4-5.

「ジョンッ!」


 悲鳴のような声を上げるジャネットだが、即座に意識を切り替え、体ごと男へと振り返る。

 しかしそこには既に男はおらず、彼はジョンを追って地を蹴っていた。

「糞っ垂れ――、なんだお前!」

 歯で頬の内を切ったのだろう、血の混じった唾を吐き捨てながら、ジョンが男を睨み付ける。


「ジョン・シャーロック・ホームズ――。お前を狙うのに、理由が必要か?」


 男がニヤリと笑い、共に歪む紅い瞳。

 ――魔人! ジョンは後方へ身をひるがえし、勢い良く落ちる男の拳をかわす。

 強烈な打撃音。男の拳が石畳を割り、大きく陥没させた。およそ人とは思えない怪力。自身のチカラを人の世で体現する為に、罪のないヒトをほふった悪魔の所業。

 ジョンは構える。開手はいつも通りの位置、足の開き。疲労困憊で油断していた先とは違う。敵意を受け止め、撥ね付ける確かな意思を燃やして、彼は敵を強く見据える。


「なんの用だか知らねえが――、お前にかける時間はねえんだよッ!」


 敵の動きなど待たず、滑るように動き、敵の眼前に踏み込んだ足。地を蹴り付けて生み出した勢力を乗せ、ジョンは男の顎に向けて真下から右の拳を放った。

 跳ね上がった男の顔。ジョンの存在が、男の視界から消えた。

 その隙を見逃すジョンではない。彼は右腕を戻しながら体を捻り、左の拳で敵の肝臓を穿つ。続いて右肘で鳩尾、最後に両手で強く胸を突き飛ばした。

「――――」

 まさに滝のように力強く流れる連撃。体の機能が「敵への排除」という意識に一連、連結していなければ出来ない技の応酬。ジャネットは息をするのも忘れていた。


「げほ、がはッ」

 男が地面に倒れたまま咳き込み、呻いた。

「倒れてろ。立ち上がるなら、次は口も利けないようにするぞ」

「……ハッ。ラッキーパンチで調子に乗んなよ――」

 男が身を起こすと、大きな音を立てて地を蹴った。地面に靴跡が強く残るほどの強い踏み込み。気付くと、ジョンの眼前には男の姿があった。

「――――ッ!」

 両腕を顔の前に揃え、ジョンは男の拳を防御しながら、後方へと跳んだ。衝撃を少しでも流す為に咄嗟にそう動いたが、それでもジョンはその場から大きく吹き飛ばされた。

 糞野郎、腕が……ッ。ジョンはなんとか着地し、再び構えたが、その両腕は感覚がないほど痺れていた。

 男がジョンの様子を見てニヤリと笑い、更に追撃を加えようと腰を落とした時、


「アタシを無視してんじゃねえよ!」

 ジャネットが怒号と共に、両太腿に装填された拳銃を左右同時に引き抜いた。


 ――「銀」には古来より未知なる病、魔を退ける力があるとされてきた。銀の弾丸が魔物を撃退出来るという話は、西洋において古くから伝わっている。

 しかし銀を実際に銃弾として使用する場合、比重の問題が出て来る。「銃弾」としては同じ鉛で作られた物に比べて軽く、弾道性能や威力という点で劣る。要するに遠くまで飛ばないのだ。

 それでも「銀の弾丸」を対悪魔の武器として用いるならば、どうするか?

「ふっ――!」

 吐息と共に、ジャネットが地を蹴り、一気に男との距離を詰める。


 ジャネットが行き着いた答えは至極簡単だ。射撃しても弾が当たらないのなら、自分から敵に近付き、当てに行くまで――!


 上段構えの姿勢から、ジャネットが繰り出す右のジャブ。男は咄嗟に左腕を上げ、その拳を受け止めるが、

「ぐッ!」

 打撃音と銃声が同時に発されるや、男の口から悲鳴が上がった。ジャネットは怯まず、続く左腕をスイングして拳を撃ち落とす。


 ジャネットが手に持つ拳銃は特別性だ。基本となる機構はオートマチック式拳銃と同じだが、形状が通常とは大きく異なっていた。バレルは短く、本来なら人差し指の上にくる筈のそれは小指の下――つまり通常の拳銃と上下が反転した形になっている。引き金とその誤操作を防ぐ為のトリガーガードが長く、グリップと同じ長さで繋がっていた。

