11.

 目を開いたジョンの視界に映ったのは、満天の星空――ではなく、何か柔らかそうな二つの球体だった。


「あァ……?」

 胡乱な声を上げるジョンに気付き、クスクスと零される笑み。

「もう、ジョンったら、またワタシの下乳に見惚れているの?」

「――!?」

 ジェーンだった。ジョンは、自分が彼女の膝を枕にして寝ているのだと気付いた。そんな姿勢で目を開けたものだから、彼女の豊満な胸を下から見上げていたのだ。


「動かないで。まだ寝てていいのよ」

「…………」

 ジェーンの手で胸を押さえられ、ジョンはそのままの体勢を強いられた。しかし目の前に彼女の女性的な部分が迫っているという状況に、落ち着ける筈もなかった。ジョンは顔が熱くなっていくのを感じながら、強く目を瞑って聖書の一説を小声で諳んじる。

 彼のそんな様子を、またもジェーンはクスクスと笑った。


 いつも通りだった。シャーロックとの稽古は、ジョンが殴られ、蹴られ、飛ばされ、そうして気絶するまで続く。そして目が覚めた時、彼の目の前にはいつもジェーンの姿があった。


 そこは雄大な絶壁の上にそびえ立つ、要塞としての機能を持つとある城だった。周囲に遮るもののない星空は綺麗で、空に吸い込まれそうな錯覚すら覚える。


 星座を指で探すジェーンに抱えられながら、しかしジョンは未だに目を開けられない。幾許かの落ち着きを取り戻した時、「おや」とジョンは気付く。

 そっと立ち上がり、ジョンは自分の恰好を確かめる。黒いモッズコートに白いワイシャツ。黒いネクタイに黒のスラックス。いつも通りの服装だった。

 ジョンは振り返る。その視線の先でジェーンが「どうしたの」と首を傾げていた。


 また――夢を見ている。パブの後日と同じだ。ジョンはそれに気付きながらも、確かに目の前に立つ愛しい人の存在に胸を打たれた。


 ジェーンはあの夜と同じ修道服姿だった。白のトゥニカと黒のスカラプニオに加え、普段なら頭巾も被っているが、あの時は被っていなかった。だから月の光に彼女の伸ばした金髪が照らされて、とても美しかった事をジョンは覚えていた。


 これが、夢であるのなら。ジョンの中に、いっそ卑怯とも言える思いが芽生えた。現実とは違う答えを求めて、あの言葉をもう一度繰り返そうとしている。あの時とは違う言葉を求めていた。そしてそれを、彼は止める事が出来なかった。


「ジェーン」

 ジョンは彼女の名を呼んだ。星空を見上げるジェーンは、ジョンに目を向ける。彼の表情が緊張している事に、少し不思議そうに首を傾げながら。

「なあに、どうしたの?」

「僕は……、」ジョンは口を開き、しかしどこか後ろめたそうに視線を落とした。「僕は、君を傷付けてばかり来た」


 ジェーンはその言葉に、少し憂うような顔をして、自分の右肩に触れた。幼い頃に受けた刃物に因る深い傷が、そこから背を縦断するように走っている。


「別に……、貴方の所為じゃないわ、ジョン」

 ジェーンが小さく浮かべる切ない微笑みは、ジョンの胸を焦がした。彼は一歩前に出て、より熱を帯びた声を上げた。

「僕は弱い――それが許せなくて、ずっと鍛錬してきた。少しでも強くなる為に。誰かを守れるようになる為に」

「うん、知ってる。ジョンが頑張っているところ、ずっと見てたから」


 ジェーンはいつだってジョンの傍にいた。彼が傷付くところも笑っているところも、泣いているところだって、ずっと見て来た。ずっとずっと一緒だった。

 傍にジェーンがいる事に、ジョンがどれだけ救われたか、それは言葉で言い表せない。


「まだ親父には遠く及ばない。忌々しいけれど、それは事実だ」ジョンは意を決したように顔を上げた。「だけど、大切な人を一人くらいなら、守れるだけの力は手に入れたと自負している」

「ジョン……?」

 言葉の意を計りかねて、ジェーンは再び首を傾げた。


 ジョンは更に前に出た。頬は幾らか赤らんでいた。自分には似合わない台詞を吐こうとしている。けれど、伝えたいから言葉にするのだ。それが例え夢の中であったとしても、その思いは変わらない。


「それなら僕は、君を守りたい。ジェーン――君だけは、絶対に守って見せる」


 ジョンは自分の感情を言葉にするのが苦手だった。自分の内情を吐露する事が極端に下手だった。幾ら苦しかろうと、幾ら嬉しかろうと、幾ら悲しかろうと、全て怒りや苛立ちに似た行為に寄せて誤魔化してしまう。

