9-3.

 ジョンは左拳を大振りに繰り出すも、悪魔に躱された。即座に打ち込まれたカウンターの右拳を、ジョンは頭を後ろへ引く事でかわす。その仕草に、「へえ」と悪魔は眉を上げた。

「この前よりは幾分冷静みたいじゃないか」

 この前……。パブに行った日の夜の事を言っているのか。


 ――「私から――、ジョンまで奪おうって言うの……?」。あの日の夜を思い出したジョンの頭の中で、連鎖的にジャネットの言葉が蘇った。


「……ッ!」

 ジョンが思わず息を呑み、動きを止めた――止めてしまった。

 目の前の男が、それを見逃す相手ではないのを知っていても、その言葉はジョンを凍り付かせた。

 内臓に直接打ち込まれたかのようなボディブロー。ジョンは衝撃で自身が数センチ浮き上がったのを実感した。その直後、襲い来る猛烈な吐き気に、ジョンは地面へ蹲った。

「何をボーッとしてんだよ」

 地面に吐瀉物を撒き散らすジョンを見下ろしながら、悪魔がせせら笑う。彼が笑いながら右脚を振り被るのを、ジョンの霞む視界が捉えるが、しかし体が動かなかった。

 脳が揺れる、頭蓋骨の中でバウンドする。悪魔に強く蹴り飛ばされたジョンは仰向けに引っ繰り返されながら、排水路まで転がった。

 冷たい汚水に身を晒しながら、ジョンは明暗する意識を必死に繋ぎ止める。


 悪魔はジョンから視線を切り、メアリーに歩み寄る。

 メアリーはジャック達を庇うように自分の背中に回し、悪魔を睨み付けた。しかしその瞳が不安と恐怖で揺れ動くのを、悪魔は見逃さない。

「おいおい、メアリー。どうしたんだ。俺はお前の味方だろう? お前達に居場所を作り、食事を与え、言葉を教えた。それなのにどうして俺をそんな目で見るんだ?」

 善意をひけらかすような猫撫で声。悪魔の瞳の奥は愉悦に笑んでいる。

 メアリーは激しく首を振って、彼を拒絶する。

「あなたは嘘つきだ。わたし達に間違った事をさせていた、ずっと。それに気付いたわたしを殺そうともした。ジャックがこんなに傷付いているのも、あなたの所為だ!」

 メアリーは毅然とした態度で、強い意志を宿してそう言った。しかしそれを聞いた悪魔は、声を上げて笑った。

「俺が間違っている? そうかな、本当にそうか? 俺がいなければ、お前達は一体どうなっていたと思う? お前達を襲ったあの大人達が、お前らを生かしてくれたと思うか?」

「……っ」

 メアリーはあの夜を、あのヒトの形をした悪魔を思い出して、思わず息を呑んだ。歯を噛み締め、必死に体の震えを堪えようとした。

「なあ、皆はどう思う?」悪魔は振り返った。呆然と立ち尽くす子供達へと振り返った。「俺は――『ママ』は、間違っているかな?」

 子供達はお互いを振り返る。やがて一人がボソリと呟いた。


「――『ママ』は、正しい」


 その囁きが、伝播する。伝染するように、疫病のように、感染するように。

「『ママ』は正しい」

「『ママ』は正しい」

「『ママ』は正しい」

「『ママ』は正しい」

「『ママ』は正しい」

 口々に繰り返されるその言葉は、まるで何かの祝詞のりとのようで。


 メアリーは刺されるような鳥肌に襲われ、思わず体を腕で抱えた。

「皆、待って! 違うの! 皆、騙されてるの!」

 メアリーの必死の声は、しかし小鳥の囀りのように虚しく響いた。

「どうしてそんな事言うの?」

「メアリー、どうしたの?」

「お姉ちゃん、なんで?」

「お姉ちゃん、変だよ」

「おかしいよ、メアリー」

 責める、責める、子供達の声。メアリーは顔を歪めて、胸を押さえる。

「違う……、聞いて、皆……、わたしは……わたしは……ッ」

 言葉が出ない。呼吸が出来ない。メアリーは、自分を見詰める家族の瞳を直視出来ない。彼らの瞳は「当惑」の一色で、まるで世界に自分一人しかいなくなってしまったかのような錯覚。


「……メアリー……ィッ!」

 水音がして、メアリーは顔を上げた。

 頭に手を当て、血走った目を見開いたジョンが立ち上がっていた。

「メアリー……。お前は、間違って、ない……ッ」

 肩で息をしているジョンは、フラフラと覚束ない足取りで排水路から抜け出した。全身がずぶ濡れでみすぼらしい姿だったが、けれどその瞳から戦意は消えていなかった。

 悪魔は、いっそ鬱陶しそうに彼に振り返った。

「シャーロックならともかく、クソザコナメクジのお前には何も出来ねえんだから、大人しく寝てればいいんだよ」

「うるせえ黙れ喋んな……ッ」

 ジョンは痛む頭を押さえながら、悪魔を睨み付けてそう吐き捨てた。


「ジョン」「ジョン」「ジョン」「ホームズ」「ホームズ」「ホームズ」――。色々様々な誰かが絶えず名を呼んでいる。その「名」と、その「姓」を。比べるように、較べるように。

