7-3.

「――そして、お兄ちゃんに出会った」

 メアリーはそう結び、俯いていた顔を上げた。


 ジョンは口元に手を当てたまま、しばらく動かずにいた。メアリーの話を反芻すると同時に、彼女に掛けるべき言葉を探した。

「…………」

 しかし、何も見付からなかった。ジョンは瞳を閉じ、大きく深呼吸した。


 メアリーが語った内容は、ジョンの想像の範疇から外れた、言ってしまえば別世界のような話だった。彼は自分がどれだけ恵まれた環境の中にいたのかを痛感し、罪悪感すら抱いた。

 それは恐らくこの場にいるジャネット、ヴィクターも同様だ。三者三様に黙り込み、何も言う事が出来なかった。

 涙を目に滲ませたジャネットが、メアリーを抱き締めた。しばらく呆然と為すがままになっていたメアリーはやがて、顔を歪ませて涙を流し始めた。


 温かい食事。柔らかいベッド。綺麗な服。清潔な体。賑やかな声。全てがあそこにはなかったもの。それを享受された今、湧き上がるのは喜びや嬉しさではなく――、残してきた家族への罪悪感。彼らを裏切った自分が与えられてはいけないものだと、メアリーは笑顔を浮かべながら、胸の中を刺す罪悪感と闘って来た。


「あの子達を助けたい。それだけは、絶対に嘘じゃないの……」

 彼女はいつも自分でなく、他者の事ばかり考えている。それは優しさであり、枷だった。

 そこから解き放たなければ、真実、彼女は救えない。


 ジョンは閉じていた瞳を開いた。きつく結んでいた口を開けて、言う。

「ジャネット、今すぐ『教会』に連絡して、祓魔師の派遣を要請してくれ」

 ジョンは立ち上がって、ヴィクターの部屋のあちこちを探り出した。そんな彼の背中に訝し気な視線をやりながら、ジャネットが問う。

「どうして? 祓魔師なら今、ここに私が――」

「お前も僕も新米だ。もうコレは新米の手に負えるヤマじゃない。手遅れになる前に、別の誰かの手を借りるべきだ」

 ジャネットに振り返らず、ジョンは淡々とそう言い、物色を続ける。

 ジャネットはそんな彼に、怒りの視線をぶつける。メアリーから離れ、彼に詰め寄った。

「何よ、アンタ。ここで諦めるつもり!?」

「現実を見ろ。僕らは弱い。あいつに手痛くやられたのを忘れたのか?」

 返すジョンの声は静かだった。努めている訳でなく、それが当然だと言わんばかりの平坦さ。感情の籠らない声で、彼はジャネットに言葉を返す。

「アンタ、本気で言ってんの!?」

「意地になって解決する問題じゃない。目指すべきは事件の終息だ。だったらその為の最適解を取らなきゃならない。その中に僕らはいない。何故なら――、」ジョンはようやくジャネットに振り返った。「――僕らが弱いからだ」

「――――」

 限界だった。堪忍袋の緒が切れたジャネットは、その発破の勢いを拳に乗せ、ジョンの頬に叩き付けた。


「ジャネット!」抵抗すらせず床に崩れるジョンを追撃しようとするジャネットに向けて、ヴィクターが鋭い声を上げた。「やめろ、メアリーが見ている」

「……っ!」

 ジャネットが歯を食い縛り、振り上げていた拳を下げた。

「……お前が僕を殴りに来るなんて百も承知だったよ」ジョンは床に倒れ、天井を見詰めながら口を開く。「冷静になれよ、ジャネット。僕らは弱い。ならば別の誰かの手を借りるべきなのは明白だ」

「それは――……ッ、分かってるけど、でも……!」

 ジャネットは狼狽える。ジョンが何を言おうとしているのか分からない、信じられない。こんな事は初めてだった。

「だけど、諦めるつもりも更々ねえよ」

「え……っ」

 床から立ち上がるジョンの言葉に、思わずジャネットは絶句した。

「奴らの本拠地に乗り込み、情報を得る。それを派遣された祓魔師にその場で報告して、入れ替わりに奴らを叩く。最も早く、確実に事件を終わらせるにはこれしかない」


 より効率的に。より効果的に。そして迅速に。この瞬間と次の瞬間に存在する、敵を倒す為の最適解を常に選び取る。それはジョンが父親から学んだ戦闘姿勢であり、思考サイクルだった。


