9-2.

 最悪の状況に、ジョンは却って冷静になれた。


 正面には悪魔。右には排水路、左には住居が並んでいた。ジョンは目を動かし、改めて周囲の状況を確認する。後方は――と彼が振り返ったのは、「ママ」が現れるまさにその瞬間だった。

 子供達は、突如現れた見知らぬ大柄な男から逃げるように「ママ」の下へ駆け寄る。彼女は彼らに反応する事なく、直立したまま真っ直ぐに正面だけを見詰めていた。

 指示待ちか。ジョンは周囲の情報を取り入れて、悪魔を突破する策を思案する。


 ホワイトチャペルから出る為の最短ルートは、男が姿を現わした路地の先だった。そして背後には「ママ」がいる。今更迂回して、別ルートを取るのは至難の業だ。だからと言って、悪魔を突破して最短ルートを取る方が難しい。――やはり迂回するしかない。

 なんとか押さえ付ける、メアリー達が離れられるだけの時間を稼ぐ。それならば悪魔ではなく、「ママ」の方が難易度は低い。方針を固めたジョンは深呼吸し、軽く上下に体を揺らした。


 その様子に、悪魔は鼻を鳴らした。

「なんだァ、やる気か?」

「当たり前だろ」

 ジョンは背からジャックを下ろし、メアリーに預けた。

「お兄、ちゃん……」

 絶望し切ったような彼女の顔を見て、ジョンは頬を伝う汗を感じながらも、ニィと歯を見せた。明らかに強がりだった。

 それを看過したのかそうでないのか、悪魔は煽るように子首を傾げた。


 ジョンは地を蹴って跳び出した。それを見た悪魔が身構えた直後、ジョンは前に踏み出した足で加速するのではなく再度蹴り付け、後方に向けて身を翻した。

 予想と違うジョンの動きに、悪魔は出遅れた。そんな彼を嘲笑うかのように、ジョンは「ママ」に詰め寄る。子供達は、やはり何が起きているのか分からずに怯えるばかりだった。

「ママ」に向けて一直線に突き進み、その速力を維持したまま、ジョンは彼女の頭部に向けて右脚を振るう。

 渾身の一撃。女性の体重ならば、排水路にまで吹き飛ばせるだろう衝撃。

 しかし、その衝撃を「ママ」は受け止めた。左腕でジョンの脚を受け、あろう事か伸ばした右手でジョンの脛を掴んだ。

「な、ン……ッ!?」

 身動きが取れないまま、ジョンは視線を動かす。彼の後方からは悪魔が駆けて来ている。彼が「ママ」に指示を出した様子はなかった。それなのに「人形」が自発的に動き出す。それはつまり――、

「両方ともお前の義体か……っ!」

「その通りだよ」

 紅く染まった「ママ」の目。彼女――否、「ママ」という人形に乗り移った悪魔が笑った。


 今、この場には女性と男性の「人形」が二体ある。その両方が悪魔の所有物だ。二体の間を行き来するのは自由自在。片方に指示を続けさせながら、片方に移って自ら動く事が出来る。

 ジョンが初めてホワイトチャペルを訪れた時に出会った「ママ」が、「神聖」に反応したりそうでなかったりしたのは、恐らく宿った悪魔が肉体から出たり入ったりを繰り返したからだ。


 それは新しい可能性。「人形」に手を加えれば、悪魔はそこに棲み付く事が出来る。「人形」の普及は決して古くない。街中にいる彼らの中に、もしも悪魔が潜んでいるならば――。それは新たな脅威の形。彼らの悪意は、人間達を凌いで有り余る。


 ジョンは自分の脚を掴む手に力が籠るのを感じ取る。投げ飛ばす気か――。敵の意図を察した彼は右脚の膝を曲げ、地に手を突いた。そして左足を伸ばし、がら空きの顎を踏み付けるようにして蹴り上げた。

「っ……」

 後方へと倒れ込みながら、悪魔が小さく呻いた。ジョンはその隙に体勢を立て直し、背後へと体を切り返す。彼のすぐ目の前まで、男性型の「人形」が走り寄っていた。

「――殴れッ!」

 悪魔が顎を押さえながら、叫んだ。それを聞いた「人形」が指を動かし、拳を形作った。


 人形には感情――敵意がない。ジョンの特性である「悪意の察知」は役に立たない。しかし彼の「察知」と、それに対する反応速度は全く別の物だ。絶えず重ねる敵の行動予測と取るべき選択肢への思考瞬発力は、彼が生涯において磨き上げてきた努力の結晶。

 相手の動きを読み切り、相手の推力に自分の力を上乗せる。そうして相手を投げ、捕らえ、締め、押さえ、無力化したところを拳で仕留める。かつて父が好んで使用していた術であり、その術の前に幾度となくジョンは何も出来ずに投げ飛ばされて来た。


