6-5.

「ヴィクター! 大丈夫!?」

 扉を開き、現れたのはジャネットだった。その手には彼女の銃が握られていた。


 弾道性能の悪い銀の弾丸が扉越しに悪魔に命中したのは、幸運と言わざるを得ないだろう。ヴィクターは溜め息を付きながらそう思った。彼は闇雲に引き金を引いた訳ではなく、銃声を用いて、上の階にあるジョンの事務所にいるジャネットに助けを求めたのだ。


「メアリー、こっちに来て!」ジャネットはメアリーを引き寄せ、自分の背後に回す。そしてヴィクターに振り返った。「ヴィクは!?」

「いやあ、あんまり大丈夫じゃないね……」

 弱々しく笑いながら、ヴィクターは手を振った。


 それを見て、ジャネットは少し笑いながら頷き、再び悪魔へと目と銃口を向ける。

「動くなッ!」

 ジャネットの刺すような鋭い声に、悪魔はヒィヒィと喘ぎながら降参を示したのか、両手を上げた。

「分かッた、分かっタ。動かないから――」

 悪魔はそう言いながら、ジャネットから距離を取る。彼女は右手に銃、左手でメアリーを庇いながら悪魔を追う。

 一定の距離を保ちながら、両者が時計回りに動いていく。やがて悪魔とジャネットの間にベッドが差し掛かった時、スルリという衣擦れのような音がした。

「――あッ」

 メアリーが声を上げた。何事かと、ジャネットが咄嗟に彼女に振り向いた。

 その一瞬の隙を狙い、ベッドの下、ジャネットにとっての死角から何かが飛び出した。

 それは悪魔が体から生やした尾だった。ジャネットより背の低いメアリーは、悪魔がベッドの下に尾を這わすのを目の当たりにしていた。それに驚き、思わず声を上げてしまったのだ。


 悪魔の尾がジャネットの握る銃を弾き飛ばす。彼女は床に落ちたそれを慌てて拾い上げようとしたが、尾は器用にもスルリと銃に巻き付き、部屋の隅に投げ飛ばした。

「……!」

 クッと、歯を噛むジャネットに対するように、悪魔は下卑た笑みを浮かべる。

 悪魔の背後には二本、三本と尾が並び、鋭い先端はその威力を見せ付けるかのように周囲のベッドや床を串刺しにしていく。


 ジャネットはジリジリと窓際に追い込まれていった。彼女の左太腿にはまだ銃が備えられている。しかしそれを抜くのと、悪魔の尾が自身を貫くのはどちらが速いだろうか――。

 舌舐めずりし、発射の時を待つ尾が一つの束になる。極大の一本槍――そして、それが悪魔の笑い声と共にジャネットに向けて発される。

「――――」

 高速の一撃。その速度、その先端がジャネットの体を突き刺、す――寸前に彼女は体を回す。回転で加速、床を蹴った彼女は一足跳びで悪魔を自身の間合いに捉えた。


「Fucking shit up!」


 悪魔が目の前で何か起こったのかを理解する前に、ジャネットの鋭い拳が鳩尾を貫いた。


 敵の先手を後手に変える動体視力と反射神経。更にジャネットは先天的に高い筋密度の筋肉を有していた。速筋と遅筋のバランスも良く、一見細身に見えながらも、彼女が発揮するパフォーマンスは常人とは一線を画す。単純な身体能力ならば、誰にも勝ち目はない。

 人間の目では捉え切れない速度の攻撃でも、彼女は反応し、あまつさえ反撃まで入れる。例え計四十キログラムになる腕輪、足輪を着けていたとしても、その速度は常人では影を追う事も出来ない。


