12-1.
「――嗚呼」
ジョンは小さく嗚咽のような声を上げて、目を開ける。良く見知った天井がそこにはあった。
ヴィクターの部屋のベッドに寝転んだまま、ジョンは右腕を上げる。筋肉痛の鈍い痛みを感じながら、何度か拳を作っては広げるを繰り返す。
その内にシャツの袖がずり落ち、手首にある「聖痕」が顔を覗かせた。出血の跡はなく、赤黒い傷だけが何事もなかったかのようにそこにある。
……生き残った、生き延びた。静かにその事実を認識すると、ジョンは大きく嘆息した。
あの『十字架』のチカラが働いていたからだろうか、外傷はほとんどない。酷い筋肉痛が全身を蝕んでいるが、他に異常は見られない。あるとすれば倦怠感などの心理的なものだった。ジョンは起き上がり、自分の体を一通り確認した。
ふと、ジョンは傍らにジャネットがいる事に気付いた。彼女は自分の腕を枕にしてマットレスに突っ伏し、静かな寝息を立てていた。その様子を見、ジョンの顔に安堵したような笑みが浮かんだ。
やがて奥の部屋のドアが開き、ヴィクターが姿を現した。紅茶の入ったカップを片手に、起き上がったジョンの姿を認めると、ニヤリとしたり顔で笑った。
「おはよう、ホームズ。それで、今回はどんな無茶をしたのかな?」
「うるせえよ、ジュニア。僕をその姓で呼んだら殺すと、いつも言っているだろうが」
ジョンが牙を剥き出して、凶悪な笑みを浮かべる。お互いを睨み合いながら、やがて両者とも肩を竦めた。
「いやいや、息災で何よりだ。心配していたのは本当だよ。何しろ、君は今まで三日間も寝ていたんだからね」
「なんだと、マジか……?」
椅子に腰掛けながらそう宣うヴィクターの言葉に、ジョンも流石に困惑した。
「そうだよ。外傷はない癖に意識を戻さないから、何が原因なのかと手を拱いていたところさ。……まあ、ボクが君よりも手を焼いたのは、ジャネットの方だったけれどね。君が一向に目を覚まさないから、彼女は泣いたり喚いたりと不安定でしょうがなかったよ」
「……こいつはなあ、」ジョンはジャネットに目を向ける。「口は強いし、うるせえし、性格もキツいんだが、昔っから泣き虫なんだ。負けず嫌いが高じて、つい余計な事まで言っちまって、結局後悔して一人で泣いてるっつーただのバカ女だよ」
ジョンはジャネットの髪に触れ、指に巻き付けて弄びながら、続ける。
「それを宥めるのは、いつもジェーンだった。泣いているジャネットの背中を擦りながら、励まし続けるジェーンの姿を、何度見たか分からない」
勝気で負けず嫌いで猪突猛進な姉と、控えめで大人しく、周囲に気を配ってばかりの妹。まるで正反対。それで成立する、鏡のような姉妹。二人で一人、手を取り合って並ぶ双子。
「ジェーンとジャネットは、すごく……すごく良い姉妹だった、双子だった。僕は二人が一緒にいるところが……、一緒にいる姿が、すごく、好きだった……」
「ジョン……」
ジョンは両手に拳を握って震えていた。彼がギリッと歯を噛む音に、ヴィクターが悼むような目を向ける。
彼女らが励まし合う姿。それは今や違う意味になってしまった。病床の妹と、それを看る姉。妹は恐らく一生病院から出られず、姉はその姿を見詰める事になるだろう。
「それを奪ったのが、僕だ。ジェーンを守れなかった。それどころか、僕は最後の最後に彼女に助けられた」
その言葉に、ヴィクターが敏感に反応した。
「ジョン、もしかして、思い出したのか……!」
ジョンは顔を上げ、ヴィクターに向かって頷いた。
「……思い出した。僕はただ逃げていただけなんだ。あの日の夜を覚えているのが辛いから、思い出さないように逃げたんだ」
そう呟くジョンの瞳の中に、ヴィクターは何かを見出そうとした。
彼の瞳の中には悲愴ではなく、強い怒り。自分の不甲斐なさと無力さ、そして自分の恩人達を奪っていった敵に対する烈火のような憤怒。
ヴィクターは――その炎を見て、むしろ安堵した。ジョンはもう大丈夫だと安心した。
ジョンは「あの日」の顛末をヴィクターに聞かせる。その話を聞きながら、ヴィクターの顔は段々と険しくなっていった。
彼の中では、ある疑惑が雲のように立ち込めていた。だが、それを口にするのは憚られた。仲間を疑うことは、ジョンにとっての禁忌だ。ようやく自分を取り戻した彼に聞かせてはならないと、直感的にそう思ったヴィクターは、やがて口を噤むことを選んだ。その選択の果てに待つ孤独を知らずに――――。
