聖水にナイフ。ジョンは必死に自身の装備を組み合わせて、女を引き離す策を模索するが、いいアイデアが浮かばない。ジョンは対悪性の装備しか持ち合わせておらず、それらが変形する人間に対応出来るはずもなかった。
「お兄ちゃん!」
前を走るメアリーに呼び掛けられ、ジョンは顔を上げた。道の角から出て来た彼女は、何やら布で出来た袋を引き摺っていた。
小麦粉――。そう印字された袋を見、ジョンはナイフを取り出した。メアリーから受け取った袋を宙に投げ、右手に握ったナイフを横薙ぎに一閃する。
袋が裂け、中から躍り出る小麦粉が広がり、瞬く間に周囲に広がった。女はしかし、そんなことなど気にも留めずに小麦粉の霧の中に侵入する。
それを見届けたジョンが火の点けたジッポーを
粉塵爆発――。空中に浮遊する粉塵が燃焼し、それが連続、伝播していくことで起こる爆発的燃焼である。
「――――」
メアリーをしっかりと抱き、脇道に飛び込んだジョンは、去っていく熱気に振り返る。
地と壁を火が舐めている。ジョンは咳き込みながら、周囲に視線を配るが、女の死体はおろか影すら見当たらなかった。
逃げたか、吹き飛んだか――。どちらにせよ脅威は去ったのだ。ジョンは汗を拭き、大きく息をした。
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