2-1.

 ――「悪魔」。

 この世界のあらゆる宗教において描かれる、神と天使、そして人間の敵対者。


 彼らは住処である『地獄』から人間界に現れ、人が抱える「悪性」を糧に、魂に取り憑き、蝕む。やがて完全に蝕まれた魂は地獄へと持ち帰られ、永遠の苦痛を強いられる。そして空になった肉体には取り憑いた悪魔が宿る。――「魔人」と呼ばれる存在だ。

 魔人はそうして人間界を闊歩し、また新たな魔人を作ろうと画策する。そうする事でこの世界を支配し、やがて起こる神との戦争に於ける兵士達を増やそうと企てているそうだ。


 もちろん、人間達はそれにただ手をこまねいている訳ではない。悪魔、魔人に対する武器として、「祓魔師ふつまし」――エクソシストが存在する。

 悪魔は自分達とは対を為す「神聖性」を拒絶する。修行と修練の果てに肉体のみに留まらず、魂をも「神聖」に染めた祓魔師が、彼らを撃退出来る。

 しかし彼の祓魔師でも、人間界に入り込んだ悪魔を見つけるのは至難の業だった。悪魔だってわざわざ敵に見つかりたいとは思うまい。策を講じ、巧みに人間の中に隠れ潜む。そこで登場するのが悪魔の捜索を担う、「探偵」と呼ばれる存在だ。


 巷で起こる怪奇現象が悪魔の仕業であるか否か――。ジョンの仕事は、そう言う事だ。


「――みんなを、助けて欲しい」


 ジョンがヴィクターの下へ運び、治療を受けた少女はメアリーと名乗った。

 広めの主室とその奥に寝室というシンプルな間取り。主室を簡易的な診療所と兼ねて、ヴィクターは使っていた。

 そこにある患者用ベッド二台の内の一台に寝るメアリーの下まで椅子を引っ張り、ジョンは腰掛けて彼女に話し掛けた。

「……みんな――と、言うと?」


 傷を治療し、体を洗って服を着替えたメアリーは健康そうだった。念の為と、ヴィクターから伝染病や寄生虫などの検査も受けたが、奇跡的にそういった症状は見られなかった。しかしどこか俯きがちで、彼女から漂う気配は陰鬱そのものだった。


「わたしと一緒に暮らしてる、家族みたいなもの」

 浮浪児達の共同体だろうか。ジョンは唸り声を上げる。

 浮浪児達を過酷な環境から救い出すには、主に金銭面で問題がある。ジョンの財布事情は閑古鳥が鳴かんばかり――と言うか、鳴き疲れてうずくまっているような有様だった。


「あー……、悪いんだがメアリー。僕に君達を世話出来るような蓄えはないんだ」

 そもそもそういう話は自分ではなく、警察に言った方がいい。そう言ったジョンを、メアリーはキョトンとした顔で見つめ返した。

「……そんな顔をされても困る」

 ジョンは困り、背後に振り返ってヴィクターを睨む。机に座り込み、優雅に紅茶を啜っていたヴィクターが片眉を上げて応える。しかし彼が何も言わないので、ジョンは溜め息をついて再びメアリーに向き直った。


「シャーロックなら、助けてくれるはず……だよ、ね?」

 ジョンの態度を見て不安になったのか、か細い声でメアリーは呟いた。


 シャーロック。その名を聞いて、ジョンは再び唸り声を上げた。

 シャーロック・ホームズと、盟友ジョン・H・ワトソン。この世界に生きていて、彼らの名を知らぬ者などいないと言って過言ではないほどの知名度を持ち、数多の悪魔を葬った英雄。


