9-1.
「うわあああ!」
突如起き上がったジョンを目にし、子供達が悲鳴を上げた。そりゃあそうだろうなと、彼は独り言ちながら、首を絞めて気絶させたジャックを背負った。
「なんで? お姉ちゃん、刺すところ、見てた! 死んでない、変ッ!」
後ろから見ていたのは、やはり子供達だったか……。恐らく「ママ」からの指示だろう。ホワイトチャペルに入って来る者を見張るのも、彼らの仕事の内の一つ。つまりレストレード警部達がやって来ているのを把握していたのに、逃げる準備すらしていなかったという事だ。それは嘲りか、奢りか。何にせよ、ナメられている訳だ。
「刺されてないんだよ。ホラ――」ジョンはメアリーからナイフを受け取り、掲げて見せた。「こういう事だ」
ジョンはナイフの切っ先に手の平を当て、そのまま突き刺した。しかし刃はジョンを貫く事なく、柄にみるみる収納されていく。
ナイフの形をしたジョークグッズ。良くある玩具だった。
「お姉ちゃん……、騙した?」
一瞬の静寂。いや、果たして一瞬だっただろうか。メアリーは息を呑み、子供達に振り返る。
子供達はメアリーから離れていく。誰もが困惑の目をしていた。
「あ……っ、あ……あっ」
言葉が紡げない。メアリーは家族から向けられる視線に、怯え切っていた。過呼吸を起こしたかのように喘ぐ事しか出来なかった。
ジョンはメアリーの肩に手を伸ばそうとして――、「ぅん……?」と声を上げて踏み止まった。
胸の前で両手を抱えるメアリー。そんな彼女の周りに黒い靄のようなモノが集束していく。その靄は壁、天井、地中など至るところから発生し、彼女を中心に渦を巻くように纏わりついていく。
ジョンは思わず右手首の傷を見る。しかし出血する様子はなかった。
あの靄は「悪性」ではない。しかし、なんだ。この胸を内側から掻き毟る嫌な感覚は。
「良くないモノ」――。メアリーは確かそう表現していた。言い得て妙かも知れないなと、ジョンは皮肉気に笑った。
あの靄自体に「悪」も「善」もない。しかし、あの靄は撒き餌のように「悪性」を誘き寄せる。短期間の間に同じ「人形」に悪魔が宿ったのは、恐らくそれが理由だ。
ジョンはメアリーの「特性」――、悪魔達が言うところの『特異点』の実態に触れた気がした。しかもそれは恐らく彼女のメンタルと同期する。彼女が強い恐怖や不安に襲われた時、それは起動する。
ジョンはメアリーの肩に手を置き、叩いた。メアリーがジョンを見上げ、目を閉じて深呼吸をした。
その途端、メアリーの周りに漂っていた靄が嘘のように散っていった。彼女の精神状態があの靄を呼ぶというのは、どうやら正解のようだった。
「『ママ』からの指示だ。僕とメアリーが君達を先導する。黙って付いて来て欲しい」
「ママ」という言葉を聞いて、子供達の表情から疑心が幾ばくか薄らいだ。よほど信頼されているらしい。そう感じたジョンは思わず舌打ちしそうになったが、なんとか堪えた。
「なんで、死んだフリ、した?」
だからと言って、見知らぬジョンへの不信感が薄まる筈もない。子供達の一人がそう問うた。
そもそもジョンがメアリーに殺されたフリをしたのは、自分がホワイトチャペルに来た事を「ママ」達に知られたくなかったからだった。死体のフリをして子供達に運んで貰えれば、確実に彼らの隠れ家に辿り着けるだろうという目論見だった。
後はなんとか子供達を説得して、ホワイトチャペルから出るだけなのだが……。思っていたより彼らは疑り深い。メアリーがいればそれほど苦心する事もないだろうと見込んでいたが、それはどうも甘かったようだ。
十人全員を気絶させて運ぶ――のは、幾らなんでも無理だ。それに彼らを傷付けたくはない。ならば怒鳴り散らして威圧するか……。いや、大声を出せば「ママ」達に気付かれる。全てを正直に話すという手も通じないだろう。先の彼らの表情からして、「ママ」に対する信頼は絶対だ。彼女が悪事を企んでいると諭しても、彼らは聞く耳を持たない。
返答が遅れれば遅れるほど、子供達の不信感は増していく。ジョンはなんとか言葉を探そうとするが、思い浮かばない。故に焦る。しかし焦れば焦るほど――、
「『ママ』だよ」メアリーが口を開いた。「わたし達は『ママ』の言う通りにしただけ」
真っ直ぐな声だった。真摯である事を努めている気配すら感じさせない、嘘を気取られない為の虚言。それは経験から来る技術。ジョンが持ち得ない、彼女の生き方の象徴だった。
