15.(終)

 あの日も、月が綺麗な夜だった。

 あの日、運命の日。全てを変えてしまったあの夜。


「…………」

 ジェーンは静かに目を覚ました。違和感から目元を擦る。泣いていたのだろう、乾いた涙が貼り付いていた。

 体を起こし、溜め息を付く。こんな簡単な動作にも疲労感が纏わる。マスクを外すと、またフウと息をつく。


「でも、これも……」

 ジェーンは呟き、強く目を瞑った。眠りたい、眠ってしまえば現実の中にいなくて済むのに。体を抱え、丸くなる。


 ――「ジェーン、お前にも約束するよ」。ジョンの言葉が脳裏に過ぎる。……大切な約束を、また貰ってしまった。ワタシには分不相応な、あまりにも勿体ない言葉。


 だけど、違う、そうじゃない、ワタシは貴方にそんな事をして欲しいワケじゃない。ワタシは貴方に傷付いて欲しくないだけ。ただそれだけ。血を流す姿も、涙を流す姿も見たくない。

 戦いはヒトを変える。父さんとシャーロックがそうなったように。あの二人は多くの傷の後に、最も大事な筈の存在を変貌させてしまった。

 傷付いて、傷付けて、そして修復を繰り返し、やがて最後には「自分」なんて残らない。


 Stay Real――お願い、貴方は、貴方のままでいて――――。


 いつか告げた願い、望み、ワタシの祈りを、彼は覚えていてくれているだろうか。

 この先何が起きようと、何が待ち受けていようとも、絶体に自分を見失わないで。


 ジョンは「あの日」からずっと見失っていた、己の「魂」とも呼べる核を取り零したままだった。けれど、彼は取り戻したのだろう。ジェーンはジョンが浮かべる微笑みを見てそう感じ、そしてそれが何よりも嬉しく、安堵した。


 ……ふと、顔を上げる。いつの間にか彼女の目の前に、誰かが背を向けて立っていた。


 骨のように白い肌の上に纏う黒いイヴニングドレス、その大胆に開いた背中を長い銀髪が隠していた。四肢の肘や膝から先は獣のような黒い体毛に覆われ、爪も獣のそれのように鋭かった。物憂げな瞳で、長身の女性が静かに虚空を見詰めていた。


「……もう会えないかと思ってた」

 ニコリと、ジェーンは笑う。そこに警戒心は欠片もなかった。

 振り返った女もまた静かな瞳で、ジェーンを見る。女の側頭部から骨格に沿うようにして額に向けて生える、二本の黒々とした角に、ジェーンは目を奪われた。

 女は口を開かず、目を閉じて首を振った。「相変わらず無口ね」と、ジェーンは再び笑った。そして視線を病室の窓の外に向ける。


「……今夜は、月が綺麗ね」

「…………」

 女はジェーンの視線を追うようにして、窓の外、暗黒の空に浮かぶ銀色の月を見上げた。


 女の瞳に月が映る。陰鬱な影を魅せる彼女の、血のように紅い瞳に――――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る