13-6.

「お兄ちゃん!」

 と、メアリーがジョンを呼ぶ声がした。彼はそちらに振り返り、手を上げて答えた。

「悪い、ちょっと行って来る」

「ええ。では報告書の件、よろしくお願いしますね」

「……分かってるよ、うるせえ奴だな」

 歯を剥き出して唸り、ジョンがメアリーの元へ向かおうと足を踏み出した時、ふと湧いた疑問を投げ掛けた。


「なあ、『特異点』――って、なんだか知ってるか?」


 メアリー――『特異点』。大悪魔が真に求めたモノ。


 その言葉を耳にしたジャンヌは、

「――――知りません」

 ただ一言、毅然としてそう言った。


「……そう、か。じゃあいいんだ」

 今度こそ、ジョンがメアリーへと振り返った時、今度はジャンヌが彼を呼び止めた。

「待ってください、ジョン。その言葉、一体どこで聞いたのですか」

「…………」ジョンは、ジャンヌの方へ顔を向けずに答える。「ベルゼブブからだよ。ソレを探しているって、あいつは言ってた」

 ジョンは嘘をついた。そこに理由はなかった。ただ直感が、そのように口にさせた。

 ジョンはそのままメアリーへと真っ直ぐに足を進めた。途中、チラリとジャンヌに振り返る。彼女は思案顔で俯いたままだった。


「ジャックと一緒に皆を助けてくれた人だよ」

 やって来たジョンの手を取り、メアリーは家族の前へと引いていく。不安や憂いのない彼女の、その屈託のない笑顔は、見ているこちらも晴々とした気持ちにさせてくれる。

「一体、どんな名前だと思う?」

 メアリーが何を言いたいのか理解し、ジョンは実に苦そうな笑みを浮かべる。傍で見守るジャネット達が、それを可笑しそうに指差した。


「ホームズだよ。ジョン・シャーロック・ホームズ! あのシャーロック・ホームズの子供なんだって!」

 首を傾げて顔を見合わせていた子供達の表情が、ジョンの名を聞いた途端、まるで花火のように明るく咲いた。


「マジで!」「すげえ!」「ホームズだって!」「すっげー!」「すごい!」「すっげえ!」

 口々に叫ばれる嬉々とした声に、ジョンは明らかに戸惑っていた。子供達はシャーロック・ホームズの逸話が好きだと、確かメアリーは言っていた。それは本当だったようだ。


「ありがとう、ホームズ!」

「ジャックといっしょに!」

「わるいやつ、やっつけた!」


 ――「わるいやつ」。ジョンの耳に飛び込んで来たその言葉に、彼はおかしな光景を視る。

 湯気立つ暖かなスープを手にし、微笑む子供達。それを配る『ママ』――内に潜むベルゼブブが浮かべる小さな、その――――

 思い出す。――「だが奴らは考えない。何故そんな事をしなければならかったのか、想像すらしない――ッ!」。強く自分に指を突き付ける、彼の姿を思い出す。その言葉に込められた炎のような怒りを思い出す。


「あいつが、」ジョンは思わず口を開いていた。「『ママ』がくれたご飯は、美味しかったか?」


 突然の質問に、子供達がキョトンと固まった。ジャネット達もジョンが何を言おうとしているのか分からず、眉をひそめた。


「……美味しかったよ」メアリーが、その口元に小さな微笑みを湛えながら、「何より温かくて、すごくホッとしたのを覚えてる……」

「……あいつは君らを裏切った。それは確かだ。けれどあいつがいなかったら、君らがどうなっていたか分からない」


 決して、彼を庇っている訳ではない。許される筈もない。

 けれど、ジョンは彼に向けられた怒りが忘れられない。それを蔑ろにする事が、どうしてもジョンには出来なかった。


「結果は変わらなかった。最後は結局、あいつは君らを裏切っただろう。だから、君らはあいつを憎んでいい、恨んでいい。それは当たり前だ」

 ジョンは言葉を探した。自分が何を言いたいのか、彼らに何を伝えたいのか。

「だけど、あいつが君らを救ったという点は、紛れもない事実だ」


「ジョン!」

 ジャネットの厳しい声が劈いた。それはそうだろう。ジョンは瞳を閉じて、彼女へ振り向く事なく言葉を続けた。


 ベルゼブブ、大悪魔、地獄。悪辣、悪性、その頂き。――分かっている。全て分かっている。それでも彼がいなければ、今この場にいる子供達は誰一人としていなかったかも知れないのだ。

 誰かが欠けていれば、子供達が笑う事はなかった。寒々とした街の片隅で、それこそゴミのように死んでいた。ジャックはそれを防ぎたかった、助けたかった。だから子供達を集めて徒党を組み、互いに助け合う「家族」を作り上げた。

