7-1.

 お父さんとお母さんがいた。二人はいつもわたしに笑いかけてくれた。だからわたしも笑顔を返した。いつも笑い合って、とても暖かかった。

 けれど、いつからだろう……。気付いた時には、わたし達の間に乾いた風が荒ぶようになっていた。


「おかしな声が聞こえる」――。お母さんがそう言った。でも、わたしとお父さんには何も聞こえなかった。だけど、お母さんはいつもそう繰り返した。その内、お父さんも見えない何かの気配に怯えるようになった。


 不安に抗う為だろうか、お父さんとお母さんは喧嘩ばかりするようになった。わたしは止めようと間に入るけど、いつも叩き返された。

 だから、わたしは泣く事しか出来なかった。けれど、それすらわずらわしくなったのか、お父さんはわたしを殴るようになった。痛いけど、泣き続ければもっと殴られる。わたしは泣かなくなった。お父さんとお母さんを困らせないよう、「なんでもない」フリをして部屋の隅でじっとしていた。


 ある日、堪えられなくなったお母さんがお父さんを包丁で刺した。何度も何度も刺した。お父さんが動かなくなっても刺し続けた。

「お前が呼んだんだ」お母さんが疲労で上がらなくなった腕をぶら下げて、わたしを見た。「お前が良くないモノを呼んだんだ」

 お母さんの顔は怖かった。老婆のように皺々で、頬はこけてやせ細り、髪はところどころ抜け落ちて見窄みすぼらしかった。だけど瞳は、その目の奥だけは爛々と光り、蝋燭ろうそくの灯のように揺れていた。


 わたしはその目に睨まれて――、それでも「なんでもない」フリをした。自分にも、お母さんにも嘘をつき続けた。

 そうする事しか、いつの間にか出来なくなっていた。

 お父さんとお母さんの笑顔も、思い出せなくなっていた。

 お母さんは自分の首に包丁を刺して死んだ。倒れても開いたままの目が、ずっとわたしを睨んでいた。


 わたしはどうすればいいか分からなかった。「なんでもない」フリを続けたけれど、一体なんの為に嘘を付き続けるのか。だってわたしには、最後までお母さんの言う「良くないモノ」が分からなかったから。

 そんなわたしを嘲笑うかのように、蛾がヒラヒラと飛んでいた。


 わたしはその場から逃げ出して、街を徘徊するようになった。やがて追い詰められるように、ホワイトチャペルに辿り着いた。

 わたしはなんとか食べ物を得る為に、工場に入って簡単な仕事をした。周りには同じようなボロボロの服を着て、同じように汚れた人達がいっぱいいた。

 いつの間にか、わたしもそんな風になっていた。お父さんとお母さんの事は、顔すら思い出せなくなっていた。


 工場では味のほとんどない薄いスープを貰った。美味しくはないけど、温かったから嬉しかった。いつも隣で働いていたお婆さんが、少しだけ分けてくれた。その日はたくさんスープを飲めて、すごく嬉しかった。

 だけどそのお婆さんが、突然悲鳴を上げて工場の窓から飛び降りた。首の骨が折れて、死んでしまった。


 わたしは何が起こったのか分からないままに、「良くないモノ」の存在を思い出した。


 工場内での不審死は続いた。やがて皆が工場を離れていき、機械が止まったその日、経営者が首を吊って死んだ。

 わたしは別の工場に入った。そこでもある日突然、事故が起きた。……そんな事が何度も続いた。

 わたしは「なんでもない」フリを続けたけれど、そろそろ限界だった。――わたしではなく、周りの人間が気付き始めた。「わたしの周りで不幸が起こる」と。


 わたしの居場所はなくなった。どこの工場も、どんな人間も私を受け入れる事はなかった。お腹が空いて道路の隅に転がったまま、曇った空をぼんやりと見上げる。涙を流す水分すらなくなった体を、わたしはどうすればいいのか分からなかった。