ヴィクターは見えない未来よりも、目の前にある今を見据えていた。シャーロックとワトソン、そしてジェーンの悲劇の後、ジョンは消えかけの炎のように弱々しかった。ふと目を離した隙に、そこからいなくなってしまうような漠然とした不安を、感じずにはいられなかった。日に日に希薄になっていく彼の存在感に危機感を抱いていた頃に、やって来たのがメアリーという小さな少女だった。
「そう言えば、メアリーは?」
不安そうな声を上げ、ジョンは周囲に目を運ばせる。ヴィクターは手を上げて、
「ああ、彼女は今、警察庁だよ。切り裂きジャック事件の重要参考人として、取り調べを受けている最中さ」
「あいつは何も悪い事していないだろうが……!」
「いや、そう言う意味じゃない」憤りを顔に見せたジョンを抑えようと、ヴィクターは平手を彼に向けながら、「彼女を犯人としている訳じゃない。警察は事件の詳細を知りたいだけだ。彼女自身も警察からの申し出を快諾していた」
ヴィクターは笑って、続ける。
「それにしても、あの子は強いね。自分も何か悲しみを抱えているようだけど、それを度外視してジャネットを励ましていたよ」
「……嗚呼」ジョンは嗚咽のように呻いて、「……そうだな。あいつも、ジェーンみたいに何か見えない芯の強さを持っているよ」
ジョンは再びジャネットに視線を落とし、彼女が眠っている事を確認してから、どこか意を決したようにヴィクターを見た。
「ヴィクター、僕さ、あの日、ジェーンに告白したんだ」
「――――」
ヴィクターはジョンの言葉に面食らったかのように、口をへの字に曲げた。同時に視界の隅で、ジャネットの体がピクッと小さく跳び上がるのを見逃さなかった。
「……驚いたな。それもさっき言っていた通り、思い出したのかい」
そうだと頷くジョンのどことなく暗い面持ちに、何か嫌な予感を抱きながら、しかし聞き逃すまいとヴィクターは居住まいを正した。チラリとジャネットの様子を伺うが、そのままの姿勢で動かないので、どうやら気のせいだったようだ。
「それで、ジェーンからの返事は……?」
ヴィクターは半ば答えの分かっている問いを放つ。だから、むしろ疑問だったのはジョンの告白に対するジェーンの返答ではなく、それを口にしようとするジョンのあまりにも暗い表情だった。
俯くジョンは自嘲するように――、涙を堪えるかのように失笑して、
「笑われたよ。僕の告白を笑って……、それだけだ。僕はその後に、何も言えなかった」
「…………え。いや、そんな、いや、あ……あれ……?」
ヴィクターは再び面喰らい、そして言葉を失った。口元を手で覆って、ジョンの言葉を何かを間違いではないかと疑ってしまった。
ジェーンがジョンの言葉を笑った――笑い飛ばした……? 彼女がそんな事をする筈がない。彼女だって彼の事を想っていた筈だ。ボクはそうだとばかり勘繰っていたが、まさか全て勘違いだったのか?
ヴィクターの中の記憶はしかし、否定する。ジョンの背中を見詰めるジェーンの瞳は、だって――。
「ジョン、君は、ジェーンになんて言ったんだい」
ヴィクターは鳥肌の止まらない自らの腕を強く掴む。何かとてつもない間違いが転がっているような、そんな悪い予感。
ジョンは深く息を吐いてから、ヴィクターに答えた。
「君だけを守る。君だけは絶対に守って見せるって、そう言ったんだ」
「それを、彼女は笑ったのかい……?」
「……ああ。そんな事、出来る訳がないって言って、笑ったよ」
「――――」
「僕はその次の日、最後の『聖痕』を打たれ、あとは『十字架』を呼び出すだけだった。けれど失敗した。それが原因で、親父は、ワトソンは、ジェーンは――」
嗚呼――。ヴィクターは顔を手で覆った。それは、それは、それは――、
「ジョン」
俯いたまま自分を呼ぶヴィクターの声に、ジョンは眉を寄せた。彼の声は震えていて、今にも泣き出しそうなほど悲壮感に満ちていた。
「どうして、君は……、君って奴は……嗚呼」
最後の呻きは嗚咽に近かった。「分かった」、「分かったよ」と繰り返し呟くヴィクターの姿に、ジョンの眉を更に寄せる。
「……なんだよ、えッ? どうしたんだよ」
今度はヴィクターが深く溜め息をつく。俯き、頭を抱えたまま、彼が口を開いた。
「君にジェーンだけを守れる訳がないじゃないか」
「――――」
ジョンの頭の中は一瞬で真っ白になった。思わず体を起こしてヴィクターに飛び掛かろうとした時、彼が顔を上げた。
「君がジェーンただ一人を守れる訳がない。
だって君はいつだって、皆を助けようとするじゃないか……!」
涙を流しながらそう零すヴィクターの言葉に、ジョンは口をポカンと開けた。
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