 引き金は二段階構造。親指を除く四指で長く薄い引き金を握り、更にその引き金を取り囲むトリガーガードが何かとぶつかって押されるという二つのステップを踏んで初めて、この拳銃は銃弾を射出する。

 親指を台尻に乗せれば、手を拳の形に取っただけで、発射までの一段回目をクリア出来るという寸法。バレルが小指側にあるのは、視界の邪魔にならないようにする為と、排出される薬莢が顔面に向かってくるリスクを減らす為だった。


 ジャネットは敵を殴打したら銃弾が発射される拳銃を望んだ。その意図を組み、設計・立案したのがジュネであり、試作品の開発も彼女の手に因るものだ。それを聖具製造会社に持ち込み、製造された一号機が、ジャネットが左手に握る、通称「ファースト」、改良と重量のバランスを見直した二号機が、利き手である右に握る、通称「セカンド」である。


 ジャブ、スイングにボディブローを二発。合計四発の打撃と銃撃を受けた男が、地面に崩れ落ちる。

 これでトドメ――。ジャネットが拳を振り被った時だった。


「――お姉ちゃん!」

「メアリー……!?」

 どこからともなく聞こえてきたメアリーの声に、ジャネットは頭を振り乱して彼女を探した。


 大通りを挟んだ反対側の歩道に、涙を流すメアリーの姿があった。

 そして彼女を取り押さえるようにして、女が一人立っていた。ズタ袋を被ったかのような格好の、まるでガラス玉のように無機質な緑の瞳を光らせる女性。――ホワイトチャペルにおいてジョンが撃退した、あの「人形」――「ママ」の姿がそこにあった。

「お姉ちゃん……ッ、逃げて、逃げて……ッ!」

 そんなこと、出来るわけがない……ッ! 叫ぶメアリーの姿に、ジャネットは焦燥感を募らせる一方だった。


「ああ、痛ってえなあ……」男が呻きながら、自分の体から潰れた銃弾を指でほじくり、引き抜いていく。「拳銃で殴り付けてくるとは、驚いたね」

 男は下卑た笑みを浮かべながら、一歩、ジャネットに向かって足を動かす。

 ジャネットが威嚇するように銃口を男に向ける。しかしそんな物は目に入らないと言わんばかりに、男は悠然と歩を進める。

「っ――!」

 ジャネットは立ち上がりと共に右のアッパーを男の顔に向けて放つ。しかし男は顔を貫かれても、平然とした様子で彼女を払い除けた。


 メアリーは動けない。動けば、背後の「人形」が動き、自分を殺すと男に言われているからだ。涙を流しながら、その場にへたり込んでしまった。

「お姉ちゃん……ッ、ごめんなさい……ッ。お兄ちゃん……、ねえ、逃げて……ッ」

 自分の不注意、不用意で二人を危険にさらしている。こんなつもりじゃなかった。私はただ兄弟達を助けたかっただけなのに……。

 メアリーは、男の拳がジャネットの鳩尾を捉える様を、ただ見ている事しか出来なかった。


「っが、は!」

 メアリーの姿に意識が向き、その一瞬の空白がジャネットに被弾を招いた。胸を押され、前のめりになり曝け出された彼女の後頭部に、男は組んだ両の拳を叩き落とさ、れ――、


「てめえ、いい気になってんじゃねえぞ――ッ!」


 それを阻もうと、ジョンが拳を振り被って飛び出した。殺意に近い憤怒を燃やし、ジョンは渾身の力を込めて、男の頬を打ち飛ばす。それだけに留まらず、男の膝を蹴って体勢を崩し、肋骨に向けて横振りの左肘をぶつける。更に男の頭を右手で強く掴み、引き倒すと共に右膝で強く吹き飛ばした。

 男は仰向けに引っ繰り返った。その隙にジョンはジャネットを抱え、男と距離を取る。

「おい、大丈夫か!」

「……アンタに、心配なんてされたくない……」

 ジャネットは歯を食い縛りながら、苦々しく呻いた。相変わらずの減らず口に、ジョンは安堵の息を漏らした。

 再び視線を男の方へ向ける。男は「痛てえなあ……」と呻きながら、既に立ち上がっていた。


「テストだ」男が突如、手を上げて背後へと飛び退いた。「紛いなりにも探偵と祓魔師相手に、お前がどこまでやれるのかをな」

「な、に……?」

 意味の分からない言葉に、ジャネットが眉を寄せた。その様にくつくつと男は笑う。

「お前らの話じゃない、あっちだ――」

 男が笑いながら指差す方に、ジョンとジャネットが目を動かした。


 ――メアリーの横に、いつの間にか少年が立っていた。

 フードを目深に被ったその少年は、ジョンがパブのトイレで鉢合わせたあの子供だった。白いハーフパンツと黒のパーカーの裾から覗く手足は骨ばって細く、不健康そのものに見えた。