 そんな事をずっと繰り返し来た男が、恋焦がれる相手に伝える精一杯の「告白」だった。


 ジェーンはキョトンとした顔をして、黙ってジョンを見詰め返していた。

 彼女からの答えは、ジョンは一度聞いている。だがこれは夢だ。彼は現実とは違う返答を求めていた。


 それは単なる「逃げ」であり、何も生み出す事のない虚妄であったとしても、彼はどうしても違う答えが聞きたかった。


 そしてジェーンは、ジョンの告白を受けたジェーンは口元に手を運んで、フフッと小さく笑った。

「もう、何を言っているのよ、ジョン」

 ジェーンは――笑った。ジョンの告白を笑って返した。


「貴方にそんな事、出来るわけないじゃない――――」


 その答えの中に、悪意などある筈もなく。ただ純粋に、真意を以ってジェーンはその言葉を答えとした。

 夢の中であってもその返答は現実と変わらなかった。彼女は彼に想いに、確かにそう答えたのだ。


 ジョンはその後の出来事を「良く覚えていない」と周囲に伝えていたが、それは正確には間違いだ。「覚えていない」のではなく、「思い出したくなかった」だけだ。


 ジョンは告白をジェーンから微笑と共に返された翌日、そのショックを拭い切れないまま、シャーロックとワトソンから最後の「聖痕」を刻まれた。それは「聖槍」による胸の傷。心臓を避け、肋骨の下から肺を貫き、背中にまで達する一刺し。「彼の人」が受けた最後の傷の模倣。

 恐らく今までに受けた「聖痕」の中で最も衝撃が大きいだろうと、シャーロックはジョンに伝えた。どこか胡乱な自分を叱咤する父の声を、ジョンは覚えていた。それでも「聖槍」に刺される激痛と、魂が変質する言いようのない不快感に堪え切った。


 しかし、障害はその後にあった。


 全ての「聖痕」を打ち込まれたジョンは、『十字架』の顕現を実行した。その『十字架』こそがシャーロックとワトソンが求めたモノ。実の息子を傷付けて来たのは、ひとえにその「聖遺物」を手にする為だった。

 一言で言えば、ジョンは失敗した。「肉体」から「魂」を分離する過程で、その両者を繋ぐ「精神」が瓦解したのだ。


 そして、そのタイミングを図ったかのように現れたのが、大悪魔ベルゼブブだった。


「何故ッ、今ッ、ベルゼブブ……!」

「契約を果たしに来たぞ――――」


 応戦したのはシャーロック――ではなく、ワトソンだった。「音」を行使して悪魔祓いを行う彼は、その特性上、後方からの支援を担う事が多かった。だからと言って前線に出て戦えない訳ではない。

 しかし、あくまでも「人間」であるワトソンが、悪魔の最たる存在である「大悪魔」に挑むのは分が悪かったと言わざるを得なかった。


「――ワトソンッ!」


 髑髏の杖に胸を潰されたワトソンが、血を吐いて倒れる。その様にシャーロックが叫んだ。彼のそんな鬼気迫る声を、ジョンはこれまでに聞いた事がない。


 シャーロックは、ジョンの体から離れようとする「魂」を戻す為に手を費やしていた。彼がベルゼブブに立ち向かわなった理由はそれで、「霊体」を直接触れられる者は、この場に彼しかいなかったのだ。

  シャーロックはジョンから離れられない。けれど敵は悠然と杖をかざして向かって来る。

 半ば死体同然のジョンは、生涯その光景を忘れ得ない。


 ジョンとベルゼブブ、両者の間に割って入ったのは、他でもない、「君だけは守って見せる」と告げた――――


「どけ、女」

 手を広げ、正面から立ち塞がるジェーンに、ベルゼブブは手にする杖を振るった。

 頭部に打ち込まれる打撃。額を打たれ、左目が潰れる。頭蓋の中に埋まるような一撃だった。更なる横振りで右腕がひしゃげて曲がり、衝撃で肋骨が砕け、骨が肺や内臓を串刺しにした。

 まるで人形のように呆気なく。吹き飛んだジェーンは、そのまま動かなくなった。


「――ッああ!」

 最後に、シャーロックが上げた雄叫びを最後に、ジョンはこの先だけは本当に覚えていない。


 息子を救う為に手を尽し、友とその娘の窮地に駆け付けられなかった「英雄」は、そして死んだ。


 ジョンは最後に父の足を引っ張って、彼とその親友を死に追い遣った。

 そして「守る」と誓った筈の愛しい人に命を救われ、生き延びたのだ。――無様にも。

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