12-3.
売り言葉に買い言葉。何度見たか分からない景色の中、「さて、どうしよう」とヴィクターが冷や汗を額に浮かべて二人の間に入ろうとした時、バンッ! と大きな音を立てて、部屋の戸が開け放たれた。
「何してんのよクソガキ共! いい加減にしなさいよ! いい大人がいつまでも子供みたいな事してんじゃないって、どれだけ言ったら理解するのッッッ!」
ジュネの怒号が響き渡る。いつも以上に気合の入った迫力満点のその大声に、ジョンもジャネットも大いに面食らった。
「バカじゃないの。ねえ、いい加減にしてよ。私達がどれだけ心配したと思ってるのよ、ジョン」
涙目でそう語るジュネの姿に、ジョンは何も言えなくなって、気まずそうに目を逸らした。
そんな彼の前にジュネは詰め寄ると、思い切り彼の頬を平手打ちした。そして「痛ってえ!」と悲鳴を上げる彼を見ながら、
「お帰りなさい、おバカさん」
「――ジュ、ネ」
ジュネの零した言葉に、ジョンは頬を押さえながら声を詰まらせた。
ボロボロになって帰って来るジョンを、その言葉で迎えるのは、いつもジェーンだった。
「ホラ、ジャネット。ジョンに言わなきゃいけない事があるんでしょ」
呆然と立ち尽くすジョンに鼻を鳴らし、ジュネはジャネットに振り返った。
ジャネットは「えっ」と体を硬くし、露骨に狼狽えた。そのまま顔を赤くして動かなくなった彼女の背中を、ジュネがジョンに向けてグイと押す。
ジョンの顔を目の前にし、しかしジャネットは口をパクパクと動かすだけで声を出せない。先程まで睨み合っていた癖に、「どうしたんだ」とジョンが眉をひそめる。
「ジャネット」ヴィクターの静かな声が響いた。「ちゃんと言葉にしないと、伝えられないものがあると、知ったろう」
ジャネットがハッと息を呑み、ヴィクターを見た。その視線を受け止め、彼はただ頷きを返した。
そんな二人を見て、更にジョンは眉を寄せて首を傾げる。
意を決したようにジャネットが顔を上げ、ジョンの瞳を真っ直ぐに見詰めた。
「あた、アタシ……、ジョンにあや、あやま、り……」
しかしますます顔は赤くなり、声も尻すぼみに小さくなる。ジャネットは、自分自身でも何故ここまで恥ずかしくなるのか分からなかった。
思えば、ジョンとは喧嘩ばかりして来た。自分の気持ちを伝えようとしたのに、いつの間にか彼を煽ったりなじったりと、つい暴力的になってしまう。控え目に言えば照れ隠しだが、それを受け止める方も受け止める方なので、すぐに喧嘩になってしまう。結局何を伝えたかったのかすらうやむやになってしまい、後悔ばかりする。
そんな事を繰り返して泣いているジャネットの頭を撫でて宥めてくれた、いつだって傍に居てくれた掛け替えのない妹。
ダメダメなお姉ちゃんでごめんね。貴女が危ない時に、傍にいてあげられなくてごめんなさい。ボロボロの体で、けれど帰って来てくれた妹に告げた言葉。
いつか、いつか、いつか――。いつの日か返そうと思っていた。助けられてばかりだった自分が、彼女の為に何か恩返しをする時が来ると思っていた。
友達に真面目な話をするのは照れ臭い。真剣な顔を向けるのは恥ずかしい。頑張っている姿を見つかるのは嫌だ。ただの恰好付け――、臆病さを隠す為の取り繕い。自分の弱さを曝け出す事の出来ない心の弱さ。
泣いてばかりいる癖に、何を今更。ジャネットは誤魔化そうとする自分に平手打ちを決め、キッと視線を上げた。
頬は紅潮し、それは耳まで及んでいるだろう。目は零れ落ちそうな涙を湛えたままだ。あまりにも情けない顔をしている。ジャネットはそれを自覚しながらも、震える唇を開く。
