2-3.
「君はどうやって僕の事務所に辿り着いたんだ?」
「えっとね、色んな人に、『シャーロック・ホームズはどこですか』って聞いて回ったの」メアリーは苦笑しながら、「でも、大体は『汚い』とか『臭い』って言われちゃったけど……」
「…………」
表情を見れば、彼女が困り果てていることなど明白だろうに。子供にまでそんな口を投げるだなんて。世間の冷たさに、ジョンは顔をしかめて閉口した。
「……でも到着したということは、誰かが答えてくれたんだろう?」
「うん。白い髪に片眼鏡のおじさんが、教えてくれたよ」
その親切な男に感謝しなければ。ジョンは心の中で頭を下げた。
歩き続ける内、段々と人々の活気に影が見え始め、代わりに汚れとみすぼらしさが顔を出す。貧民街に近付いてきたのだ。
「お兄ちゃん……」
メアリーはジョンのコートの裾を掴み、震えていた。ジョンは彼女の着るコートのフードを被せ、彼女の顔を隠した。
「大丈夫だよ。そのフードはなるべく深く、外れないように」
ジョンはそう言ってからメアリーの手を握り、再び歩き始めた。
ジョンが流れる下水から漂う異臭に顔をしかめていると、古びた教会が見えてきた。こんな場所でも神の教えを説く気らしい。神を信じて救われるのなら、目の前にいるぶつぶつと何事かを繰り返しながら死んだように
小さく、こぢんまりとした教会だった。意匠は必要最低限に、建てる事に意味があると言いたげだった。しかし外観の荒れ様から、この建物が使用されている様子は一切見受けられなかった。
「――うン?」
教会の中に入ろうとした時、背後から視線を感じた。ジョンはそう言ったモノに特に敏感だった。振り返って周囲を伺うが、自分達を見詰める者はいなかった。気のせいか、いや……と、彼は首を傾げながら、教会の戸を開いた。
教会の中は静まり返り、
「…………」
ジョンは身廊に足をかけたところで、動きを止めた。
「お兄ちゃん……?」
しかしジョンはメアリーの呼びかけに答えず、眼光を鋭く光らせて周囲を見渡す。やがて身廊の脇に並ぶ朽ちたベンチに目を向けた。
「誰かいるだろう。隠れる必要を持つ
声に敵意を発露させる。ジョンの強い声が教会中に響き渡った。
……しばらく待ってから、ベンチの陰から立ち上がる者が四人。そこにいたのは、全員が警察官だった。制服姿の三人と、スーツ姿の男が一人。そのスーツの男は、ジョンの見知った男だった。
「……警部? こんなところで何をしているんですか?」
ジョンは呆気に取られたように口を開け、眉を寄せた。
グレゴリー・レストレード。黒いスーツに黒い山高帽といういつも通りの恰好。痩せた、厳しい顔付きは、ワトソンに「イタチ」だとか「ブルドック」だとか扱き下ろされていたものだ。年齢はシャーロックやワトソンの少し上、五十代半ば。しかし危ぶむ事なかれ、彼はスコットランド・ヤード所属の名警部として、何度も表彰された実績の持ち主だ。シャーロックの非公式な協力があっての物ではあるが。
「や、やあ、ホームズ。奇遇だな、どうして我々がいると分かった?」
気不味そうに咳払いをして、レストレードがジョンに向けて口を開く。
ジョンは黙って床を指差した。レストレードがその先に視線を落とすと、積もった埃を踏んだ足跡がハッキリと残っていた。
「入って来た跡はありますが、出て行ったモノはない。だから誰かが潜んでいるんだと思いました」
その言葉は嘘ではないが、事実でもなかった。しかしその説明が面倒なので、ジョンはそう言うだけに留めた。
「……さすがは探偵。大した観察力だ」
レストレードの言葉に、ジョンは「どーも」と適当に返事を返した。
「それで、警部達はどうしてここに?」
「我々がここにいる理由は、切り裂きジャック事件について調べる為だ」
切り裂きジャック――か、まあそうだろうな。ジョンは独りごちる。今、警察がホワイトチャペルにいる理由は、それ以外にないだろう。
「なんで隠れていたんですか?」
「……ここの住人は警察が嫌いだからな。万が一、集団が乗り込んで来たらたまったものじゃない」
ジョンはレストレードの言葉に、「はあ……」と生返事した。警察のくせに、あまりにも情けないと思いはしたが、口にしないのが花だろう。
「そう言う君はどうしてここにいるんだ、ジョン? いくら君だと言っても、切り裂きジャック事件について知らないとは言わないだろう」
大して興味はないが、否応なしに耳に入るのだから仕方ない。切り裂きジャックは良くも悪くも世間の目を引いていた。
「僕は僕の仕事をしているだけですよ。ほら、ここに依頼人だっている」
ジョンがメアリーに振り返る。隠れるように縮こまっていた彼女は、突然自分に向けられた四人の視線に、より一層身を固くした。
「仕事だと? 君はいつの間に探偵を始めていたんだね、ジョン! いやあ、良かった良かった。シャーロックの葬儀の時の塞ぎ様を見た時は、どうなることかと思ったが!」
段々と声の上がるレストレードの声に、ジョンは引き
