14-4.
片肺全摘出により、彼女は酸素吸入器を手放せない。マスクに覆われた彼女は目覚めているのかいないのか、ジェーン・ワトソンは上体を起こして枕にもたれ、自分の体を包むシーツを無為に見詰めていた。
ガラガラと開いた病室の扉の音にも気付かなかった。ベッド脇までやって来たジャネットに顔を覗かれ、「ジェーン?」と尋ねられるまで反応出来なかった。
「え、あ……、じゃねっと……?」
ハッとジェーンが顔を上げる。目の前にホッとしたような姉の顔があった。
「大丈夫? ボーッとしてたよ?」
「うん……、大丈夫、ありがとう」
マスクを外すと小さく微笑み、ジェーンは頷いた。
「はい、お水飲む?」
コップに水を注ぎ、ジェーンに手渡すのはジュネだった。彼女にも笑顔を向け、それを受け取る。しかし上手く掴めずに手から落としてしまった。
「あ……ッ」
ジェーンが思わず小さく声を上げた。しかし慌てる事なく、ジュネはコップを拾い上げ、零れてしまった水をタオルで拭き上げた。
「ごめんなさい……」
途端に暗い顔をして、ジェーンは俯いた。怪我の所為で、手に上手く力が入らないのだ。物を取り落とす事がしょっちゅうだった。
「謝らなくていいの」
ジュネはなんでもないと笑い、今度は水を注いだコップをジェーンの口元に持っていく。
「……ありがとう」
水を一口含み、ジェーンは小さく笑って礼を言った。
「キミは今まで他人の世話ばかり焼いていたんだ。堂々と手助けされていればいいんだよ」
ヴィクターが椅子に座り、クルクルと回りながらそう宣う。あまりの暴論ぶりに、部屋の中の三人が苦笑する。
「今日はお客さんがいるのよ」紹介を受け、ジャネットの背後からメアリーが姿を現わす。「この子はメアリー。事情があって、しばらく預かる事になったの」
「こ、こんにちは……」
メアリーがジェーンの前に立ち、行儀良く頭を下げた。ジェーンは「まあ……!」と声を上げ、
「可愛い、なんて可愛いの……っ」
と、感極まった声を上げた。しかしその直後、苦しそうに咳き込んだ。
「興奮し過ぎよ。気持ちは分かるけど」
ジャネットにマスクを手渡され、ジェーンがそれを口に装着した。しばらくじっとしていると、呼吸が落ち着いた。
「嗚呼、なんて可愛らしいのかしら……」ジェーンはしかし鼻息を荒くして、「一体どんな服が似合うかしら。ねえ、どう思う、ジャネット」
「そうねえ」ジャネットがニヤッと笑い、「まあ確実なのは、メイド服よね」
「鉄板ね。でも可愛い過ぎて、ワタシ、死んじゃうわ」
「冗談になってないわよ。――あとはそうね、何がいいかしら……」
「ゴスロリ」
「ヤバ過ぎ……」
「ナース服」
「しんどい……」
「憲兵服」
「ああ~……」
部屋を跋扈する謎の言葉にメアリーが目を白黒させる。彼女にとっては未知の世界、しかしそれがなんなのか、思い知る日は近いだろう。
ヴィクターとジュネはワトソン姉妹を遠巻きにし、遠い目をしていた。
「あの地獄の日々が繰り返されるのか……」
ジュネは重い溜め息を付く。彼女は姉妹と知り合った頃、その小柄な容姿を理由、若しくは充てにされ、姉妹の好みの服装の数々に着替えさせられた。その趣味全開のファッションショーは彼女のトラウマとして、記憶に刻み込まれている。
「じぇ、ジェーン? 今日のお客さんはね、メアリーだけじゃないのよ」
カオスに染まりつつあるこの空間をなんとか打破せんと、ジュネが口を開く。ジェーンは首を傾げた。
「誰ぁれ?」
「……そろそろ入って来なよ」
ヴィクターの呆れたような声に促さ――いや、煽られたのか。やがて病室の扉が開いた。
「…………」
扉を開くまでにどれだけの逡巡があっただろう。だがここまで来て、逃げる事は出来ない。逃げ続ける事は出来ないとジョンは意を決し、病室の中に踏み込んだが、しかしそこから動けなくなった。
「ジョン……」ジェーンが彼の姿を見、目を丸くする。そして柔らかく表情を溶かした。「やっと、来てくれたね」
