9-4.

「ジャック!」

「……おさえて、みんな」

 ジャックに駆け寄ろうとしたメアリーを、周りの子供達が強引に引き戻した。


「なあ、ジャック?」

 朦朧とした足取りで自分に近付いて来たジャックに肩を回し、悪魔はジョンを指差した。

「あいつはお前達を外へと連れ出そうとしている。しかし外には何が待っていると思う? それはお前達を受け入れる筈のない法と社会だ。ジャック、お前は特にな」

 獲物が弱るのを見守り、舌舐めずりする蜘蛛。死の匂いを嗅ぎ取り、肉を貪ろうと飛び回る蠅。そんな姿を、ジョンは幻視した。

「お前は盗みを働いた。多くの人を騙し、たぶらかし、き下ろした。そして何より、お前は自分本位な復讐心のまま、人を殺した。外の連中はお前を許しはしない。きっとお前に重い罰を下す」

 ああ、そうだろう。ジョンは胸中で呟く。切り裂きジャックを社会が許す事はないだろう。例えどんな理由があろうとも、人が人を殺す事は許されない。

 ……例え自分がこの事件に首を突っ込んでいようといなくとも、いつか彼らは警察に尾を掴まれていただろう。多大な犠牲を払った後のどうしようもなく凄惨な結末が待っていた筈だ。

 悪魔は強い怒りを瞳に燃やし、ジョンに再び強く指を突き付けた。


「だが、奴らは考えない。そもそも何故そんな事をしなければならかったのかを、想像すらしない――ッ!」


 ジョンは眉をひそめた。悪魔が放ったその言葉、そこに宿る感情に疑問が行った。

 何故、お前が憤る? その怒りはお前ではなく、子供達が宿すべきものだ。

「おい、糞野郎。お前は何が目的でこの子達に近付いた」

 ジョンがそう言った後に、何故か鳥肌が立った。


 そうだ――、まず真っ先にコレを問い質さねばならなかった。

 悪魔がジャックの肩に手を置いたまま、屹然と立ち上がり、ジョンを見据える。

「――『神ノ国』に至る為に、俺はこの子達にとっての『神』になった」

「な、に……っ?」

 意味の分からない返答に、ジョンは思わず絶句した。


『神ノ国』――それは文字通り「神」がいる場所だ。「天国」の更に向こう側、その扉は「天使」によって守護されていると言う。信仰心のないジョンにとっては大した意味を持たないが、「悪魔」がそれを口にしたと言うならば、話は別だ。

「神」の敵対者たる「悪魔」が『神ノ国』を目指す――。……嫌な予感しかしねえと、ジョンは首を振った。


「お前らはこの子達に何かしたか? この子達の、この場所の、この現実を直視して来たか? ここに逃げ込んだ人間達の事を思い遣ったか?

 ――俺達はずっと見ていたよ、この不幸の温床を。ここに生まれ出でる不穏なる狂気を。やがて、『特異点』となる一人の少女がココに呼ばれた」

 悪魔はチラリと振り返り、子供達に取り押さえられるメアリーに目を向けた。


 ――『特異点』。ヴィクターの部屋に人形に取り憑いた悪魔が放ったその言葉。


「……『特異点』ってのは一体なんなんだ!」

「ハッ!」ジョンの言葉に、悪魔は口を開いて笑った。「お前は何も知らないなあ、ジョン。何も知らない奴に、語る事なんてないんだよ」

 悪魔は、ジャックの肩に置く手に力を籠める。

「――あいつを殺せ、ジャック。お前のチカラを見せてみろ。あいつはお前達を不幸に連れ込もうとしていたんだぞ。お前達はココでいい、ココでしか生きられない。そうだろう、お前達が外に出られる訳がない。ココの住人ですらお前らを拒絶したと言うのに、外の連中がお前らのような子供を受け入れる姿が、お前に想像出来るか?」