それを家族に向ける事に、罪悪感が胸を蝕んでも。メアリーは彼らを救う為に嘘をつく。人を騙す。家族を謀る。
「『ママ』……? なんで、どうして?」
問うた子供が眉をひそめる。それはそうだ。わざわざ死体のフリをする理由にならない。
どうするのか。ジョンはメアリーをチラリと見る。彼女は少し笑って、肩を竦めた。
「理由は知らないわ。でも、『ママ』っていつもそうでしょう?」
指示するだけ指示して、理由は話さない。それが「ママ」の常だと言う。メアリーの言葉に頷く子供もいたが、しかしなおも怪訝そうな者もいた。
「わたし達、誰も知らないでしょ、どうして死体を集めているのか」
追い打ちのように、メアリーがそう続けた。それを聞いて、子供達は互いに顔を見合わせる。
「信じるにせよしないにせよ、早くしないと『ママ』に怒られるぞ」
ジョンが零した言葉に、子供達はあからさまに緊張した。彼が視線を送ると、メアリーはコクリと頷いた。
「皆、付いて来て」
メアリーは足を動かし、建物の入口へと向かう。ジョンはジャックを背負い直し、彼女の後に続いた。
しばらく歩いてから後ろに振り返ると、子供達はまだ躊躇っていた。しかしやがて一人、二人とジョン達に続く者が現れた。皆不安そうな顔をしていたが、全員が足を動かしてくれた事にジョンは表情には出さずにホッとした。
「『ママ』達は普段、どこにいるんだ?」
小声でジョンがメアリーに問う。しかし彼女は首を振って、
「わたし達は知らない。知ってるのは、ジャックだけだと思う……」
バッタリ鉢合わせたりしたら最悪だな……。ジョンは口をへの字に曲げた。
ホワイトチャペルの外に出る為の最短ルートを真っ直ぐ迷いなく突き進む。ぐずぐずしてはいられない。
ジョンは冷や汗をかいていた。今この瞬間が、彼にとって最も無防備な時間だ。メアリー、ジャック、そして子供達を逃がす為に必要なリスクではあるが、そこを襲われたら彼には手がない。十二人を守りつつ、悪魔を撃退するというのは、現実的ではない。
しかし少しでも出口に近付いておけば、例え襲われたとしても、ジョンが悪魔を引き付けている間に子供達を逃がすチャンスは作れるだろう。ジョンは、例え自分が捨て駒になってもいい覚悟だった。
……いや、どうだろうな。ジョンは口の端を曲げて、自分を嘲笑する。「覚悟」なんて大それたモノ、持ち得る人間だろうか。
ジョンは自分の力量に自信がない。生きて来た中で、そんなモノを持ち得た事がない。例えどれだけ他人に称えられようとも、父に勝てなければ彼にとっては意味がない。そして彼は、一度として父に勝てた事がない。
ジョンの頭の中に、悪魔に勝てるヴィジョンはない。歩けば歩くほど、動けば動くほど、敵に見つかるリスクは増す。そして胃の痛みが増していく。ジョンは今にも吐きそうだった。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
メアリーがジョンの顔を見るなり立ち止まり、彼に駆け寄った。ジョン服の裾を掴み、彼を見上げる彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。この子はこんな顔をしてばかりだなと、ジョンは苦笑して見せた。
「大丈夫だ。それより急ごう。もう少しだ」
願わくは、このまま何事もなく外に出たい。そんな期待が胸の中で鎌首をもたげる頃だった。
ジョンは神に祈らない。願わない。望まない。彼らの存在を知りながらも、彼らに期待する事が無意味だと、ジョンは知った。思い知らされた。
幾ら祈っても、神が僕に答えてくれた事はない。
何度身が裂ける程に叫ぼうが、それこそ貴方はお構いなしなのだろう?
ならば、最早貴方に捧げる言葉はない。
ジョンは神を見限った。だからだろうかと、彼は嘆いた。否――、それすらも諦めた。
路地からヌッと顔を出した男がいた。彼の顔は、忘れようにも忘れられるはずがない。
「よお、ジョニー・ボーイ。そんな大所帯でどこへ行こうって言うんだ?」
揶揄するような、虚仮にするような。人を喰うような声で、悪魔はそう言った。
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