「アタシ、ジョンに、酷い事を言ったわ。だから……、謝りたくて、その……」
ジョンは少し口を開いて何かを言おうとしたが、しかし口を閉じた。彼女の言葉をちゃんと受け止めるのが、自分が出来る一番の誠意だと思い直した。
「だけど――、あの言葉は、嘘じゃないの」
ヴィクターとジュネが息を呑む。ジャネットは怯えるように目を伏せた。しかし、ジョンは黙ったまま頷いた。
「嘘じゃないけど、でも、本当じゃない。父さんとシャーロックが死んじゃって、ジェーンの事は悲しいけど、それでもジョン、アンタが帰って来てくれたのは、本当に、嬉しかった……」
ジャネットは一歩前に進み、ジョンの胸に縋り付くようにした。
「良かった、本当に……良かった。帰って来てくれた。ジョン、ごめんなさい……。嬉しい、良かった、ありがとう、ごめんなさい。良かった、無事で、良かった。おかえり、ジョン。ごめんなさい、ありがとう、嬉しい……、ごめんなさい……」
最後は支離滅裂で、ジャネットは感情に突き動かされるままに言葉と涙を零し続けた。
ジョンは困ったように苦笑していたが、ジャネットを突き放す事なく、落ち着くまで彼女の背中に手を回していた。
「……お前は正しいよ、ジャネット」ジャネットの肩に顎を置き、ジョンは彼女の耳元で言葉を紡ぐ。「お前の感情は正しいよ。僕はお前の大切なものを奪った、それは紛れもない事実だ」
ジャネットは激しく首を振った。顔にぶつかる彼女の髪に、「痛てえなあ」とジョンは笑う。
「僕は弱い。結局、最後の最後も親父達に僕は守られた」遠い昔の約束を心の中で口遊みながら、ジョンは続ける。「僕は自分の弱さとあの三人から逃げ続けた。お前にそんな不甲斐ない姿を見せて、失望させてしまった」
ジョンは歯を食い縛る。思い出す自身の情けない姿に、自分で自分を殴りたくなった。
「僕は誰よりも何よりも、お前にまず謝らなければならなかったのに、こんなに遅くなってしまった。――ジャネット、ごめん」
ジョンは力一杯彼女を抱き締めた。ジャネットはどこか呆然とした様子で、されるがままになっていた。
「済まない、ジャネット。だけどもう負けないから。二度と同じ失敗はしないから。お前から誰も奪わせない。絶対、皆を、守って見せるから」
「……約束、だよ?」
「ハッ。……そうだな、約束だ」
ジャネットの言葉に、ジョンは挑むように歯を見せた。その笑顔に、ジャネットは頷いた。
「じゃあ、アタシも約束。ジョンが皆を護るなら、アタシはアンタを守って見せる」
彼女が自身に課したいつかの誓い。それを口にするのは、初めてだった。
ジョンがまた笑い、バシバシとジャネットの背中を叩いた。
「応。じゃあ、背中は任せる。頼んだぜ」
ジョンにとって「シャーロック」が目標ならば、ジャネットにとっては「ジョン」が常に追い掛けるべき相手だった。
遠い背中。今だって、手の届かない距離に彼はいる。自分が彼に届く日が来るのかと疑いながら、それでも絶対に足は止めない。止めたりしない。
ジョンの言葉は、ジャネットが一番聞きたかった言葉。憧れの人からの信頼。
「うん、頑張る。アタシ、頑張るから……!」
ジャネットは涙混じりの笑顔で、ジョンを抱き締め返す。零れる涙でシャツが濡れていくけれど、ジョンは「やっぱりこいつは泣き虫だなあ」と笑うだけだった。
「……いつまで抱き合ってんのよ、
やがて低い声が響いた。ジュネだった。まるで機嫌の悪い子犬が威嚇するような目付きで、ジョンとジャネットを睨み付けていた。
指摘され、ハッとなったジョンとジャネットは同時に離れ、気恥ずかしそうに互いにそっぽを向く。その様を指差し、ヴィクターが揶揄する。