 宙を舞う蛾を見入る。悔しいと思う事も、悲しいと思う心すら枯れ果てたわたしの醜い顔に、影が差した。


「……あ、あ……」


 言葉とも似つかない奇妙な音を口から出しながら、目の前に立った男の子が、わたしに小さなパンを差し出した。

 わたしは飛び付くようにそれを口にした。歯が折れそうなくらい硬かったけど、一生懸命それを食べた。


 男の子は隣に座り、わたしがパンを食べ終えるのを見届けると、わたしに向けてスッと手を伸ばした。

 どこにも行き場のないわたしは、彼に手を引かれるまま付いて行った。何度も路地を曲がり、どこからどう進んできたのか分からなくなった頃、彼が足を止めた。


 そこは長らく使われていない倉庫で、埃を被った麻袋が幾つも積まれていた。恐らく元の持ち主が処分出来なくて放置したものだろう。積まれた袋の合間には、数十人の子供達がいた。

 わたしより年下の子もいれば、同じくらいの歳の子もいた。年上もいた。子供達は皆、汚れて痩せていたけれど、そこには笑顔があった。

 笑顔の作り方すら忘れてしまったわたしが久し振りに見た笑顔は、闇夜の中に光る小さな星のようだった。


「あーっ!」


 わたしを連れて来た男の子が、雄叫びのような声を出した。子供達が振り返り、彼の隣に立つわたしを見てキョトンと首を傾げた。

 やがて一人の女の子がわたしの下にやって来た。小さな微笑みを浮かべながら、彼女はわたしの頭を撫でて、そして抱き締めてくれた。

 骨ばった体同士がぶつかって、柔らかい感触はなかったけど、彼女の体はとても暖かくて、わたしは枯れた筈の涙を流していた。


「――ありがとう」

 しばらくして、わたしはここに連れて来てくれた男の子にそう伝えた。

「あい、あ……?」

 男の子はわたしの言葉をオウム返ししながら眉を寄せて、首を傾げた。彼は、そしてここにいるほとんどの子供達は、言葉を知らなかった。


 言葉を教えた。お話を聞かせた。わたしの辿々しい教え方にも皆楽しそうに、真剣に聞いてくれた。わたしは嬉しくて、やっと居場所が出来たと思った。

 子供達は協力し合い、皆で助け合って生活していた。皆で食べ物を集め、お金を稼いだ。


 男の子達はよく盗みを働いた。食べ物はほぼ窃盗で賄っていた。それは悪い事だと思ったけれど、そうでもしないとわたし達は生きられないのは分かっていたから、わたしは口を噤んだ。

 年上の女の子達は夜になると街に出た。何をしているのか、わたしに教えて貰えなかったけど、お金を持って戻って来るから働いているのだろう。

 わたしは働きに出られない子、まだ小さな子の面倒を見るようになった。言葉を理解し始めると、小さな子は良く物語をねだった。わたしはまだ両親と暮らしていた頃に聞いた、うろ覚えの物語を彼らに話した。特に人気だったのはシャーロック・ホームズのお話だった。それは話すのはわたしも好きで、聞く方も喋る方も笑顔になれた。


 一緒に暮らしていく内に、名前を持っている子供が少ない事に気付いた。それで今まで不便でなかったのは、ひとえに皆、言葉を知らなかったからだ。

「あなたの名前は?」

「な、ま……?」

 わたしを連れて来てくれた男の子は、首を傾げた。彼はホワイトチャペルで生まれた孤児だった。

 ジャック――。安直な名前だったけれど、わたしは彼をそう呼ぶ事にした。

「じぇ、じぇ、じ……や?」

「違うよ。ジャック、ジャック。JACK――」

 わたしが何度もそう口にする。彼が何度も真似をする。

「じく、じぁ、く、じゃく、じっく、じゃく、じゃっく、じゃっく、じゃっく……?」

「そうそう、上手だよ」

 ようやく口に出来た彼に向けて、わたしは思わず笑顔になった。彼は――ジャックは照れたように顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。

 けれどその後、何度も何度も「ジャック」と発音を繰り返していた。


 ――そんな、笑顔の作り方を思い出したわたしを、「良くないモノ」はずっと見ていた。

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