 ジョンが駆け足でヴィクターの部屋に辿り着いたのと、ジャネットの拳が敵を吹き飛ばす瞬間は、奇しくも同時だった。

「……チッ」

 ジャネットの恵まれた才能と肉体。自分は持てなかった天性のギフト。それをまざまざと見せ付けられ、ジョンは思わず舌打ちした。


「あァ? ジョン?」

 舌打ちの音に耳聡く反応したジャネットが、舌打ちを返しながら彼に振り返る。ジョンは彼女を見ずに顎で敵を指す。

「ボケッとしてんじゃねえよ。さっさと銃を抜け」

 彼の言う通り、一時の危機は退けたが、まだ彼らの前に敵は立っているのだ。


「ギ、ギ……。ホームズ……か」

 束ねた尾をバラし、元の位置に戻しながら悪魔が呻いた。それを聞いたジョンが「あァ?」と凶悪な声を上げる。

「僕をその姓で呼ぶんじゃねえ――よッ!」

 ジョンは声を出すと共に跳び出した。前動作を見せない唐突な突進に、悪魔は反応が遅れた。ジョンはそのまま敵の足を払うと首を掴み、床へ押し倒した。

「ジャネット!」

 ジョンが叫び、空いた右手を掲げた。ジャネットはそれを見た直後、抜いた拳銃をその手に向けて投げた。

 ジョンの意図を察した悪魔が尾を操るがしかし、遅かった。宙を飛ぶ拳銃を捉える事は出来ず、それを握ったジョンに眉間へと銃口を押し当てられた。


「動くな。聞かれた事だけに答えろ」

 ジョンは悪魔の眼前で撃鉄を起こす。悪魔は息を飲み、大人しく頷くしかなかった。

「お前はずっとこの人形の中にいたのか? 前に憑いてた奴とは別者か?」

「ソうだ。前にいた奴は知らない」

 短期間で同じ肉体に悪魔が宿る……。ジョンはそんな話を聞いた事がなかった。

「お前の狙いはメアリーか? なんであの子を狙う」

 ジョンの問いに、悪魔はくぐもった笑みを浮かべる。

「そいつは『特異点』ダ。そいつが俺達ヲ呼び寄せる……」

「トクイテン? なんだそれは」

 問いながら、ジョンは自分の中で必死にその言葉を探すが、やはり初耳だった。嫌な響きしか感じないその言葉に、ジョンは強烈な反感を覚えた。

 悪魔は笑う。不吉を孕んで悪魔は笑う。ジョンは更に強く銃口を悪魔に押し付けた。しかし、尚も悪魔は笑い続ける。


「俺達ニとってのこの世界へノ『窓』だよ。それを頼リに俺達はコッチに辿り着ケる……!」


「そんな訳があるか。フザけて――」

 言い掛けて、ジョンは思い出す。レストレード警部と共にホワイトチャペルを捜査していた際に尋ねた男の言葉を。


 ――「ここで血腥い事件がある時、大体『ブラッディ・エンジェル』が傍に居るモンだ」、「おかしな自殺が多かった」、「あいつが入った途端、誰かが狂い始める」。


「……『ブラッディ・エンジェル』……」


 もし「エンジェル」が子供で、あの少年の下に身を寄せていたとしたら? 「エンジェル」が呼び寄せた不幸が、少年の家族を襲ったら? その復讐の為に力を求め、それに答えた悪魔がいるとしたら? あの魔人が少年の声に答えたのだとしたら? 魔人の目的が、初めから「エンジェル」だとしたら? 「エンジェル」の正体が『特異点』――、「メアリー」なのだとしたら?


 確証はない、ただの直感だ。しかし、ジョンは点と点が線で繋がった気がした。


『特異点』。「ブラッディ・エンジェル」。メアリー。ジャック・ザ・リッパー。「ママ」。悪魔憑きの「人形」。それらについて、自分達は何も知らない。


「――一体何を企んでやがる、てめえらは……!」

「クッハ!」ジョンが歯を食い縛って吐き出した言葉に、悪魔はとうとう吹き出した。「何も知ラない、何も知らナい! 哀れだナあ、お前ラは。あの方のお考えが、お前達にハ分かるマい!」