「なんだよ! そのまま二人でベッド
ジャネットに因って投げ飛ばされた本の背表紙がヴィクターの顔にダイブインし、彼を仰向けに引っ繰り返した。
「うるさいわよ! 聖職者になんて事言うの!」
「聖職者なら聖書を他人に投げ付けるんじゃないよ!」
恥辱と怒りだろうか。顔を赤くしたまま怒鳴るジャネットと抗議するヴィクターとを眺め、ジョンが口を開いて笑おうとして、
「――フフッ」
ふと、耳元で笑い声がした。
それは、その声は、
忘れようもない、忘れる筈もない、
いつだってそうだった。いつもそうだった。
ジョンとジャネットが喧嘩して、
それをジェーンとジュネが仲裁し、
そしてヴィクターが茶々を入れて、ひんしゅくを買う。
そんないつも通りの茶番。いつも繰り返される当たり前の日常。
それを見て、いつも、彼女は笑うんだ。楽しそうに、嬉しそうに。
目の前にある当たり前の光景が、掛け替えのないものだと言うように。
ジョンは振り返る。彼女の声に振り返る。
いつもそこにいる彼女の笑顔に振り返る。
――――けれど、そこに誰かがいる筈もなくて。
それでも、ジョンは笑った。そこに居なくても、いつでも彼女は傍にいる。
ジョンにとってジェーンは掛け替えのない存在で、
ジョンの「世界」にとってなくてはならない存在で、
それは、例えジャネットだろうとシャーロックだろうとワトソンだろうと同じで、
勿論、ヴィクターだってジュネだって同じで、
あの憎たらしいジャンヌやハリーも加わって、
今やメアリーやジャックだって、彼の「世界」の内に入っていて、
「……ああ、そうか」
ジョンは誰にも聞こえない声で呟いた。
――「貴方にそんな事、出来る訳ないじゃない」。
「……ああ、そうだね」
――「だって貴方はいつだって、皆を守ろうとする癖に――――」。
いつの間にか、護りたい人しか周りにはいなくなっていた。
自分みたいな糞っ垂れの傍に居続けてくれたから、護りたいのかな。
いや違う。そんな保守的な願いじゃない。
……幾ら祈っても、神が僕に答えてくれた事はない。
何度身が裂ける程に叫ぼうが、それこそ貴方はお構いなしなのだろう?
ならば、最早貴方に捧げる言葉はない。
僕の「世界」は僕が創る。そこに「悲しみ」や「涙」など要らない。
僕は皆の浮かべる笑顔が好きなんだ。それを出来る限り末永く――――。
ジョンは自分の手の平を見詰める。傷だらけで、筋肉質でゴツゴツとした、けれどちっぽけな手の平から零れ落ちた大切なモノを想う。
誰かを護る為に求めたチカラ。たった一晩の内に失ってしまったその願い。
もう一度を願う事は傲慢だろうか。もう二度とを誓う事は強欲だろうか。
「……知るかよ、糞っ垂れ」
父は、僕に「お前は黒い羊だ」と語った。
信者達は
哀れ、贄と捧げられる力なき羊達。信仰心だけを胸に置き、羊飼いの後に群れる羊達。
……その中で一際目立ち、「悪」や「死」、「災厄」に染まった黒羊であれと、父は僕に語った。
僕が在る所に悪魔が現れ、狙われ、奪われる為に在れと、父はそう言ったのだ。
その言葉の意味や理由は分からない。今に至ってもその言葉に不可解さしか持ち得ない。
僕は、この世にあってはならない形を強いられた。
きっとこの先も、僕の周りでは奴らが蔓延るだろう。『十字架』という特異性を示した今、もしかしたら、これまで以上に奴らと接敵する機会が増えるかも知れない。
そうだとしても、僕に出来る事はただ一つ。
「……戦うだけだ。今度こそ、奪わせないために」
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