 シャーロックの構えが拳を顎の横に置く上段構えなら、

 ジョンが選んだ構えは開手を体の前に置く中段構えだ。

 シャーロックの初動が敵に応じて取る「後の先」なら、

 ジョンの初動は自ら敵に飛び込んで「先の先」を行く。

 シャーロックの挑発が言葉を使った巧みな揶揄ならば、

 ジョンの挑発は舌を突き出し、中指を立てて見下す姿勢。


「人形」がジョンの顔に目掛けて右拳を射出する。ジョンはそれを寸前でかわし、拳と擦れ違いながら敵の手首を掴んで捻り、空に手の平を向けさせた。

 伸び切った肘関節を襲う、下方からの掌底打ち。「人形」の肘を破壊したジョンは、敵の手首から手を離し、肩を内に回して腕を振るって殴り、「人形」を地に叩き付けた。俯けに倒れた「人形」を足で踏み付けて動きを封じると、背に差してある巻鍵を強引に引き抜いた。

 これでこいつの「人形」としての機能は止まる――、更に悪魔がこの体に戻ったとしても、肘を破壊している為に強い動きが出来ない。ジョンは巻鍵を住居の向こうへと投げ捨てた。足を回して振り返り、再び悪魔に正面から対面して構える。そんな中、苛立たしげに顔をしかめているのは、無意識に父の動きを真似てしまい、酷く不機嫌だからだ。


 父の術を受け、父の術を学び、父の術で強くなれた。それでも父と同じにはなりたくない、あいつの模倣なんて死んでもごめんだ。そんな捻くれた思いから、ジョンは父と同じスタイルを取らない事にこだわり抜いた――筈だった。しかしどこかで父の動きを自身に載せてしまう。

 長年親しんだ習慣は、変えようとして変えられるものではない。同じように、染み込んだ体動を矯正するのは、並大抵に出来る事ではない。だが今は、そんな事に構っている場合ではない。余計な事は考えるな。ジョンは深く息を吸い込んだ。

 吐息と共に、再びジョンは跳び出した。悪魔を打倒する、その為の一挙手一投足を思索する。


 まずは子供達から引き離す――! 悪魔の正面に立ったジョンは、彼の顔面に向けて拳を放つ。それを悪魔に左腕で受け止められるや否や、即座に手を開いてその腕を掴んだ。更に右手で襟をしっかと掴むと、ジョンは背から仰向けに転がった。

 前に崩され、悪魔は「うっ」と声を上げた。柔道に於ける巴投げ。その彼の腹に置いた片足で、ジョンは後ろ向きに回りながら、足で押し退けるようにして悪魔を投げ飛ばした。

「メアリーッ!」ジョンは起き上がりながら、メアリーに叫んだ。「皆を連れて行けっ! 道は分かるだろ!」


 悪魔は宙で身を翻して着地した。ジョンの言葉を聞き、「そうは行くか」と地を蹴った。

 それを阻む為に、ジョンは四肢で地を跳ね飛ばす。左のスイングで悪魔を牽制し、子供達との間に割って入る。ジョンはこの形を作りたいが故に、悪魔を投げ飛ばしたのだ。

 絶対にこの先へは通さない。「フゥゥ……」と長く息を吐き、ジョンはいつもの構えを取る。

 正面の敵に対し、強烈な威力を発揮する中段構え。しかしジョンは体中から汗を流し、手は震えていた。


 嗚呼、そうだ。認めよう。――もうシャーロック・ホームズはいない。自分を助けてくれるあの人は、もういないんだ。それがこうも恐ろしくて堪らないだなんて……。ジョンはギリッと強く歯を噛んだ。

 悪魔を自分一人で、真実ただ一人で打ち倒さなければならない。そんな事が自分に出来るのか。考えれば考えるほど、ジョンの頭の中は声で一杯になる。


「お前に何が出来る」「何もない、なんのチカラもない」「そんなのムリだ」出来る出来ないじゃない「やらなきゃメアリーが」やるしかない「無理ムリむ「どうすればいい」うるさい「なんで僕な「誰か助「糞糞糞ッ!」黙れ「何も出来なかった癖に」いない」黙れよ「怖い」「何が出「逃げられ「だからどうした」ない」「無理だ」うるさい「お前に何が「出来る「お前に「何が出来る」「受け継がなかった」「無力」「何が出来る」「きっと失敗す「無駄」うるさい「お前「出来「何が「お「出「何が出来「お前「何「来る「前に「出来「お前「何が出来る」――――『お前に何が出来る』と、繰り返す声、声、声、声……ッ!


 そして牙を剥き、悪魔が嗤う。


「お前に何が出来るんだよ。なあ、小さくて憐れなジョニー・ボーイ?」

「――ゥゥゥうるッせえンだよ糞っ垂れがァあああッッッ!」


 心を占めるのは、締めるのは、絞めるのは恐怖、悔恨、憤怒、疑義、畏怖、憤怒、使命感、責任、懐疑、忘我、意乱、疑問、狼狽、赫怒、当惑、心慌、後悔、恐慌、震怒――。渦巻き逆巻く全ての感情を乗せた咆哮で体を叱咤し、ジョンは闇雲に跳び出した。

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