14-2.

「気付かない程に間抜けなのかと思いきや、存外目がいいようだね、君ィ。そうでなくては、ホームズの名を継ぐに値しないと言うものだよ」

「てめえがその名を口にするんじゃねえ、ブチ殺すぞ……!」


 更に圧力を増すジョンの怒気に、しかし屈する事なくモリアーティはくつくつと笑う。


「凄まじいな。シャーロックとは似ても似つかない覇気だ。彼のそれは精錬された刃物のようだったが、君は違う。もっと荒々しく、手付かずだ」モリアーティは、やはり余裕めいた笑みを崩さない。「言うならば、制御の効かない獣のようだね」


 ジョンが強く地を蹴った。姿勢は低く、鋭く真っ直ぐに。更に右足を一歩前へ踏み込み、拳を振ろうと腰を切る直前、モリアーティの杖に右足の甲を押さえ付けられた。前進の力を妨げられ、ジョンの体がガクンとつんのめるように前方へと倒れる。

その最中、視界の隅でモリアーティの外套が翻るのを捉えると、咄嗟に顔の前で腕を組んだ。直後、モリアーティの後ろ回し蹴りが叩き込まれた。

 地を滑りながら、ジョンが後方へと押し戻された。来たる追撃に備えようと構えを組み直すが、モリアーティはその場から動かないまま、「ふむ」と声を上げて眉を上げた。


「やはりまだ粗削りだ。シャーロックの域には遠く及ばない」

 敵が零したその言葉に、ジョンが顔を上げてニィと歯を見せる。怒りに怒りを上乗せる、挑発に挑発を返す、極悪とも言えるまでの危険な笑み。


「てめえが親父を語るんじゃねえよ糞っ垂れ……ッ!」

 地獄から響くような低い声に、シャーロックはフンと詰まらなそうに鼻を鳴らした。

「この世のどこに、吾輩以上に奴を語れる存在がいるのかね?」

「なんだと……?」

「吾輩はもはや奴との対決以外に、退屈を紛らわす手段を見出せなくなった。奴とは何度も争った。吾輩も奴もお互いに、手の内は晒し合った。奴を殺す為の姦計を、何度も何度も差し向けた。それでも、一向に決着は尽かないままだ」モリアーティは大仰に腕を広げた。「仕方がないので、最後の手段を取った。――奴にとって最も大切なモノを、囮に使う事にしたのだ」


 ジョンはモリアーティが何を言いたいのかを悟った。怒りの形は荒ぶる炎から、鋭利な氷へと一変した。その冷気を吐息から零しながら、しかしモリアーティの次の言葉を待つ。


「ソレを庇いながら大悪魔と相手をするのは、骨が折れるだろうと思ったよ。しかしながら、嗚呼、まさか死んでしまうとはなァ! 全くもって笑えない、笑えないよ君ィ」

 そう言いながら、モリアーティの顔には笑みが貼り付いていた。気味の悪い程気持ちの悪い、他者を煽り、嘲り、嬲り、蔑み、卑しめ、貶め、笑う笑み。


「それじゃあ、こういう事か……?」ジョンは低い声で続ける。「てめえが、親父達がこれから何をするのか、そしてどこにいるのかをベルゼブブに伝え、襲わせたって、そういう事か?」


 ジョンの背後で、ジャネットが息を呑む。彼女もジョン同様に気付いたのだ。

 シャーロック、ワトソン、ジェーン。三人を襲った悲劇、その原因を作ったのは――、


「その通りだよ、君ィ。奴は君が危険とあらば、迷わず君の救出を最優先にする。君は奴にない筈の弱点、盲点、欠点。君は生まれた時から、奴の足を引っ張っていたのだよ……!」


「――お前、黙れよッ!」


 跳び出したのは、今度はジャネットだった。ホルスターから拳銃を抜き出して一歩、加速の為の二歩、そして跳躍の三歩でモリアーティを射程内に捉えた。

 ジャネットが振り下ろした右の拳は、モリアーティにあっさりと躱された。しかしその時点で、続く二撃目の左は振るわれている。それを躱されても、更に右が続く。

 上下左右に打ち分け、速度を変え、フェイントを加え、ジャネットは攻撃を続ける。しかしそれらをことごとく躱される。一体どうなっているのかと暗い思いが胸の内に咲いた、その一瞬を、文字通り突かれた。