 この子は親父を頼って、ここまで来たのか。でも……――と、ジョンは知らず俯き、唇を噛んでいた。

 そんな彼の肩を叩き、今度はヴィクターが口を開いた。


「メアリー、残念ながらね、シャーロックはつい一月ほど前に死んでしまったんだ」

「え……っ」


 世界中を駆け巡った衝撃はしかし、浮浪児達の元にまでは届かなかったのだろう。メアリーは思わず息を飲み、言葉を失っていた。


「でも、ここに行けば、ホームズがいるって……」

「それは僕だ。……僕はあいつの子供だからな」

 皮肉げに口の端を歪め、明後日の方向を見ながらジョンが言った。

「そんな……」

 メアリーは狼狽し、やがて体を震わせ始めた。頬を流れ落ちる涙を見て、ジョンは苦しげに顔を歪めた。

「じゃあ、誰に頼めばいいの……?」


 零れ落ちた言葉にジョンは答えられない。皮膚が粟立つ感覚に襲われながら、文字通り頭を抱えた。

 胸を責める無力感。脳を締める罪悪感。それを擁護しようと必死になって言葉を吐き出す心を否定しようと心が動く。せめぎ合い、凌ぎ合い、狭間に立つ自分は一切動けずに蹲ったまま一体何をどうしてどうすれば何をすればいいのかどうすれば良かったのかどうしてこうなってしまったのか何故と何故と何故と繰り返す現実逃避と逃げられない逃げられない逃げられないどこにも居場所なんてなくて悲鳴を上げる喉さえ潰れてしまったもう何も見たくない触りたくない聞きたく――――、


「ジョンッ!」


 突然の大声に、ジョンはハッとなって顔を上げる。ヴィクターがジョンの肩を揺すって、しきりに呼び掛けていた。

「大丈夫かい?」

 ジョンは目を閉じ、大きく深呼吸をして、再び目を開いた。

「悪い、大丈夫だ」

 地の底から這い出るような昏い泥が去るのを感じながら、ジョンはコートの懐から煙草とジッポーを取り出し、テーブルに置いた。箱から一本取り出し、咥える一連の作業の隙に、ヴィクターがジッポーを手に取り、火を点けた。


「あまり吸い過ぎるものじゃないよ」

「あァ、そうだな」


 ジョンとヴィクターは、いつもの問答を繰り返す。

 煙草に火を灯し、一息吸うとジョンは紫煙を吐き出した。一筋の煙が天井に昇り、やがて広がり薄まり、消えていく。

 落ち着いたジョンはメアリーに向き直る。彼女もジョンを案じるような目で見ていた。ジョンはそんな彼女の瞳に思わず苦笑を返して、


「みっともないところを見せた。そんな顔をしないでくれ、大丈夫だから」

「ごめんなさい……」

 謝られてしまった。ジョンは困ったように頭を掻いた。


「それでメアリー、あなたは一体何をシャーロックに頼みに来たの?」


 お代わりの紅茶を淹れ終えたジュネが、盆にティーポットとカップを乗せてキッチンから出て来た。三人に紅茶を手渡しながら、彼女はメアリーにそう尋ねた。

「うん……。わたし達を助けて欲しくて、それを頼みに来た……」

 ポツリと最後に「でも、いないんだね」と呟くのを、ジョンは聞き逃さなかった。


 シャーロック・ホームズは英雄だった。多くの悪魔をその拳で退け、数々の栄誉と賞賛を受けてきた。

 英国にシャーロックあり。それが悪魔に対する多大なる抑止力となっていた。市民達も彼がいるから欧州は安全だと、そんな無責任な安心感を持っていた。事実それを保証し続けたのがシャーロック本人だった。