 少年が静かに顔を上げる。――緑と紅、二色の瞳の奥に、激しい炎を燃やしていた。


 紅い、瞳! 悪魔憑き――魔人!? ジャネットの中に戦慄と困惑が走った。

 魔人は紅い瞳を持つ。ヒトが悪魔に憑かれた際、最初に変貌を遂げるのは瞳だった。それに段々と紅が混じるようになり、完全に真紅に染まり切った時、悪魔が完全にその人体を支配下に置いたことを示す。

 しかし少年の右目は生来の色であろう緑で、左目だけが真紅に光っていた。

 聞いたことのないその姿に、ジャネットは彼が果たしてどちらなのか、判断出来なかった。


「いいよ、『ママ』」

 少年が一歩足を踏み出し、ジョン達の前へ出た。

「ダメだよ、やめて……ッ」その背中を追い掛けるのは、メアリー。しかしその直後、「人形」に肩を掴まれ、阻まれた。「離してっ! ダメ、やめて! お願い!」

「大人しく、してろ」

 氷柱のように鋭く、冷たい声だった。少年はメアリーに振り返ることなく、吐き捨てるようにそう言った。

 少年はパーカーを脱ぎ捨て、上半身を晒した。肋骨の浮いたその白い体は、夜空の下でなくとも痛々しかったが、少年は何も感じていないのか、悠然とジョン達へ歩を進ませる。

「止まりなさい!」

 ジャネットが銃口を少年に向けた。少年は動じた風もなかったが、しかし足を止めた。


「……大人、いつもそう」

 少年がポツリと呟いた。あまり流暢でない英語だった。

 ジャネットはその意味が分からず、「えっ?」と聞き返す。

「大人、いつも……、上から物、言うんだよなァ……ッ!」

 怒りだった。少年がドッと憤怒を吐き出す。彼の痩せ細った体から黒い泥が溢れ、自分達に雪崩掛かるような錯覚に、ジョンとジャネットは陥った。

 少年が体を丸め、その状態で全身に力を入れて体を震わせた。

「あ、あ、あアアア――ッ!」

 少年が絶叫する。その声に呼応するかのように、少年の背部から何かが現れた。


 腕だった。五本の指と、長い上腕と前腕、それらを繋げる肘関節。四本もの腕が少年の背中の内側から、肉を突き破るようにして発生した。


「な、ン……、それ、貴方――悪魔……?」

 ジャネットが少年の姿に絶句する。彼はその言葉に鼻を鳴らした。

「悪魔、違う。――天使だ」

 言うや否やドッと地を蹴り、少年はジョン達に向かって疾走した。


「――――っ」

 ジャネットが銃を構え――、しかし躊躇した。子供に向かって引き金を引くことが、彼女には出来なかった。

 少年が背部の四本の腕を一つにまとめ、体全体を大きく振った。巨大な拳がジャネットを捉えるその直前、立ち上がったジョンが彼女を庇った。

「ぎ――ハ……ッ」

 右腕を折り畳んで防御したにも関わらず、ジョンは大きく吹き飛んだ。

 明らかに尋常ではない一撃。あまりの痛烈さに、ジョンの頭に昇った血が降りていく。仰向けに倒れたまま、背中越しに凍えるほど冷たい石畳の冷気を感じていた。


 ……状況を整理しろ。正面には四本――いや、六本腕の子供。その奥に魔人と「人形」、そしてメアリー。敵は三人、その全員が常識外にいる。

 全員を撃退し、メアリーを救う。これがベスト。しかしそれが叶うかどうか、ジョンは素直に頷けない自分がいるのを分かっていた。ならば別の選択肢だ。――メアリーを救う。メアリーを取り返す。それだけを叶える為なら、どう動くのが最善か。

 ジョンは敵に見えないように懐に手を入れ、聖水の入った小瓶を取り、拳を濡らした。


 少年は背部の腕を揺らしながら、ジョンとジャネットを睨み続ける。

 彼の瞳の奥にある激しい怒りがどこから来るのか、それがジャネットには分からなかった。発せられる激しい熱に押されて、後ろに下がってしまいそうになった時、後ろからジョンに肩を叩かれた。