 笑う。笑う。笑う。悪魔の笑い声を受けるジョンの中で不快感が爆発したその時、悪魔が動きを止めた。

 その途端、「人形」の至る所から黒い泥のようなモノが溢れ出た。ボタボタと音を立ててそれは床を這い回り、そのまま吸い込まれるようにして消えていった。


 ジョンは半ば呆然としたまま、「人形」の首を掴んで床に押さえ付けていた。しばらく経ってから、舌打ちをして立ち上がった。

「ジョン……?」

 どうしたのと問うジャネットへジョンは顔を向けず、忌々し気に床に転がる人形を睨む。

「逃げられた。地獄にトンボ返りだよ」

 苛立ちを散らすように強く息を吐き、ジョンはジャネットに近寄り、撃鉄を戻した拳銃を彼女に手渡した。そして――、メアリーへ振り返った。


「メアリー、『ブラッディ・エンジェル』ってのは、君だな?」

 彼の瞳の中に感慨はなかった。憐れみも、憎しみも、怒りも。「何故」とも「どうして」とも問う事はなかった。


 ただ――それを受け止めるメアリーにとってはそうではなかった。責められている、攻められている。この大人は、既に「私」の事を知っている。

 メアリーはいっそ諦めたように小さく笑い、自分を抱き締めるジャネットから離れた。


「お兄ちゃんも、私を……そう呼ぶんだね」

「メアリー……」

「でも本当に、私は何もしてないよ」


 その微笑みは、まるで殉教者のようで。

 命の答えを追い、辿り着いた「覚者」。

 人類の罪を背負い、消えた「彼の人」。

 神から言葉を賜り、伝えた「預言者」。

 何か大切なモノを守る。――ただそれだけの為に、彼女は嘘を重ねてきた。


「メアリー、もういい」ジョンは首を振った。「僕はあの子と会って、話もした」

 ジョンの言葉にメアリーは目を見張り、急くように口を開いた。

「ジャックは悪くない。あの子は何もしてないよ……!」

「あいつはお前の事ばかり言ってたよ」

「違うの……、あの子は、ジャックは悪くない……。悪い事なんてしてない……」

「君と家族を守れるのは自分しかいない――、ずっとそんな事ばかり言ってたよ」

「全部『ママ』が悪いの! 『ママ』が、『ママ』だけが……!」

「そうだな」

 ジョンはメアリーに歩み寄り、彼女の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。

 しかし、メアリーはジョンから顔を背けた。涙を湛えた瞳を逸し、グッと歯を強く噛む。


「『ママ』が、『ママ』が……」

 譫言のようにメアリーが罪の在り処を繰り返す。「分かってるよ」とジョンはメアリーの手を取った。

「悪いのは悪魔だ。原因はあいつらにある。だけど――、選んだのは君達だ」

 ジョンはメアリーを掴むその手に力を込めた。痛みに身を強張らせた彼女が、恐る恐るとジョンに目を向けた。

 メアリーの前には、強く彼女を睨むジョンの目があった。今度こそ、彼は彼女を責めた。

「あいつは人を殺した。そして君は嘘をついた。どちらも誰かを守る為だったのかも知れない。そうさせたのは『ママ』だったかも知れない。けれど、最終的にその行動を選択したのは君達だろう」


 選択の責任は、その選択肢を手に取った者にある。例えどんな理由があろうとも。


「歯ァ食い縛れよ、メアリー」

 ジョンにそう言われ、キョトンと彼を見上げるメアリーだったが、彼が右手を振り被る様を見て、ギュッと目を閉じて体を固くした。

 バシン――と、大きな音が響いた。

「ちょっとジョン! 何してんのよ!」

 会話の意図が読めず、成り行きを見守っていたジャネットだったが、突然メアリーの頬に平手打ちしたジョンに思わず詰め寄った。

「悪い事したガキを引っ叩いただけだろうが。そんな騒ぐ事じゃねーよ」

 平然とそう宣うジョンの頬を、今度はジャネットが平手打ちした。

「アンタはこの子の親でもなんでもないでしょ! 偉そうな事言ってんじゃないわよ!」

「誰かがブン殴ってやんねーと、分かんねーまんまだろうがよ」

 打たれた頬を押さえながら、ジョンが抗議した。しかしジャネットは鼻を鳴らしてあしらうと、床に倒れたメアリーを抱き上げた。

「大丈夫? ごめんね、メアリー。あんな暴力男で……」

 ジョン不服だと舌打ちし、ガシガシと頭を乱暴に掻き乱す。


 メアリーは呆然としたまま、ヒリヒリと痛む頬に手を当てる。誰かに叩かれたのは久し振りだった。両親、監督者、食料を奪い合う子供達。「痛い」思い出はそれこそ数え切れないほどあった。けれど今、頬を刺す痛みはどれとも違うように思えた。