 しかし反撃を悟ったジャネットは、自身の腹に敵の下突きが入る一瞬前に後方へと跳び退っていた。同時に左腕を振るい、握っていた拳銃を上空へ投げ飛ばした。

 ジャネットの背中に隠れるようにしていたジョンが、彼女を跳び越えながら、宙を飛ぶ拳銃を握り締めた。

 モリアーティは素早く顔を上げるが、しかし既にジョンは地に降り立っていた。モリアーティは目で彼を追うが、それに追いつかれるよりも早くジョンは強く石畳を踏み付け、拳銃を握る右の拳を突き上げていた。

 確実に決まった――! そう実感したジョンの手はしかし、モリアーティの体を捉えた衝撃を感じ得なかった。


「危ない、危ない……。少し油断してしまったよ」

 ジョンはほくそ笑むモリアーティの、その体を見遣る。彼の左胸がある筈のその位置には、ただ虚空があった。

「嘘だろ……ッ」


 ジョンが言葉を失う。モリアーティはジョンが狙った筈の左胸部にある肋骨や筋肉、肺や心臓など丸ごと移動させて空間を作る事で、ジョンの拳を強引に躱していた。

 驚愕に思わず体を固めるジョンを、モリアーティは「フン」と強く息を吐き、掌底撃ちで突き飛ばした。ジョンは背中から倒れ、ゴロゴロと無様に転がった。


「ふむ、いい連携だ。油断していたとは言え、まさか一杯喰わされるとは」

 終始見下し、評価するようなモリアーティの物言いに、ジョンは音が鳴るほど強く歯を噛んだ。彼はジャネットの手を借りながら、怒りの形相を崩さないまま、立ち上がる。

「てめえ、一体何がしたいんだよ、あァ? ベルゼブブと手を組んでいた筈のてめえが、なんで僕らを使ってあいつの邪魔をした?」

「ああ、それか」モリアーティはジョンの問いに、嘲るような笑みを返す。「奴の計画は、聞いた当初は面白そうだと思ったが、一向に成功の兆しが見えない。しばらくする内に退屈になってしまってね、付き合うのも面倒になったから君を使ったに過ぎないよ」

 興味、退屈、面倒……。あまりに身勝手な、言い訳にもならない返答に、ジョンが半ば茫然とする。


 ――これが、悪魔。これが魔人。ジョンは改めて彼らの悪徳さを感じ、ゾッと怖気立つ。

 ヒトが最も恐怖する瞬間は、自分には「理解出来ない」ものに触れた時だ。


 傷付いた者がいる。離れ離れになってしまった者がいる。もう二度と会えなくなってしまった者がいる。その喪失の原因が、一人の男の身勝手さに振り回されてのものだった。


「ベルゼブブの奴に何度か忠言したが、聞き入れて貰えなかったのでな。ならば別の人間を使うしかない。吾輩が君をプロデュースして、事件解決に導いた」

「プロデュースだ……? フザけた事言ってんじゃねえぞ!」

「なに、本当の事だよ、君ィ」モリアーティがニィと笑う。「君は――否、君達はロンドンに恐怖を招いた切り裂きジャック事件解決の立役者となった。世間の目は、否応がなく君達に向けられる。君達の一挙手一投足に目が配られる。ジョン・シャーロック・ホームズとジャネット・ワトソンが父達のように活躍するか否か、君の姿に世界の目が向けられる。――君達はようやく、舞台に立つ権利を得たのだよ」

「舞台? 一体何を言ってんのよ!」

 モリアーティがパンと手を打つ。まるで何かの始まりを告げるかのように。

「勿論、吾輩がプロデュースする『世界』と言う名の舞台だよ」


 それはまるでクリスマスプレゼントを開くその瞬間、ハロウィーンのお化けが戸を叩くその瞬間、イースターエッグを飾り付けるその瞬間。待ち切れない「喜び」をほくそ笑むかのように、純真と純粋と純正を掛け合わせたその笑顔。

 初老の男が浮かべる子供のような笑顔に、舞台に立つ事を許された演者二人は、全身に鳥肌を覚えた。


「吾輩はプロデューサーだ。裏方は早々に立ち去るとしよう。今日は君達と、我が親友達に挨拶をしに来たに過ぎない」

 モリアーティは両手で顔を覆う。その手の下で肉と骨が蠢く。瞬く間に別人へと変貌した彼は、ジョン達に背を向けた。


「待てよコラ。おめおめと逃がす訳ねえだろオイ!」

 ジョンが去ろうとするモリアーティの背を追う。懐に手を入れる彼を視認した直後、モリアーティが取り出した何かを自分の真下へと投げ付けた。

 ボッと言う小さな爆発音と共に、猛烈な勢いで周囲に濃い煙が広がった。

 煙幕――! 小賢しい手ェ使いやがって……! 思わず立ち止まったジョンはしかし、あっという間に煙に呑まれてしまい、モリアーティはおろか、周囲の状況すら分からなくなった。「く――」そ……ッ! と、悪態をつこうとしたその刹那、