「つい最近ですよ。で、この子が僕の最初の依頼人です」
「……そうなの?」
びっくりしたと顔を上げるメアリーに、ジョンは頷きを返した。
小さな依頼人の姿を見て、レストレードが
「依頼人だと? まだ子供じゃないか。一体全体、君みたいな探偵にどんな用がある?」
「それは――」ジョンは宙を仰いだ。「それは、守秘義務があるので言えません」
彼女の事情をレストレードに話すと、面倒臭いことになりそうなので、ジョンは説明するのをやめた。
レストレードはその言葉を聞いて、苦笑した。
「シャーロックも、面倒臭くなるとその言葉を良く口にしたものだ……」レストレードの言葉に、ジョンは不快そうに顔をしかめた。それすらも笑いながら、「それにしても、子供の依頼がホワイトチャペルでの案件とはな……」
「警部」警官の一人が声を上げた。「探偵という事は悪魔関連。つまり……」
「ああ、そうだな。無関係ではないと思う」
「例のタレコミもありますし……」
「出来れば協力を……」
警官達四人が寄り合い、何やら話し込んでいる中、チラリと一瞬だけジョンへと向けられたレストレードの視線。ジョンはその
厄介事になる前に、メアリーと一緒に外に出よう。ジョンがそう思い、メアリーを促した時だった。
「しかし、新人の探偵に頼む事件ではないかと……」
それは確かにその通り。漏れ聞こえて来た警官達の言葉に、ジョンは思わず苦笑を浮かべる。自分はなんの実績もない素人でしかないのは分かっているから、何も言い返せなかった。
レストレードは、そんなジョンを少し不思議そうに見詰めていた。いつもの彼なら、荒い口調で勢い任せに詰め寄って来そうなものだが……。
「まあジョン。まずは話を聞いてくれ」レストレードは咳払いして、部下を制してから、「我々が追う切り裂きジャック事件だが、どうやら悪魔が関係している節があるのだ」
「……あァ?」
レストレードの言葉に、ジョンは
「数少ない目撃者からの証言だ。もっとも、暗がりの中で見たと言うから、その姿をハッキリと見た訳ではないのだが、」レストレードはそう前置きをして、「その人物が見たのは、犯人の姿だ。体の至る所から刃物を出し、それを握った複数の腕を
「……だから、悪魔――か」
人間からそこまで
「今日の調査で、より悪魔に関係する事実が掴めれば、その線も視野に入れるつもりだったのだ」
「……それで探偵の同行も考えていた、と?」
冷静に受け答えるジョンの瞳には、理知的な光が宿っていた。
真面目な子なのだ。こちらがこの子の乱暴な態度に感化されずにしっかりと向き合えば、それが分かる。レストレードは思い出し、どこかそれを懐かしく感じた。
父親に反抗し、反対し、対立にあろうとしていても、瞳はずっと父の背中を追い掛けていた。本人に向けてそんな事を口にすれば拳が飛んで来かねないが、レストレードはジョンのそんな姿をいつも見ていた。
あのシャーロックが死んでしまった今、彼はもう、誰かに甘えてなどいられない。一人の大人として生きていくのだ。……そう実感すると、レストレードの口から溜め息が出そうになった。
レストレードの場違いな親心など知りもせず、ジョンは口元に手を当てて思考する。
切り裂きジャックが魔人だとしたら。浮浪児達に死体を運ばせる謎の女と何か関係はあるのだろうか。……いや、この二人に関連性は見出だせない。この二つは別のものとして捉えた方がいいだろう。
そう考えを切り替えたが、どちらも気掛かりとして胸に残る。ジョンは何かが気になり出したら止まらない。「あああ……」と呻いて、頭を乱暴に掻き乱した。
「警部、差し出がましいようですが、僕に協力させてくれませんか?」
力不足だと感じたら、すぐにでも首を切ってくれて構いません。そう続けながらも、ジョンは警官達の様子を
「それがありがたい申し出だが……、いいのかい。先客がいるのだろう」
レストレードは――未だ訝しげに――メアリーを見ながら、そう問うた。
「メアリーの件もホワイトチャペルの案件ですし、言い方はアレですが、まあ、ついでに」
「巷を騒がす連続殺人鬼を、ついでとは。流石シャーロックの子だ、大きく出る」
レストレードは笑いながらそう言ったが、シャーロックの名が出るや否や、ジョンは露骨に顔をしかめた。
「あの……、お兄ちゃん?」
話が二転三転していく様を、途方に暮れたように見詰めていたメアリーにようやく気付いたジョンは、今更ながら「しまった」と口を開いた。
「すまない、メアリー。君を置いてけぼりに話を進めてしまった」
「それはいいんだけど……」
尚も不安げに顔を伏せるメアリーに視線を合わせようと、ジョンはしゃがみ込んで彼女の顔を覗き込んだ。
「君の依頼が最優先だ。それだけは絶対に守る。約束だ」
「……皆を、助けてくれるんだよね?」
「もちろんだ」
ジョンは努めて笑顔でそう言った。メアリーはようやく少し笑って、頷いた。
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