9-5.
「何笑ってんだよ」
降って来た声に、ジョンはいつの間にか俯いていた顔を上げる。隠せない苛立ちで歯を剥き出しにした悪魔が、目の前に立っていた。
「お前が思い通りにいかなくて、イライラしてるところが愉快なだけだよ」
「……そうかよ」
ジョンの精一杯の強がりを、悪魔は彼の腹ごと文字通り一蹴した。
「……は……ッ」
地面を転がり、仰向けになったジョンはくぐもった声で呻いた。そんな彼を見流しながら転がるナイフを拾い上げ、悪魔は彼に歩み寄る。
「いつまでも口だけは一丁前だよなあ、ゴミクズの分際で」
「うるせえよバーカ」
ジョンは無理矢理に笑顔を見せた。それは弱々しいものであったが、悪魔の堪忍袋の尾を切らせるには十分な挑発だった。しかしジョンに挑発などしている余裕がある筈はなかった。地に転ぶ者と地に立つ者。どちらに優勢が傾くかと問えば、それは――、
「黙れクズが」
悪魔はナイフの切っ先を下に向け、手首を振って投げ付けた。吸い込まれるように、それはジョンの右脚の太腿に突き刺さった。
「ゥ、ガア……ッッッ」
ジョンの体がビクッと痙攣する。悲鳴を上げそうになるのを、歯を食い縛って堪えてみせる。
それを見、悪魔は尚更苛立ちを募らせた。ジョンの右脚に刺したナイフの柄を踏み付け、グリグリと左右へかき混ぜるように揺らす。
「うぎッ、ぃアアア……ッ!」
肉を内から千切られる痛みに堪えられる筈もなく、ジョンはとうとう悲鳴を上げた。
「お兄ちゃんっ!」
飛び出そうとするメアリーだったが、肩や腕を子供達に捕まれたまま、身動き出来なかった。彼女は振り返って、詰問するように声を上げた。
「放して! 分からないの! あんな風に誰かを傷付ける事が正しいと思うの!?」
子供達は聞いた事のないメアリーの声音に、しかし動揺する事なく首を振った。
「『ママ』が正しい。あの人、悪い奴、だから『ママ』がやっつける」
「違う! あの人は皆を助けようとここまで来てくれたの! ねえ、目を覚ましてよ、皆!」
メアリーの声は、響かない。彼らは眠っている訳ではなく、目を開いて確かに現実を見ていた。だから目を覚ますも何もない。彼らの瞳には「ママ」が絶対の正義として映っている。それが間違っているという発想すら生まれない。彼らにとって「ママ」は「神」に等しい。何故なら、確かに「ママ」は彼らを救ったからだった。
「何も知らない癖に、邪魔ばかりしやがって……」
ジョンの顔を覆うように右手で頭を掴み上げ、悪魔が忌々しそうに歯を噛んだ。
凶悪な握力で骨がミシミシと悲鳴を上げていた。ジョンは悪魔の意図を阻もうと彼の腕を両手で掴むが、力が緩まる様子はない。「糞……っ」と吐き捨て、一息と共にぶら下がっていた体を跳ね上げた。右脚の膝を悪魔の首に、左足を右脇の下に入れ、互いの脚を絡ませる――三角締めを極めようとしたのだが、力んだ途端に太腿の傷から血と激痛が噴き出した。
そんな状態で首が締まる筈もなく、悪魔は巻き付くジョンの脚を鬱陶しそうに首を振って逃れる。
「まだ動くか。小賢しい奴だな――!」
悪魔がジョンの頭を掴む右腕を大きく振った。そうしてジョンの脚を払い除けると、そのまま彼を振り回し、外壁に向けて投げ飛ばした。
背中から体を強かに打ち付けられ、ジョンはそのまま地面に崩れ落ちた。痛みで思考すら回らない。意識があるのかどうかさえ判別出来ない。ジョンは揺れる瞳で、ただ目の前にある石畳を見詰めて呻く事しか出来なかった。
「なァ、お前の名前はなんだよ、えッ?」
名、名、名。名前。ジョンは千切れそうな思考の隅で、その言葉の意味を模索する。それを口にする意味を探した。
「――――」
ジョンは口を開いた。しかし言葉が続かない。ソレを発する意味が自分には重過ぎて、とてもじゃないが言葉に出来ない。自分にはソレを口にするだけの、してもいい程の実力はない。その名前を持つ父の背中を追い掛けて、手を伸ばしても届かない絶望的な距離。その隔絶が、ジョンの口を縫い付けてしまう。
「ジャック! おい、起きろ、ジャック!」
悪魔がジョンを視界から切り、今度は転がるジャックを掴み上げた。
悪魔の呼びかけに、ジャックはぼんやりした様子で鈍い反応しか返さなかった。悪魔は大きく舌打ちして、ジャックから手を離して地面に落とした。
「役立たずめ」悪魔は髪を搔き乱し、苛立ちを隠そうともしなかった。やがて長く溜め息をついて、「そろそろ潮時か……。結局『門』が開く様子もない――」
悪魔は言いながら視線を動かし、やがてメアリーに目を止めた。
「……『特異点』だけ回収して、締めとするか」
不穏な物言いに、悪魔に視線を注がれるメアリーは体を震わせた。