 彼の喪失は、あまりにも大きい。そしてその喪失の原因は――――、


「……親父に頼みたいって事は、悪魔絡みなんだな?」

 ジョンは頭を押さえながら、呻くようにそう言った。気遣うヴィクターの視線を感じながら、しかし意地でもそちらを見なかった。

「分からない……」メアリーは俯いたまま、頭を振る。「でも、悪い事をさせられてると、わたしは思う……」

 メアリーから返ってきた答えに、ジョンは顔を上げた。

「……悪いと思っているのは君だけで、周りはそうじゃない――という風に聞こえるけれど?」

「皆はそれが正しい事だと思ってる。でもわたしは段々とおかしいんじゃないかと思った。だから、ここに来た……」

 そう口にするメアリーだったが、ジョンは彼女がどこか核心を避けて話を続けようとしている気がした。

 それは怖れか、怯えか、躊躇いか。彼女は――仲間を売ろうとしているのだ。


「メアリー、探偵に仕事を依頼するのなら、情報は包み隠さず話して欲しい。それは仕事の成功に繋がり、そして捜査する探偵の安全にも繋がるからだ」

 ジョンは少女に応対する態度を変えた。何はともあれ、彼女は助けを欲している。ジョンに、探偵に助けを求めている。

 シャーロックはどんな相手の話にでも耳を傾けた。その姿をジョンは覚えている。


「親父はいない。だから僕が代わりに話を聞く。だから、まずは僕を信用して欲しい」

 真摯に。ジョンはメアリーに向けて、開手を差し出した。

 キョトンと、ジョンの手を見詰めるメアリー。……やがておずおずと手を差し出し、ジョンの手を握った。ジョンもそれを握り返す。

「それでメアリー、君達がしてる悪い事ってのは、なんなんだ?」

 姿勢を正し、ジョンはそう切り込んだ。メアリーはやはり躊躇い、けれど口を開いた。


「死体を――運んでる」


「――――」

 ジョン、ヴィクター、ジュネが顔をしかめた。急激に話がキナ臭くなったからだ。

「……なんの為に、そんな事を?」

 ジョンの問いに、メアリーは再び俯いた。彼女は自分達が間違った事をしているのを知っている。責められているような気がして、声を出せなかった。


「人の死体は教会できちんと弔わなければならない。衛生的にも死体を野放しにしておくのは危険だ。それは分かっているよな?」

 ジョンは厳しい声で言う。メアリーに言い辛い事を無理に聞いたのは自分だ。だったら、自分の言葉を嘘や偽りで飾って返すのは失礼だと、彼は考えた。

「うん……」

 メアリーは俯いたまま、それでも頷いた。ジョンも頷きを返し、

「なら、いい。分かっていながらそれをしているなら、君達は強制されている訳だ」

 言い方を変えて、罪悪感を紛らわせる。ジョンの気遣いに、メアリーは顔を上げる。

「それの善し悪しを決めるのは僕らじゃないから、君の言葉はここだけの秘密だ」

「そうだね、誰にも言わない。命令されてやらされているのなら、それは命令している奴が一番悪い」

 ヴィクターが紅茶を啜り、メアリーにウインクした。少女はようやく少しだけ笑った。


「それで、その命令をしたのは、どこのどいつだ?」


 本題、核心、真髄。ジョンは強い眼光を光らせて、それを問う。

 メアリーは小さく首を振った。揺れる髪がその動きを止めた後、


「どこから来たのかは分からない。でもその人は、色々な事を教えてくれた。ご飯だってくれる。だからその人の事を、わたし達は『ママ』って呼んでる」

 確かに、彼女達にとっては母親のような存在だろう。

「その『ママ』はなんのために君達にそんな事を強いるんだ?」

 ジョンに、再び首を振って答えるメアリー。

「分からない。死体を渡した後、『ママ』はすぐにどこかへ持っていっちゃうから。どこに持っていって、そこで何をしてるのか、わたし達は誰も知らない」

 メアリーは顔を上げ、三人の顔を見回す。皆が考えるように俯き、言葉を失くしていた。


「みんな、騙されてるの。わたし達、本当はすごく怖い事をさせられてるのに、みんな正しいと思わされてる……」

 三人の表情を見て、やはり自分達がしている事は間違っているのだと痛感したようだった。メアリーは今にも泣き出しそうな声を出し、布団を握り締めながら体を震わせる。

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