2-2.

「メアリー、ちなみに君は一体どこから来たんだ?」

 唐突に、ヴィクターがメアリーに問うた。ジョンは振り返り、「それがどうかしたのか」と視線を投げるも、ヴィクターは答えなかった。


「……ホワイト、チャペル」

 やがてポツリと、メアリーが呟くようにそう言った。


「やっぱりだ!」

 それは「最悪だ!」とも聞こえた。ヴィクターは空のカップを机に投げ出し、諸手を上げた。


『人形技術』が普及し、多くの「人形」が労働を人間から肩代わりするようになった。英国は特にそういった方面に力を加えていた。「人形」によって労務費や人件費などの削減に繋がり、多くの企業が恩恵を受けていた。が、その反面、多くの失業者を生み出した。そして彼らはやがてイーストエンドという地区に流れ込んだ。その地区の一角にあるのが、ホワイトチャペルだ。

 そこの住人の多くは職を持てず、乞食や浮浪者、売春婦となり、寝起きしているそうだ。食肉工場が垂れ流す腐肉と糞尿により河川は汚れ、しかしその水を飲み水としている為に疫病が蔓延した。犯罪、売春、疫病、あらゆる悪徳の巣窟とされる、まさに英国の闇を凝縮したような場所だった。


「ホワイトチャペルって言えば――」

 治安の悪さだけが、その地区の代名詞ではない。ジュネの言葉を聞くまでもなく、ジョンも同じ事実に思い至っていた。


 ――ジャック・ザ・リッパー。昨今有名な連続殺人鬼の通称だった。


 殺人の対象は売春婦や工場などの監督者だった。犯行はありふれた公共の場やその近くで行われ、被害者は喉を掻き切られていた。中には執拗にバラバラにされた遺体もあるそうだ。犯人は不明。複数なのか、単独なのかすら分かっていない。動機も不明。被害者同士の共通点は、その職業だけ。

 顔の見えない、正体不明の殺人鬼に慄く巷の人間達の根拠のない噂話を聞いた事はあるが、ジョン自身は強い興味を持っていなかった。


「……いやしかし、何も切り裂きジャックと関係があるって訳じゃないだろう」

 顔をしかめるヴィクターを見ながら、ジョンは言った。ヴィクターは尚も嫌そうに、

「悪魔と殺人鬼が同じ街にいると言うのかい。なんてこった、地獄は身近にあったのか」


「ジュネ、お前は切り裂きジャックについて何か知らないか?」


 ジョンはジュネに振り返る。彼女は技術者であり、多大なる才能に恵まれていた。が、就職した先がおかしな会社だった。祓魔師が用いる武器――「聖具せいぐ」を製造する工場を経営する傍ら、なぜか出版社まで経営しているのだ。

 聖具を作るからには、もちろん悪魔や悪霊に対して詳しくなければならない。しかし、だからと言ってあまりにもオカルティックな方面にまで手を伸ばすのは、いかがだろうか。社長は様々な方面の情報を欲しがり、やがて集めた情報を広く普及しようと出版業にのめり込んだ。……今やジュネはその手に握る技術を、ペンを、カメラを、マイクを握るのに使われるようになった。技術者ではなく、記者として走り回る日常を送っていた。


「……役に立つ情報はあんまりないと思う。切り裂きジャック事件は警察から情報が開示されていない上に、ホワイトチャペルは本当に物騒で、取材に出るのも危険だから、ウチでも本腰を入れていないのよ」


 なるほど、この場で報道以上の情報は得られないと……。ジョンは口元に手を当て、ふとメアリーを見遣る。

 メアリーは少し困ったような顔をしていた。もしかしたら切り裂きジャックがなんなのか知らないのか――ジョンは口を開く。


「メアリー、切り裂きジャックという人物を知ってるか?」

 メアリーは黙って首を振る。

「ホワイトチャペルで最近起きている殺人事件の犯人を、そう呼んでいる。鋭い刃物で喉を切り裂かれた遺体を見たことはないか?」

 メアリーは再び首を振った。――が、その否定をする前に一瞬の逡巡しゅんじゅんがあったのを、ジョンは見逃さなかった。


 ――口から出てくる情報だけが真実じゃない。依頼人を真っ直ぐに見詰め、その全てを受け止めるんだ。ジョンはかつて父から聞いた言葉を思い出す、少しばかりの苛立ちを抱えながら。