 ジャックの手が動き、自分の肩に乗る悪魔の手に触れた。胡乱だった彼の目に、少しずつ力が宿っていく。

「家族を守りたいんだろう、ジャック。俺の指示に従えば、家族の安全は保障する。家を、食事を、金を与える。お前らが欲していたのは、それだろう?」


 祈りが、望みが、願いが通じた。子供達はそう思っただろう。悪魔は確かに、彼らが望んだ物を与えたのだ。

 求めよ、さすれば与えられん。

 探せよ、さすれば見つからん。

 門を叩け、さすれば開かれん。

 その福音の通り、子供達に救いの手が地の底から這い寄った。


 ジャックが上着を脱ぎ捨てると背から腕を生やし、そして広げた。まるで自らを盾として敵の前に立ちはだかるように。

「あんた、オレ達、苦しめる?」

「そんな事はしない……っ! 誓って、絶対に!」

 ジョン自身がそうであっても、社会はどうだろう。その思いが、ジョンの瞳を曇らせ、彷徨わせた。

 その瞳の揺れに、ジャックは少しはにかんだ。どこか喜ぶように、何か諦めたように。

 Thank you――。ジャックの口だけが音もなくそう動くのを、ジョンは確かに見た。

 強い意志を宿した緑と紅の眼。伸びた耳と角。背から生えた六の腕。まさに悪魔的な変貌を遂げた少年の瞳に、迷いはなかった。


「メアリーの為! 皆の為! 家族、守る、オレしかいない……ッ!」


 少年は泣き叫ぶようだった。誰も手を貸さない、誰も耳を傾けない、誰も目をくれない。飢餓と貧困の世界の中で子供達は寄り添い、しかしそれでも誰かが零れ落ちていく。

 少年はそんな光景を何度も、そしてずっと見て来たのだ。世界を変えようと何度も足掻き、けれど力のない子供に出来る事などたかが知れている。

 だから――、手を伸ばした。そうするしかなかった。

 そして――、その手を握ったのは、舌舐めずりする悪魔だった。

 けれど――、彼にはそれで十分だった。十分過ぎたのだ。

 チカラを与えてくれた悪魔は、少年にとっての「神」だった。悪魔であろうが、「天使」だった。「神の子」となった少年は、「ジャック・ザ・リッパー」になった。


「子供達」という狭い「世界」の中で「救い」を与え、

 彼らにとっての「神」となる。

 ――――それは一つの宗教。一つの神。


「子供達に神と、天使を与える。神は俺で、天使はしもべだ。しもべは子供達に成り代わって復讐を果たす。そして俺は――、『神ノ国』へと至るだろう」

 神の教えが人を救い、宗教と成ってそれが広まり、信者の信仰心が神を支える。自身が「神」となり、舞台装置を作り上げ、「神」と同じ地点に立つ事で天使の目を掻い潜り、『神ノ国』の門を開こうとした。

 悪魔は自身の背後に手を回し、背部に取り付けらえた『マリア』と、そこに繋がれた義手を強引に外し、ジャックの目の前に投げて落とした。

 義手の手には刃物が握られていた。ジャックは怪腕でそのナイフを握り締めた。

「もうあの忌々しいシャーロックはいない。それはお前の所為だ、お前のお陰だ、ジョン。身の丈に合わないチカラを背負わされ、お前は父とその友を殺した。……お前には何もない。お前など、恐るるに足らない。

 ――偽悪天使、ジャック・ザ・リッパー。存分に、その刃と共に踊るがいい」

 ジャックが強く地面を蹴って、ジョンに向かって跳び出した。

「ジャック、やめてっっっ!」

 悲鳴のようなメアリーの声を聞いても、彼の速度は一縷たりとも緩まなかった。


 この疾走が、彼の決意の証。ジョンは一瞬だけ目を伏せ、そしてフウッと息を吐いた。

 彼は、彼の守りたいモノの為に全力を出す決意をした。ならばそれに立ち向かう為に、こちらもそれ相応の意思を見せる。ジョンは構え、正面からジャックと対峙する。

 振るわれる怪腕。右背部の三つの腕。上、中、下と分かれた攻撃それぞれが時差を置いて、ジョンの側面を狙って伸びて来る。

 リーチも手数も向こうが上。ならば――と、ジョンはナイフの軌道の内側に入り、正面からの接近戦に持ち込もうとした。その直後、ジャックの意識が腹に集まるのを感じ取った。