「一斉に行くぞ、ジャネット。僕はあの子供と魔人を相手する。お前はメアリーまで真っ直ぐ走れ」

「ジョン――」

 ジャネットは問うた。思わず瞳で尋ねてしまった。そんなこと、本当に出来るのか。

 しかしジョンはただ敵だけを見ていた。前だけを睨んでいた。

「本当なら僕一人でやりたいところだが、分が悪すぎる。済まないが、手を貸してくれ」

「――っ。OK、分かったわ」

 ジャネットはジョンの瞳の強さに息を呑み、しかし力強く頷いた。


「――行くぞ」

 ジョンとジャネットは同時に地を蹴った。弾丸のように躊躇なく、ただ只管に突っ走る。


 少年が目付きを鋭くし、背部の腕を自分に向かって来るジョンに向けて伸ばした。

 その腕が伸びるなんて聞いてねえぞ……! ジョンは先程までと比べてその長さを延長させた腕を見、思わず歯を噛んだ。しかし彼は速度を一縷いちるたりとも緩めなかった。

「く……っ」

 四本の触腕を躱された。その事実に、少年は初めて幼さの残る顔に焦りを見せた。目の前に迫るジョンへと触腕を戻すことは叶わず、吸い込むかのように彼の拳を自分の体に受け入れてしまった。

 丹田、鳩尾、喉元――、正中線上に並ぶ急所を射抜く瞬く間の三連突き。ジョンは聖水に濡れた拳を、少年の体に下腹部から駆け上がるようにして突き込んだ。

「ォッ!?」

 少年は襲い来る今まで味わったことのない痛撃に驚き、しかし口から出るのは叫び声ではなく、カエルが潰れたような不細工な音だった。腹から逆流して来る吐き気に耐えられず、嘔吐し出すのはその直後だった。

 ジョンは少年に拳を叩き込んだのを実感した後、残心もなしに魔人に向かって疾駆する。


 魔人は脇を走り抜けるジャネットには目もくれず、ジョンを見据えていた。まるで少年を突破し、自分の元までやって来るのを知っていたかのように。

「Fuck you, son of a bitch!」

 ジョンは怒りと速度を乗せて跳び上がり、魔人の顔に向けて飛び蹴りを放った。

 魔人は顔の前に腕を組み、ジョンの両足によるスタンプを防いだ。しかし防いだはずの腕に走った、焼け付くような痛みに顔を歪ませた。

「ブーツの靴底に十字架か。徹底しているな」

「当たり前のことを一々口に出してんじゃねえよ……!」

 ジョンの表情には憤怒が溢れていた。牙を剥き出し、皺の寄った眉間と剣のような眼光。

「あの『人形』がここにいるってことは、ホワイトチャペルでゴチャゴチャ小賢しい真似をしているのは全部てめえだってことだよなあ――!」

 メアリーが泣いているのは、目の前にいるこの男が全ての原因なのだという事実が、ジョンの中に炎を焚いた。血液が沸騰しそうなまでに熱を放つその炎が、彼を突き動かす。


倫敦ロンドンは親父のシマだぞ。あいつがいなくなったからって、てめえらの好きに出来ると思ったら大間違いだ……ッ!」


 常人ならばたじろぐであろう激しい憤怒の砲発。しかし魔人は涼しい顔をしたまま、それどころかどこか、ジョンを小馬鹿にするように笑みを浮かべた。

「くく、イラついてるねえ――。そんなに俺が憎いかい」

「……あァ?」


「父に授けて貰ったチカラが何一つ役に立たなかった、あの日が憎いかい」


「――――!」

 ジョンが目を見張る。激しい頭痛と共に、頭の中で火花を散らして、「あの日」の光景が流れ落ちる。


 夜闇。立ちはだかる男。痩せた体、黒髪。紅い瞳、牙を剥き出して笑う。地に這い蹲る自分。駆け寄るジェーン。父の怒号が迸るが、上手く聞こえない。笑い声、叫び声、悲鳴、泣き声。聞こえない、見えない。明滅する意識は、記憶の齟齬、欠落、零落、脱落、欠如にして否認と否定、意味の喪失、過去と未来の切除、悪夢だったのだという忘却願望、現実逃避と現実齟齬と今の自分は?


 去っていく三人の背中を、十字架を背にして、何も出来ぬまま――、

 ――――「彼の人」のように、十字架に吊るされることを許せるか?

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