1-3.

「そう言えば、ジャネットから連絡があったわ。あの子も仕事を再開するって」

「そうかあ、そりゃあ良かった。なあ、ジョン?」

「そう――、だな……」

 ヴィクターの朗らかな声に対し、ジョンの声は喉を引き絞るかのように苦しげだった。


 ジャネット・ワトソン。死んだジョン・H・ワトソンの娘にして、ジェーンの双子の姉。彼女は聖都で従事する祓魔師ふつましだ。


 父と妹を襲った悲劇からのショックで療養を取っていたジャネットが、ジョンを追うように職務へと復帰する。それは彼女の回復を知らせる吉報だったのだが、ジョンの表情は明るくなかった。

 そんなジョンを見て、ジュネは心配そうに顔を曇らせる。反してヴィクターは気軽そうに肩を竦めた。


「ジョンが始動し始めた途端にコレだ。ジョンに遅れを取らない為だぜ、多分。まったく、ジャネットは本当に負けず嫌いだね」

「そういう事――なのかな?」

「そういう事なんじゃないのかい?」

 まともな返答に期待出来ない。そう判断したジュネは溜め息を付いて、ジョンに振り返る。

「そう言えば、ジョン」

「あン? どうした?」

「……ジェーンのお見舞いには、一度でも行った?」

「――――」

 ジョンは息を呑み、思わず足を止めた。ドッと汗が溢れ、呼吸も見るからに荒くなっていく。


 シャーロック、ワトソン、そしてジェーンは悪魔に襲われた。悪魔が狙ったのはジョンだった。彼を守る為に、三人は犠牲になった。シャーロックとワトソンは逝き、ジェーンは辛うじて生き永らえた。

 右腕は潰され、変形が故に切除。片肺、その他内蔵が破壊され、壊死した部分を切除する事態になった。頭蓋に負った衝撃で左目を失い、脳にもダメージが刻まれ、手足に麻痺が残った。栄養摂取は点滴、病院の設備が命綱。完治はほぼ絶望的、彼女は一生を病院で過ごす事を強いられる事となった。


 ジョンはジェーンの未来を奪った。……その事実、その途方もない罪悪感。ジョンはジェーンが目覚めてから、一度も彼女と顔を合わせた事がなかった。


「……い、いや、僕は――、そんな、僕には……」

「ジュネ」

 ヴィクターがたしなめるように名を呼ぶ。ジュネは傷付いたような顔をして、彼に振り返る。

「焦る事はない。ジェーンがジョンを待っているのは本当だけど、まずは自分の中に答えを出してからでいい。だから――、ジョン。キミはキミらしくいればいい」

「……悪い」


 ジョンは目を閉じ、呟くように言った。その言葉はどこに向けられたものなのか、彼自身にも分からない。


 やがて三人が下宿に辿り着いた時、玄関を掃き掃除している女性がその手を止めると、彼らに振り返って微笑んだ。フリルの付いたおかしな割烹着かっぽうぎを着けている彼女は、アパートの経営者であるマダム・ハドソンだ。


「おかえりなさい、三人とも」


 ジュネがハドソンの下へ駆け寄り、礼儀正しく頭を下げる。彼女に頭を撫でられるジュネは、まるで幼い子供のようだった。


「いやあ、どうも。じゃあ、ボクは片付けがあるのでお先に――」

 なぜか急いでアパートの中に入ろうとするヴィクター。しかしハドソンはジュネに笑みを向けたまま、彼の白衣の襟を後ろから掴んで逃がさない。

「あらあ、ダメよ? 今月の家賃、支払いが一週間も遅れているわよ?」

「お、おや、そうだったかなあ、アハハ……」

「笑い事じゃないのよ? 私がご飯を食べられなくなっちゃうじゃない」

 その微笑みが怖いと、ジョンの体は冷や汗を流し始めた。


「嫌だなあ、決して滞納しようとしていた訳じゃないんですよ? タイミングがなくて、今日まで延びてしまっただけなんです」

 引き攣った笑みを冷や汗で汚しながら、ヴィクターは財布から紙幣を取り出す。それを満面の笑みで受け取ったハドソンが、今度はジョンの方へとクルリと振り返った。

「ホームズ君も、これからよろしくね?」

「……こちらこそ、よろしくお願いします」


 メドゥーサの瞳に睨まれたかのような心地だった。ジョンもまた、ヴィクターのように引き攣った笑みを浮かべ、なんとかそう口にした。


 アパートの中に入る。タイル張りの手狭な玄関ホールには、簡素なテーブルセットと花瓶、住人が自由に使える電話機、上階へ向かう階段しかない。

「いやはやまったく。おっかない事この上ない」

 階段を登りながら、ジョンは後ろにいるヴィクターの声を聞く。

「家賃を払わないからだろう。自業自得だ」

「ボクはボクで忙しいんだ。家賃の一週間や一ヶ月、二ヶ月くらい待って欲しいものだよ」

「そんなに待つか。次は服の襟じゃなくて首を鷲掴みにされるぞ」


 階段を登り切った先の三階、ヴィクターの部屋はそこにある。溜め息をついて、ジョンはふと足元を見た。

 ジョンの足元にあるのは、小さな赤い染みだった。いぶかしく思った彼が爪先でそれを擦ると、伸びて余計に汚れが広がった。


「……おや、血――かな」

 ヴィクターの呟きを耳にして、ジョンは振り返る。自身の背後の床にも同じ染みがあり、どうやらそれはアパートに入ってからずっと続いているようだった。ジョンは顔の向きを戻し、廊下を視線で舐める。赤い跡はところどころに落ち、やがてその先にある階段へと続いていた。

「ヴィクター、荷物を任せるぞ」

 ジョンは廊下に機械を置き、ヴィクターの返事も聞かずに二階へと向かった。階段を登り切った先には、ジョンの部屋があった。

 猛烈な嫌な予感に、ジョンは胸を掻いた。血の跡は廊下を滴り続け、やがてその滴下をやめて赤い溜まりを作り上げていた。

 ジョンは息を呑んで、自身の部屋の前にある光景に目を見開く。


 白く塗られた木のドアに背を預け、うずくまる小さな少女がそこにいた。


 斑点のような頭垢フケにまみれた砂色の髪、薄く陰った青磁色の瞳、茶色く汚れた肌に鼻を突く体臭、汗と泥に塗れた傷だらけの衣服を血で更に汚し、荒い息を続ける痩せて骨ばった体。

 明らかに浮浪児だった。しかしジョンは躊躇ためらわず、少女の肩に手を置いた。


「おい、大丈夫か。こっちを見るんだ」

 ジョンの声に顔を上げ、少女が胡乱な目を彼に向ける。

「あ……あ……っ」少女が小さな口を開け、呻き声を上げる。「たす、けて……たすけ、て」


 意識を取り戻した少女が、ジョンの衣服を掴む。痩せた体からとは信じられないその強さに、ジョンは驚きながらも「分かった」と頷き、少女を抱き上げた。

 ジョンが少女の背中に手を回すと、ヌルリとした熱い、嫌な感触に襲われた。背部を何かで切り付けられ、血だらけなのだ。


「たすけて……たすけて……みんなを――たすけて……ッ」


 少女はジョンの腕の中で、まるで祈るようにその言葉を繰り返した。

 ヴィクターの下へとジョンは廊下を駆け、階段を飛び越える。

 ヴィクターは技師で、

 ジュネはその助手であり、

 そしてジョンは――探偵だった。

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