 接近されても、腹から伸ばした腕で敵を押さえて串刺しにする。そんな意図を幻視し、ジョンは思わず舌打ちをした。

 近付いても遠のいても対応策を用意出来る。魔人と相手するのは一筋縄ではいかないと、ジョンは改めて痛感する。

 拳を握る。しかし何を考えたところで、結局彼に出来る事はただ一つだけ。


 ジョンが左足を前に出す。ジャックの腹から伸びた腕がジョンの首を、腰を掴む。ジョンの右足が、腰が半時計周りに回転する。左右から牙のように、ジャックの怪腕が迫り来る。踏み込みと回転から発生した力が、ジョンの右肩と集束する。ジャックのナイフの切っ先がジョンの肩に、脇腹に、腰に喰い込む。ただ真っ直ぐ、真実直線に、ジョンが腕を前へと突き出す。皮膚を、肉を破り、ナイフがジョンの体へと埋没する。


 ――決着は一瞬だった。


 穢れなき殺意を宿したジャックを諭す術を、ジョンは持っていなかった。だからその感情を受け入れるしかないと考えた。つまり彼にナイフを避ける気など、初めからなかったのだ。肉を切らせてでも、渾身の一撃で確実に仕留める事にのみ意識を集中させた。そして彼が選び取ったのは、ボクシングに於けるストレート、空手に於ける正拳突き。腰の入ったその拳撃は、体重の約三倍もの衝撃力を与えるとも言われている。ジョンが狙いを定めたのは、勿論ジャックの顔面――、頭部の先端にあたる顎部だった。ジョンはジャックの怪腕に体を掴まれ、突き刺されながらも、それを振り払って理想的な体動を描き、右の拳をジャックの顔に突き込んだ。


「目ェ覚ましやがれクソガキ――ッ!」

 血を散らしながら伸びて来る拳と言葉。それを正面から見詰めながら、ジャックは言葉に出来ない感情に胸を掴まれた。痛い程の、泣きそうな程の、狂おしく愛おしい――――。

 吹っ飛び、背中からドッと倒れて動かなくなったジャックを見、しばらく周囲は静まり返っていた。何が起こったのか明確に理解しているのは、ジョンだけだった。


 やがて悪魔が大きく舌打ちした。その声音に、子供達に怯えが走った。

「ああ、その程度か。これだからガキはダメだ」

 悪魔は一撃で終わるような幕引きを想像していなかったのだろう。彼が零した悪態を聞きながら、しかしジョンは体をナイフで突き刺されたまま、動けなかった。痛みで歪む顔に、汗が滝のように流れていく。やがて膝を折り、上体を立たせたまましゃがみ込んだ。これは……。ジョンは荒い息のまま、左側の腹に手を当てる。深く裂かれた傷口から大量の血が流れていた。

 ジャックに拳を叩き込んだのは良かったが、代償は大き過ぎた。特に脇腹と左の腹の傷が酷かった。左脇腹の刺突は肋骨に阻まれ、そこにヒビを入れるだけで済んだが、右側は肋骨の隙間を縫って肺にまで到達しているだろう。呼吸音に雑音が混じっている事から、ジョンはそう推測した。左側の腹部の裂傷は深いが、内臓までは傷付けていないだろう。しかし出血が酷い。傷口を圧迫して、少しでも流血を止められるようにするしかなかった。両肩と右腰の後ろ側にはナイフが刺さったままになっているが、これもそのままにはしておけない。ジョンは柄を握り、ゆっくりとナイフを引き抜いて地面に落とした。


 まさに満身創痍。……親父だったら、もっと上手く立ち回るんだろうなあと、ジョンは少しだけ口の端を歪ませた。

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