 名を呼ばれる度に、ジョンの中に苛立ちが募っていく。

 幼い頃の惨めな自分。それを指差す大人達。期待と、蔑みを込めて。気付きながらも無理に肩肘を張っていた。何も持たない癖に、態度や言動だけがやたらと尊大で。そんな事がいつまでも続く筈もなく、やがて周りには誰もいなくなる。なのに自分を揶揄する声だけ聞こえてくる。……その言葉はどれも真実で、彼の心を食い破っていく。


「――ゴチャゴチャうるせえんだよ糞っ垂れ……ッ!」


 ジョンは自分の頭を殴り付けて吠える。頭の中の声は、全て自らの内から出ている。全て自分が自分を指差す声なのだ。けれど、そんな事は彼が最も深く理解している。

 自己評価の低さが招く自信不足。生前、ワトソンはジョンのそんな部分が足を引っ張る事になるのではと危惧していた。しかしそれを口に出す事が出来る筈もなく、何も言えずに彼は逝ってしまった。

 ジョンの評価基準は、父であるシャーロック・ホームズだ。彼に劣っているのならば、なんの価値もない。しかし彼の背中を追えば追う程、自身の弱さを実感する。

 世界中の人々がシャーロックを称賛する。そんな彼に見合うような息子でなければならないと、ジョンはいつの間にか自分に課していた。否、そうなりたいと自ら願った。


 父が自分に親友と同じ「ジョン」という名を付けたのは、何故か。ジョンはシャーロックに尋ねた事がある。シャーロックは口の端を歪めて、こう言った。

「いずれ俺の隣に立つ男の名だ。そいつは『ジョン』以外にあり得ないだろう?」

 父は信じてくれていた。自分の成長を、自分の強さを。けれど捻くれ者の彼は鼻で笑い、

「隣に立つ? 冗談じゃない。いずれお前を負かして、地面に転がして踏み付けてやる」

 その言葉を聞いたシャーロックは笑ってから、「調子に乗るな」とジョンを殴り飛ばした。

 父の微笑みを忘れない。あの憎らしいまでの笑顔を忘れない。世界の誰が信じなくても、ジョンの強さを信じてくれたのは、あろう事か、宣戦布告を受け入れた父だけだった。


 ……だがその父は、一体、誰の所為で――――。


「あああああッ!」

 内なる声を掻き消す為に、ジョンは大声を上げて地を蹴った。

 悪魔はジョンに向き直った。嘲るように口の端を曲げて笑った。その笑みが更なる薪として、ジョンの中の怒りへと投げ込まれる。

 跳び上がり、落下の重力と合わせた左の拳。先と同じ攻撃を悪魔は呆気なくかわし、返すように左拳を振るった。ジョンは顔の側面に腕を上げ、肩と一緒にそれを防いだ。

 しかし防御を貫いて余りある一撃に、ジョンは吹き飛んだ。


 悪魔はそも幽体であり、故にヒトの世界に現れる為には何かに取り憑く必要がある。しかしモノに与えられた魂の容量は一つ分であり、取り憑かれたモノはそのただ一つの居場所を巡って争い始める。

 魂の領域での戦い――。それはそもそもが幽体である悪魔に優位が付いてしまう。ヒトが抗っても、その体を悪魔に奪われてしまうのはそれが原因の一つでもある。

 悪魔が地獄に於いて持つ、彼ら本来の姿を地上にて顕わす為に、ヒトを殺すのである。元あった人体の形がどうであったかに関わらず、悪魔に奪われた人体はヒトならざる形へと変貌する。例えば羽や角を生やしたり、およそ人知外の筋力を発揮したり、複腕、複眼、両性具有――。


 ジョンは痺れの走る腕を振るい、悪魔が本気を出し始めたのだと実感した。と言うよりも、面倒になって早々に片付けようとしていると言った方が正しいだろうか。

 ナメられている――。ジョンがそれに気付いた時、目付きが一層険しくなった。

 ナメてんなら、そのままナメ腐ってろ。お前をブチのめして、メアリー達をここから逃がす。ジョンは懐に手を伸ばし、聖水を詰めた瓶を手にする。


 悪魔はジョンを睥睨しながら、「ふむ……」と頭の中で独り言ちる。

 意外に冷静……、しかしキレているのも確か。もう少し遊んでみるか……。

「オイ! そろそろ起きろよ」

 悪魔がふいに大声を出した。彼の背後でビクリと反応したのは、メアリーの背中にいるジャックだった。


「ジャッ、ク……っ!?」


 メアリーが振り返り、気絶していた筈の彼に振り返った。――直後、彼女は固まって成り行きを見守る子供達の方へと強く胸を突き飛ばされた。

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