そこに混ざった『特異点』に、大悪魔は目を付けた。「人形」を介して彼らに近付き、取り込み、悪事を企てた。

 たった少しの気の迷いだろう。それでも、子供達の笑顔を見、ふと浮かべる小さな微笑みがあったかも知れない。

 ……全て妄想と切り捨てる事だって出来る。しかしジョンは自分の中に視た光景に、首を振る事が出来なかった。


「君らを裏切り、傷付けようとしたあいつを、君らは憎んでいい、恨んでいい。だけど一度だけでいい、一言――『ありがとう』と口にして欲しい」

 子供達は、やはり困惑した様子で固まっていた。結局、自分達は悪魔をどう思えばいいのか。それが分からないようだった。


 ジョンはそんな子供達を見て、申し訳なさそうに苦笑した。

「悪い、良く分からない事を言ったかも知れないな。……今すぐじゃなくていい。僕の言葉から、何かを感じ取ってくれる日が来てくれたら、それだけで十分だ」

 曖昧なままでいい、答えを今すぐに見出さなくていい。ジョンは結局、子供達に解釈を委ねた。ベルゼブブをどう思うかは、彼らの心次第だ。


「……あくまは、わるいやつなんだよね?」

 子供達は恐る恐ると、ジョンへ問い掛ける。そこまで混乱させてしまったか……と、悔やみながらも彼は頷いた。


「じゃあ、ジャックも、わるいやつなの?」


「――――」

 ジョンは、そしてメアリーは虚を衝かれて固まった。


 子供達の仲に渦巻く困惑。その渦の中心にあるのは、その疑問だった。

 悪魔が悪だと言うのなら、自分達は、そして自分達を救ってくれた兄はどうなるのか。


「――ああ、そうだ」

 ジョンの言葉に、虚を衝かれるのは子供達の番だった。

「理由はどうあれ、あいつは人を殺した。それはどうしようもない事実だ。例え殺した奴が悪人であれ、あいつは償い切れない罪を犯した」


 子供達の顔がみるみる青褪めていく。彼らへの思い遣りから嘘をつく事は容易いが、ジョンはそうしなかった。かつて父はどんな相手にも対等に耳を傾け、口を開いた。そんな彼の姿を、ジョンはずっと見て来た。


「だけど、」だからジョンは、自分の想いを包み隠さず言葉にする。「お前らはあいつの事を誇りに思っていい。周りが何をどう言おうと、お前らは胸を張って、あいつを称えるべきだ」

 罪を犯した。許されない事をした。――だからどうした? あいつは家族を守る為に懸命に戦い、そしてそれを貫いた。その姿のどこに恥ずべきところがあると言うのか。

「あいつは僕の出会った中で最も偉大な人間の一人だ。迷う事なくそう断言出来るよ。それをあーだこーだ文句言う奴がいたら、僕はそいつを殴り飛ばしてやる」

 ジョンは右手の拳を掲げて見せる。その姿に、子供達は少しだけ笑って、

「ジャックは、すごい?」

「当たり前だろ」

 即座に返って来た答えに、子供達はようやく安堵したかのように笑う。


「ジャックは、わたしにとって、ずっと前から天使なんだ」メアリーは呟くように言う。「わたしを、皆を助けてくれたのは、いつだってあの子だった。人一倍苦しい思いをしているのに、あの子はそんな様子を見せずにいつも笑ってくれた。……ジャックは悪魔なんかじゃない。わたしの、皆の、天使だよ」

 子供達がワッと声を上げる。


 そう、彼らが兄を語る時に後ろ暗い気持ちがあってはいけない。ジャックが悪事を為し、法を犯し、間違った選択をした事は紛れもない事実だ。ジョンだってそれをはき違えてはいない。けれど子供達にとって、ジャックは最も身近にいるヒーローだ。英雄の周りには、笑顔だけがあるべきだ。

 かつてシャーロック・ホームズの周囲がそうであったように。


「……君が何を考えているかは分からないけど、」ジョンの肩に手が置かれる。首だけ振り返ると、ヴィクターが彼に声を掛けていた。「今ここでこの子達がこうして笑えているのは、君の力があったからだよ、ジョン」

「……ハッ」ジョンは空を仰ぎ、ヴィクターの言葉に皮肉めいた笑みを浮かべる。「お前に気を使われるなんて、僕も焼きが回ったかな」


 それが照れ隠しなのか、ただの嫌味なのか。どちらにせよ「相変わらずだなあ」と、ヴィクターは肩を竦めた。

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