心底安堵したような。心底安息したような。まるで陽だまりのような笑顔だった。
その笑顔が、体の麻痺を解いた。しかしジョンは答えず、俯いて強く息を吐くと、ジェーンの傍に歩み寄った。
「……すまない、ジェーン」ジョンは口を開き、頭を下げた。「僕は、またお前に守られた」
「……謝る必要なんてないわ」あの夜の事を言っているのだろう。ジェーンは首を小さく振った。「ワタシは、ジョンが傷付くのが嫌なの。ずっとずっとそうなだけ」
「いや……」今度は、ジョンが首を振った。「僕が強くなりたいと思ったのは、お前が背中を斬られた時からだ。あの日から、お前を守れるようになると誓ったのに――」
ジェーンが右の肩に手を当てる。そこから背部を左の脇腹に向け、一生残ると言われた裂傷が刻まれていた。
「だけど、ジャネットと約束した」ジョンは顔を上げる。その瞳の中には決意の炎が燃えていた。「もう誰も傷付けさせない、奪わせない。僕はもう、誰にも負けないから」
そして手を伸ばし、ジェーンの手を握った。失われてしまった右腕、左目。満足に利かなくなった手足。ジョンはそれらを、自身の責任として刮目する。
「ジェーン、お前にも約束するよ」
ジェーンは自分の手を握るジョンの手を見詰める。その大きくて力強い手を見詰める。
――ありがとう、ジョン……。ジェーンは倒れ込むようにしてジョンの手に額を付ける――、顔を隠す。流れそうになる涙を堪える。
傷付けさせない、奪わせない――。そうする為には、彼は戦い続ける必要がある。他人を助ける為に、結局彼が傷付けられるのだ。それがジェーンには一番辛い。彼女はだから、自分の身を挺して彼を守れるなら、そうしてきた。
「ジェーン、大丈夫?」
ジャネットがジェーンの肩に手を置き、体を起こさせた。顔を上げたジェーンは瞳こそ赤くしていたが、涙は流していなかった。
分かっている。ジョンがそういう人間だという事は分かっている。幼い頃から自分は彼を見詰めて来た。何があっても、彼は彼の生き方を止められない。自分もそれを阻めない。でも……――。ジェーンは胸の内に渦巻く想いに苛まれながら、それでも笑顔を作った。
「絶対に帰って来てね。ワタシのところに、何があっても」
何があっても――。ジェーンが繰り返す言葉に、ジョンは万巻の想いを込めて頷く。
「約束したろ、負けないって」
ジョンは笑う。糞ガキのような、そんな悪戯な笑み。
ジェーンはその笑みを見て、胸が張り裂けそうになった。
――ジョン、ごめんなさい……。誰にも聞こえない謝罪は、彼女を足元から闇へと飲み込みそうだった。
しかし彼女の心の内は、誰の目にも映らなかった。彼女が一人、昏い場所を歩いていると、部屋の中にいる誰もが気付かなかった。
あの夜を思い出したジョンと、それを聞いたヴィクターだけが、それに気付ける筈だった。しかし彼らは気付けなかった。後悔する日がやって来る事にすら、彼らは気付かないままだった。
「会ってしまえば簡単だったろう、ジョン?」
重大な選択肢を見誤ったヴィクターの揶揄うような声に、同じ過ちを犯したジョンは気恥ずかしそうに歯を剥いた。
「うるせえよ、空気読めや」
「何を言っているんだい、君は。図星を突かれて恥ずかしいのかい?」
ジョンの眉間に危険な皺が寄る。それを敏感に察知したヴィクターが、即座に両手を上げた。
「済まない、済まない、なんでもないって!」
「あァ? 取り消しは効かねえよなァ、オイ……ッ」
「いやいやいや……ッ! 落ち着き給えよ、君……!」
いつもの雰囲気、いつもの茶番。あの日、あの夜から失われてしまった「日常」だった。けれど五人が再び集えば、簡単に取り戻せるのだ。
ジェーンは笑い声の響くこの「居場所」に、「嗚呼……」と声を零した。
――ココにいたい。いつまでもいたい。それは、彼女の切なる願いだった。
そして――――、彼女自身が切り捨てた願いだった。
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