「おい、ヴィクター。今すぐこの空き瓶に聖水を詰めてくれ」

 ジョンは机の上に漁り出した様々な形の瓶を並べて、言った。

「怪我人に鞭を打つねえ、キミは。よっこいしょっと……」

 ヴィクターは溜め息交じりに立ち上がり、瓶にタンクに溜めた聖水を詰め始めた。バストバンドを巻き、呼吸すら苦しそうな彼の姿を見、ジョンは申し訳なく思ったが、今は時間がない。ジョンはヴィクターの部屋を後にすると、自分の部屋に向かった。

 空虚な部屋では、探し物はすぐに見つかった。床に転がる小さなケースにはジョンが収集した「聖具」が詰まっていた。彼はその中から数個の指輪を選び取り、左右の手の中指に嵌めると残りをコートの懐に仕舞った。


 ヴィクターの部屋へ戻った頃には、机の上に聖水の詰まった瓶が置かれていた。それらを纏めて懐に仕舞い込む。ジョンはヴィクターに礼を言い、今度はジャネットに目を向けた。

「ジャネット、さっき言った通りの手筈で頼む」

「分かった」

 と頷くと、ジャネットは部屋を出る。電話の置いてあるアパートの玄関ロビーに向かったのだ。


「……上手く丸め込んだねえ、君」

 完全にジャネットの姿が見えなくなってから、ヴィクターが呟いた。

「はてさて、なんの事やら」

 ジョンはそう嘯きながら、メアリーに振り返った。


「……今の内だ、メアリー。窓から下に降りるぞ」

「うん……。――うえっ?」

 何を言っているのかと、メアリーは分かり易い困惑顔だった。

「外に出て、君の家族の場所まで案内してくれ」

 極めて真面目な顔をしているジョンを見、メアリーは彼が真剣な事に気付く。

「……うん。それで、全部終わるんだよね?」

「……ああ」

 ジョンは確かに頷いた。顔は努めた無表情だった。


 ヴィクターは彼の背中を見ながら、深い溜め息をついた。

 ――結局、誰もキミを止められない、あのジャネットでさえも。いつだってそうだ。キミはいつだって一人で全て背負い込もうとする。……残された者の気も知らないで。

 止めるべきなのか。ヴィクターは自問する。ジョンを止めるべきなのか、否か。

 ここで彼を止めれば、彼の無力さを遠回しに指摘する事になる。しかし、彼一人で敵地に向かうのは無謀だ。……逆にここで彼が何か成果を挙げられたら、彼が自分自身を取り戻す切っ掛けになるかも知れない。


 ジョンは葛藤するヴィクターを尻目に、彼の机の引き出しの中からナイフを取り出した。それを繁々と眺めた後、またも懐に仕舞い込んだ。


「それじゃあ、ヴィクター。行って来るわ」

 まるで散歩に行くかのような気楽さで、ジョンは手を上げた。そのあまりの呆気なさに、ヴィクターは困惑したように頭を掻いた。

 メアリーを連れ、背を向けたジョンに向けて、ヴィクターは慌てて口を開く。

「ジョン、ボクからも頼みがある。絶対に無理するな。危険だと感じたら、すぐに逃げてくれ」

 ヴィクターの真摯な声にジョンは振り向かないまま、苦笑いを浮かべた。

「僕だってバカじゃねーよ。それくらい分かってるさ」

 それはそうだろう。ヴィクターはしかしそれでも尚、繰り返した。

「何度でも言う。逃げ時を失ったら最後だ。必ず見極めてくれ。いいな」

 ヴィクターの強い瞳に、ジョンは顔から表情を消した。


「別に、死にに行く訳じゃない――」ジョンはメアリーを脇に抱え、窓から身を乗り出した後、「ヴィクター……、いつも、悪いな」


 振り返ったジョンは、歪な笑みを浮かべていた。精一杯頬に力を入れて、無理矢理作ったかのような笑み。ヴィクターはその微笑みに戦慄し、立ち上がろうとしたその時、彼を拒絶するかのようにジョンは壁伝いに降りて行ってしまった。