悪魔の視界には、彼女の周りにいる子供達すら映っていなかった。悪魔が右手を掲げる。その指がパチンと音を鳴らした瞬間、子供達が息を止めた。
唐突に拘束が解かれ、反動で胸からドッと倒れたメアリーが、何事かと家族に振り返った。そんな彼女の顔に垂れ落ちる、一滴の黒い――泥のような何か。
子供達が一様に、黒く澱んだ泥のような物を目や鼻、耳から流していた。
「あ……っ?」
子供達が同様に声を上げ、自身の体から溢れ出る泥をその手に掬う。何が起きたのかと、互いの顔を見合わせた頃、口から濁流のように泥を噴き出した。
「皆ッ!」地面に堆積した泥の中に崩れ落ちる家族を見、メアリーが悲鳴を上げた。「どうしたの! ねえ、皆! なんなのこれ……!」
泥はやがて、まるで意思を持つかのように吐き出した本人の体に足元から這い上がり、全身を包み込んだ。メアリーはそれを阻もうと泥を手で掻いて引き剥がすが、瞬く間に戻っていく。
「なん、で……ぇ」
弱々しい声が聞こえた。メアリーが振り返ると、ジャックが悪魔の足首を掴んだ姿勢で、縋り付くようにしていた。
「なんで、皆、手を出さない、約束、オレだけ、に……」
ジャックの言葉に、メアリーは戦慄にも似た震えを覚えた。彼は自信を犠牲にしてでも、家族を……?
「知るか。使えないお前達が悪いんだろう」
悪魔は吐き捨てる言葉と同じように、簡単にジャックを払い除けた。仰向けに引っ繰り返った彼は「ぐぅう、うぅ……」と声にならない声を漏らして涙を流し始めた。
やがて彼の涙も黒い泥に変わる。瞬く間に泥の中に、ジャックも沈んでしまった。
「……てめえ……ッ」
子供達に何が起こっているのか。それを分かっているのはジョンだけだった。故にその体を怒りで震わせ、痛みなど無視して懸命に立ち上がった。
「ジャックだけじゃなかったのか! 他の子供達にまで、悪魔を取り憑かせて……!」
「ああ、そうだが」悪魔は平然とした様子で、ジョンに振り返る。「もし計画が頓挫した場合、この子供達が邪魔になる。下手に『教会』に口を割られたら、厄介だろう? だからと言って、折角手懐けたんだ。だったら、俺の配下の餌にした方が益になると思わないか?」
言葉と家、そして食事を与え、自身の下に懐柔する。まだ判断力のない子供達には物を与え、そうでなかった者には欲望を果たせるだけのチカラを与える。そうして自身を信奉する都合のいい手駒を作り上げる。
「子供達のお前への信頼は、なんであれ本物だったろうが……!」
彼らの「ママ」への信用、信頼。異様とまで言えるほどの絶対的な信仰は――否、「心酔」と言った方が正解かも知れない。子供達が「ママ」を見詰める瞳は、確かに神像を見上げるようなものだった。
「だからどうした。全ては計画の為だ。それを壊したのは、お前だろう!」
お前が邪魔をしなければ、子供達にこの結末はなかったと言いたいのだろうか。悪魔はジョンの物言いに、苛立ちを隠さなかった。
ジョンが例えこの事件――「切り裂きジャック事件」に関わらなかったとしても、いずれこのホワイトチャペルに警察ないしは『教会』の手が入るだろう。それまで悪魔の計画が完遂していたか否かは、まさに時間の問題だった。
疑似的な宗教体を成し、完璧な傀儡が用意した材料を基に悪魔憑きの『人形』を量産し、人の街を歩かせる。ホワイトチャペルと孤児達の群体は、まさに都合のいい舞台装置だった。自分達の思い通りに運ぶように細工する事は容易かった。
それはつまり、相手が子供だからと、
ホワイトチャペルの現実と、
そこに住まう子供達の現実と、
今日を生きる為に明日を見る事も出来ない子供達、
付いていけなくなった仲間を置き去りにする事しか出来ない無力さと、
誰に助けを請うても跳ね返される、それに抗う事も出来ない無力さと、
祈りも願いも届かない、星を見上げて凍えながら死んでいく無慈悲さ、
神も大人も信用出来ず、だから手を取り合って生きていくしかなかったのに。
そんな子供達の涙を嘲笑うかのような、ただ甘いだけの言葉と施しに、
生の活力と意味と見出した子供達を裏切る事に大した意味など要らず、
ただの餌として飼育してきたと結論付けられる程度の価値しかあらず、
最初から最後まで、利用されているだけとは知らずに浮かべる子供達の笑顔を、お前は――――!
「――あああああッッッ!」
ジョンは叫び、跳び出していた。痛みなど知らない、勝てるかどうかなどどうでもいい。ただ目の前にいるこの糞っ垂れを、ブン殴らないと気が済まない……!
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