「君に吾輩の相手はまだ早い」

 耳元で、敵の不気味な囁き声が響いた。

 背後を取られている。ジョンは目を見張り、歯を食い縛って動けなくなった。


「用があれば、吾輩自ら君達の前に現れる。それまで精々精進したまえよ」

「く、そ……!」

 ジョンは今度こそ振り返ろうとした。しかしそれを制する為に、背中にチクリと何かが軽く刺さった。彼は、モリアーティが握る刃物を心臓の真裏に当てられていた。

「ではさらばだ、ホームズの息子よ」


 モリアーティが歯を見せて笑う顔が、見える様だった。ジョンは堪え切れずに雄叫びを上げ、振り返りながら拳を振るった。

 しかし拳は煙を払うだけだった。ジョンは首を回して、周囲に目を配る。モリアーティの姿は影すら掴めない。しかしそれでも、どこからか敵の低い声が響いて来る。


「再び出会う頃に、君達がそれ相応の力を身に着けている事を、願っているよ」

「てめえッ! くそ、どこだコラッ!」


「そこにいる――『特異点』の少女もだ」


「!」

「彼女もまた、舞台に於いて大事な配役の一人だ。誰かに奪われないよう、努々目を離さない事だ……」

「…………!」

 大悪魔ベルゼブブも執拗な執着を見せた『特異点』、メアリー。その正体を、終ぞ知る事が出来なかった。


「『特異点』ってのは一体なんなんだよ! メアリーが一体何をしたって言うんだ!」

 ジョンは焦燥に駆られて、声を上げる。モリアーティのクックと押し殺したような笑みが、四方八方から返って来た。

「何も知らない――。それは、今は知らなくてもいいという事だ。しかしこの先、君らは否応なしに世界の現実、曰く真実を直視する時が来るだろう」


 自分達がまだ知らない、世界の真実……。ジョンはモリアーティが語る途方もないものに、思い当たる節すらなかった。


「それはホームズやワトソンすらも絶望させたもの。そんな代物に対面し、君らは堪えられるかな?」

 彼が何を言っているのか分からない。その「分からない」という感覚に、ジョンはとてつもない孤独を感じた。

「ゴチャゴチャうるせえんだよ糞っ垂れ!」

 逐一無視される自分の言葉に、ジョンは苛立ちを隠せない。それでもモリアーティの独白のような言葉は続けられる。


「『特異点』とは――、異界の門の鍵穴だ」


 ……煙が徐々に晴れていく。ジョンは周囲に隈なく目を配る。声の方向から、敵の大体の位置を把握する。そちらに向けて足を進めるも、今度は真逆の方向からモリアーティの声が響く。


「分かるかね? 彼女の存在が、ココとは異なる世界を繋いでいるのだよ」


 ジョンはヴィクターの部屋を襲った悪魔の言葉を思い出す。あの悪魔はメアリーを『窓』と称した。地獄から人間界を覗く窓だ、と……。

 ――『門』に、『窓』。共通するのはどちらも「出入口」に該当するという事。


「地獄と天国が人間達の世界と繋がる――それが果たして如何なる意味を持つのか。良く考えてみるといい」


 煙が晴れた。ジョンは歯を食い縛りながら、ただ正面だけを睨み付けていた。目の見える範囲に、モリアーティの姿がない事は分かり切っていた。彼は「してやられた」という口惜しさで、胸が一杯だった。

 殴り掛かっても払い除けられた。ジャネットとの連携すらも躱された。おまけに背後を取られ、刃物を突き付けられた。命を奪える圧倒的優位に立たれながらも、しかし見過ごされた。

 自分は敵に「敵」とすら認められていなかった。ジョンは体の震えを拳に凝縮させる。

 弱い。自分は未だに弱いままだ。敵は自分の遥か先にいる。ジョンはその距離に、絶望は抱かなかった。

 何故なら、敵との距離はシャーロックよりは短いものだからだ。

 ジョンが見ているのは、ずっとシャーロックただ一人。彼の位置を超える事こそが、彼にとって最も重要な事柄。それ以外は全て些事だと言っても構わない。

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