 歩くジョンとメアリーの間に言葉はなかった。お互い無言のまま、ジョンは先を歩き、メアリーは彼の後を追うだけだった。


 メアリーはジョンの背中を見上げる。緊張で硬くなっているのが、幼い彼女の目からしても明らかだった。

 それもその筈。ジョンは自分自身が悪魔に勝つヴィジョンが何一つ見えていなかった。装備も心許なく、助けを呼ぼうにも事態は急を要する。


 ただ一つ心にあるのは、「メアリーの願いを叶えたい」という思いだけだった。家族を救い、ジャックを救う。その為に必要なのは、悪魔の足止めだ。ジャネットが遅れて連れて来るであろうエクソシストと『教会』に子供達を委ねるしかないと、ジョンは考えていた。

 自分は捨て駒になったって構わない。その覚悟を決めて……、否、決め切れていないから彼の体は緊張している。恐怖で固まりそうになっている。


 最後まで曖昧なままで、二人はホワイトチャペルに辿り着いた。ジョンは深呼吸し、一度メアリーに振り返った。彼女は胸の前で両手を握り締め、ジョンを案ずるような目をしていた。

 自分の緊張が伝わっているのかも知れない。ジョンは自嘲気味に笑い、メアリーと視線が合うようにしゃがみ込んだ。


「大丈夫か?」

 メアリーはジョンの問いに、彼と目をしっかりと合わせて、コクリと頷いた。それに微笑みを返して、ジョンはメアリーの頭を軽く叩いた。

「よし、じゃあ、これを持っていてくれ」

 そう言ってジョンが懐から取り出し、メアリーに手渡したのは、ヴィクターの部屋から拝借したナイフだった。

 メアリーは受け取ったそれを、少し驚いたようにしばし見詰めた後、問うようにジョンを見上げた。

 ジョンは彼女の視線に頷きを返し、耳元に口を近付けた。

 メアリーはジョンの言葉を聞き逃すまいとするが、段々と困惑が表情に広がり、小さな手に握るナイフが小刻みな震えを強めていった。

 やがて顔を離したジョンは、メアリーの泣き出しそうな顔に歯を見せ、また彼女の頭に手を置いた。


 そして、二人はホワイトチャペルに足を踏み入れる。

 靴が地を叩く音だけが響く。ジョンは真っ直ぐに前を見ながら、背中に突き刺さる敵意を感じ取った。


 ――……やはり見ているな。ジョンは表情に出さないままに、チラリと背後に振り返る。


 メアリーは怯えているのか、歩幅が小さくなってしまっていた。それでも後ろからしっかりと付いて来ていた。

 ジャックの家族と思われる視線に纏わりつかれながら、ジョンとメアリーは路地を歩いていたが、やがて立ち止まる。そこには地面や建物の外壁に焼け焦げた跡が残っていた。


「……ここって、」

 メアリーが呟く。「ああ」とジョンは頬を掻き、

「君の機転のお蔭で『ママ』から逃げられた場所だな」

 ジョンが四方に目を遣る。道の隅に壊れたライターが転がっていた。彼はおもむろに、それを拾い上げようとしゃがみ込んだ。


 家族を助ける――だがそれが目の前の彼に出来るのか。恐怖で竦み、逃げ出すのが関の山ではないだろうか。ふと鎌首をもたげたそんな疑問に、メアリーは目の前が真っ白になった。

 彼が魔人を撃退し、家族を自由の身にしてくれる保障など、どこにもない。むしろ返り討ちに遭う可能性の方が高いだろう。事実、彼は一度魔人の手によって瀕死に陥った。このまま彼を連れて行ってもなんの成果も得られないどころか、自分の裏切りに激昂した魔人が家族に手を上げるかも知れない。もしそうなったら、家族はひとたまりもないだろう。……メアリーは最悪の結末を想像し、同時に自身に残された救済措置の一手を思い付く。


 そうか、彼を――。メアリーが伏せていた目を上げる。その瞳の奥には燃えるのは、冷たい炎の意思。

 だって、どうしようもない。「絶対に助かる」という見込みがないのなら、期待したところで無駄かも知れない。リスクがあるのなら、それに家族の命を賭ける事なんて出来ない。


「ジャック……」

 勇気を貰う為に、彼の名を口にした。フッと息を吐いて、メアリーがナイフを鞘から抜き、捨てた。その音に気付き、ジョンがしゃがんだまま、彼女に振り返った時だった。

 こちらに向けて駆けて来るメアリーの意図が、ジョンには見えなかった。しかし彼女が腰に構えるナイフが跳ね返す光に息を呑んだ。


 躱す事の出来る体勢ではなかった。メアリーの握るナイフが、ジョンの腹へと吸い込まれるように突き刺さった。

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