 ……遺体を見たことがあるのなら、素直に頷けばいいだけだ。どこに躊躇ためらう必要があると言うのか。ジョンは知らず、目付きが険しくなる。

 ――何か、知っている? ならば悪魔と件の殺人鬼には関係性がある? いや、そもそもこの子は「助けて」と言った。遺体を収集する子供達。それを強いる「ママ」なる存在。


 ジョンは頭を振る。メアリーの依頼と切り裂きジャックは関係ない。余計な事に首を突っ込むな。

「ママ」が遺体を収集させる理由を暴き、その是非を問う。メアリーの依頼は、そういう事だ。


「……メアリー」ジョンは少しばかりの罪悪感を抱きながら、口を開いた。「僕は探偵だ。それは、分かっているよね?」

「……うん。シャーロック・ホームズは探偵だって、知ってるよ。あの子達にね、シャーロックのお話をすると、すごく喜ぶの」

 メアリーはその時の事を思い出したのだろうか。少し頬を綻ばせながらそう言った。

 子供達にとって、シャーロックの物語は分かり易い英雄譚なのかも知れない。


「――僕は親父じゃない」


 冷たい声だった。メアリーの顔に陰が差し、声音に驚いたヴィクターとジュネが、思わずジョンに振り返った。

 ジョンはそんな三人をよそに、自身の手の平を見詰めながら、

「探偵は、事件の真相に悪魔がいるかいないかを見極めるのが仕事だ。君の依頼はそれとは違う。申し訳ないが、君の依頼は探偵ではなく、警察の領分だ」

 ジョンの言葉に、メアリーが堪えるように口を引き結ぶ。

「ジョ――」

 何か言おうとしたジュネを、ヴィクターが手で制した。「どうして」と問うジュネの目に、ヴィクターはヘラヘラとした笑いを返した。


「だけどまあ――」ジョンは髪を掻き乱しながら、椅子にもたれかかった。「ついさっき信用してくれと言った僕が、それを裏切る訳にもいかない。その『ママ』とか言う奴が、何を目的に君らに遺体を集めさせているのか、調べるだけ調べてみよう」


 ジョンの言葉に、キョトンとなったメアリー。しかし段々と意味が分かってきたのか、口がポカンと開いていく。

 彼女の表情を見、笑いながらジョンは立ち上がる。


「ヴィクター、これからホワイトチャペルに向かう。まずは装備を補充したい」

 ジョンの一言に、ヴィクターは口に含んでいた紅茶を吹き出し、咳き込んだ。

「英国の闇を凝縮した泣く子も黙るイーストエンドのホワイトチャペルだぞ。そこに一人で行くのかい!?」

「一人じゃねーよ。メアリーに案内して貰う、その『ママ』とか言う奴のところにな」

 今度はメアリーが紅茶を吹き出す。傍にいたジュネが、慌てて彼女の口元をタオルで拭った。

「君は一体何を言っているんだ? 危険にも程がある」

「うるさいな。お前はいつも大袈裟なんだよ。――とにかく、今はこれだけしか持っていないんだ」


 ジョンはモッズコートのポケットの中をまさぐり、取り出した物を机に並べていく。

 文庫サイズの聖書、十字架のネックレス、ツールナイフ、聖水を詰めた小瓶が三つ。それから聖書の一文が刻印された金の指輪が四つと、左手首に巻かれたロザリオが一環。これが今、彼が所持している装備だった。