「痛い? 大丈夫?」

 ジャネットがメアリーの顔を覗き込んで、何度もメアリーの手の上から彼女の頬を擦る。メアリーは問われる度に頷きながら、どうして涙が零れそうになるのか考えていた。

 痛い。痛いけど、なんだか痛くない。不思議な感覚で、胸が暖かくなる。その熱に浮かされて、涙が零れそうになる。

 その衝動は、ジョンもかつて経験したものだった。初めて父親に殴られた時の感動。しかし彼は涙を浮かべる事はなく、代わりに中指を突き立てた。


「メアリー、嘘はもうやめてくれ。僕はジャックと話をして、大体の筋は理解した」

 ――と思う。ジョンは曖昧な言い回しを敢えて回避した。

 メアリーは顔を上げ、ジョンを見詰めた。

「ジャックは……元気そうだった? まだ『あの子』の意識はある……?」

「……っ」その問いに、ジョンは息を呑みそうになった。「……ああ、まだ大丈夫だ。あいつは強いな。だけど、そろそろ限界なんじゃないかと思う」

 その原因は自分が彼を刺激してしまった事にもあるのだろうけれど。ジョンは溜め息をつき、再び口を開いた。


「あいつを助けたい。メアリー、君達に何があったのか、全て隠さず教えて欲しい」

 事件解決の糸口はすぐ目の前にあったのだ。彼女の方から、救いを求めてここに辿り着いてくれた。

 ジョンの言葉に偽りはなく、心からジャックの救出を願っていた。


 メアリーはしばらくジョンの瞳を見詰め続け、やがてスッと頬を押さえていた手を、彼に向けて伸ばした。


「お兄ちゃん、お願い……。皆を、助けて……」

「――当たり前だ」

 ジョンはメアリーの願いに即答した。


 メアリーは自身の手を握る大人の手を見る。そこに伝わる熱と、震えを感じ取る。

 その手は全てを物語っていた。同じ願いを抱いている事、悪魔達への怒り、そして彼らと相対する恐怖や不安……。

 メアリーは自身の手を握る大人の目を見る。そこに映る感情と、決意を見詰める。

 その目に宿る炎は色鮮やかに、猛々しく燃え上がっていた。怒り、怒り、怒り――。彼は今、わたし達の為に炎を焚いている。


 わたし達は要らない存在だった。どこにも居場所がなくて、だから寄せ集まって精一杯這い蹲って生きてきた。付いてこられなくなった者を置いていく事しか出来なくて、わたし達は何度も涙を流した。救いを求めて手を伸ばしても、跳ね返されるだけ。その手を取り、わたし達を引き上げてくれる人が果たしているのだろうか。

 ――「ママ」は違った。伸ばした手を握ってくれたけれど、その手は悪意に染まっていた。わたし達はそれに気付く事が出来ず、振り返った時にはもう……。

 手遅れかも知れない。もう無意味なのかも知れない。そう思いながらも、わたしは家族から一人飛び出した。誰が掴んでくれるかも分からない手を伸ばして。


 ――「たす、けて……たすけ、て」――「分かった」。胡乱な自分の言葉に、力強く言葉を返してくれた人。血と泥で汚れた手を、躊躇う事なく取ってくれた人。


 ――――わたしは、どうしてこの人すらも信じられなかったのだろう。


 メアリーはとうとう、静かに涙を流し始めた。その涙が止まるまで、ジョンは彼女の手を握っていた。

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