「……これだけかい? 幾らなんでも心許ないにも程があるよ」

「だから、欲しいと言ったんだろうが。僕は親父と違ってあくまで『普通』なんだ。悪魔と渡り合うには武器がいる。ナイフや剣があればいいんだが……」

「悪魔に太刀打ち出来る『神聖性』のある刃物は持ってないよ。拳銃と銃弾ならあるけど」

「銃か……。僕は銃が嫌いなんだ……」

「そんなに銃は信用ならないかい? 相手に近付かなくてもいい便利な武器だと思うけどねえ」

「僕が昔、拳銃の引き金を引いた時、なんと弾が詰まりやがったんだ。いざと言う時に、そんな事態に陥ったらどうしてくれる」

「どうしようもないねえ」


 ヴィクターののんびりとした口調に、苛立ちでジョンのこめかみがひくついた。彼の機嫌を敏感に察したヴィクターは、サッと表情を変えた。


「とにかく、装備だ。そうだね……、聖水なら備蓄がある。ヨルダン川のだ。それを何か適当な小瓶に移すとしよう。それから――」

「何か殴り付けられるような物はないか?」

「……君は本当に殴るのが好きだねえ」

 ヴィクターの呆れ顔に、ジョンは「うるせえ」と吐き捨ててから、


「自分の五体以上に信じられる物はない」


 それは、彼が父親から受け継いだ信条だった。

「うーん、生憎と君が喜びそうな一品は持ち合わせていないね」

 ヴィクターは机の引き出しや棚の中を漁るが、やがてジョンに振り返って肩を竦めた。

「自分の部屋にはないの?」

 ジュネの言葉に、ジョンは首を振った。


 二階にあるジョンの部屋は、元々はシャーロックが探偵事務所として使っていた部屋だ。悪魔などの侵入を防ぐ為の強力な魔除けを施してはあるが、

「知っているだろう、あいつの武器はその身一つだ。装備なんて何も要らない。だから僕の部屋には何もないよ」

 ジョンはどこか恨めしそうにそう言った。

「君は体だけは本当に、至ってノーマルだからねえ……」

 ヴィクターが球形の小瓶に聖水を詰め、ジョンに手渡しながらそう言った。


「それじゃあ、ジョンにいい物をあげるわ」

 なぜか得意げに笑うジュネが、後ろ手に握る何かを差し出した。

「あン?」ジュネの小さな手に乗る鈍い鋼色の物体に視線を落としたジョンの眉間に皺が寄る。「……なんだそれは。どこかのゴーストハウスから持ち出した曰く付きのアレか?」

「違うわよ。私が作ったの!」


 彼女は掲げた手を開き、取り出した物を揺らしてみせた。それは鎖で繋がれた鉄製の十字架だった。鎖の全長はおよそ二メートル強あり、先端の十字架に繋がっていた。十字架には幾つかの穴が開いており、神聖と言うより奇妙だった。


「……なんだそれは。お前はまた訳の分からない物を作って……」

 ジョンは頭を抱える。手先が器用なのはいい事なのだが、ジュネの創作物は一見して理解出来る事は殆どに関して、不可能だった。

「ちょっと頭を抱えないでよ! これはね、武器よ。ジョンの身を護ってくれるよう、精一杯祈りながら作ったんだから!」

 そう言って、ジュネはジョンの手に鎖付き十字架を押し付けた。ジョンはしげしげと手の上にあるそれを眺める。


「……この穴は一体なんの為に開いている?」

「振り回してみれば分かるわよ」

 ジュネは腰に手を当て、自慢げに鼻を鳴らした。いわゆる、ドヤ顔である。

「振り回して使うのか? それじゃ、まるで鎖鎌だ」


 ジョンは「ふぅん」と鼻を鳴らして、首を傾げてジュネお手製の十字架を見詰める。

 ジュネは良く分からないモノを作るが、役に立たないモノは作らない。

 この鎖の重みは、彼女の祈りの重み。ジョンは懐に仕舞ったその重みに、少しばかりの勇気を得た。


「ま、何もないよりかはマシだろうな」

 しかしジョンは素直じゃない。だからこんなぶっきら棒な態度しか出来ない、捻くれた奴だった。

「あーっ、またそういう事を言う……!」

 不満そうに頬を膨らませるジュネに、ジョンは意地の悪い笑みを浮かべて見せる。

「そんな事よりも、メアリーの方が先決だ」


 ジョンはジュネに彼女の上着を催促する。サイズの問題で、彼女しかメアリーに合うであろう上着を持っていないからだ。

「……本当に、行くの?」

 コートを受け取ったジュネが、消え入りそうな声を出して俯いた。ジョンは彼女の様子を見て、頭を掻いた。

「あー……、悪い。まず君の了解を得るのが先だった。一緒に来てくれると、助かる」

 メアリーは俯いて黙ったままだった。ジョンは返答があるまで、黙って待った。


「……それで、私の家族が助かるなら」


 やがて顔を上げたメアリーが、ジョンを真っ直ぐに見ながらそう言った。ジョンは微笑んで、彼女の頭を撫でる。

「ありがとう。それじゃあ、善は急げ――だ」


 ジョンは言葉通り、すぐに部屋を後にしようとドアノブに手を掛けた。それをヴィクターの声が追う。

「ジョン! 医者という立場から言うが、君だって病み上がりの身だ。あまり無理はするなよ!」

 ジョンは首だけ振り返り、歯を剥いた。

「よけいなお世話だ。僕はもう大丈夫だよ」

 そう言って部屋を去るジョンと彼を追うメアリーを、ヴィクターはジュネと共に見送った。やがてハアと溜め息を吐いて、天井を見上げる。


「果たして、本当にそうなんだろうかねえ……」

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